三人姉妹

作:アントン・チェーホフ

訳:小田島雄志

演出:蜷川幸雄

出演:村井国夫、原田美枝子、荻野目慶子、高橋洋、松本典子、川本絢子、他

2000年3月25日 大阪、近鉄アート館

 蜷川演出のチェーホフは、TVで観た『かもめ』に続いて二度目。実演は初めてだ。『かもめ』と同様、舞台を取り囲む様に客席をしつらえるという、いかにも小劇場的なスタイルによる上演。いつも思うが、蜷川幸雄という人は、物凄く大胆な演出をする様でいて、実は感情の流れに関してはかなり古典的な感覚の持ち主なのではないか。彼の手にかかると、とっつき難い人物はより偏屈に、頼りない人物はより所在なげに、笑顔の奥にある哀しみはよりはっきりと表出する。劇を構成する全ての要素が、より明快な形で浮かび上がるのだ。

 蜷川幸雄のチェーホフ解釈は、少なくとも私には、不思議なほど自分の心に近く感じられる。私は『かもめ』の時と同様、かつてない程の共感を覚え、とてもじゃないが平静な気分で観ているのは難しかった。私にとって、チェーホフの戯曲というのは、劇中の言葉で言えば“時はどんどん流れ、自分はどんどん年を取ってゆくのに、自分が夢見ていた理想の生活からはどんどん離れていってしまう”哀しさに満ちた物である。幕切れの「一体私達は何の為に生きているのか、何の為にこんな苦しみがあるのか、それが分かったら‥‥それが分かったら!」というリフレインなんて聴くと、思わず「正に今自分が思い悩んでいた事を、百年も前の作家がここまで堂々と作品にしていてくれていたなんて!」と叫びたくなる。久々に人目もはばからず大泣き。

 勿論これは、誰にとってもそうという事ではないだろうし、むしろこういう、チェーホフ的人物に特有の“うまくいかなかった”“失敗した”という敗北感は、自分の人生にある程度満足していて、そこそこ満たされた毎日を送っているという人には、あまりピンと来ないかもしれない。例えば、末っ子のイリーナが、勤め先の電報局から疲労困ぱいして帰ってくるシーン。帰宅するなり彼女は、送り先の住所が分からないという老婆にイライラして怒鳴ってしまった、もうこんな仕事はたくさんだとか何とかさめざめと泣く訳だが、人によっては「そんな下らない事でなぜ泣いているのだろう」くらいにしか思わないのだろうし、むしろそこに、コメディ的な側面を見るのかもしれない。

 厄介なのは、どうもチェーホフ自身にもそういう意図で書いたふしがある点だが、作者の意向はともかく、チェーホフの解釈に関しては、意欲的に上演を続けている柄本明の一派を初め、コメディの側面からアプローチする行き方がよく見られるように思う。柄本明によれば、チェーホフの劇には一座がシラ〜っとする瞬間が多々あって、それが非常に笑えるのだという話だが、私にはそれがチェーホフの醍醐味だとは思えない。『三人姉妹』も又、『かもめ』に負けず劣らず、人生がいっぱい詰まった劇だ。イリーナが嘆いているのは勿論、下らない出来事そのものに対してではなく、ふと気付けば自分が、そんな些細な事に振り回される様なつまらない人生を送ってしまっているという、先の見えない、やるせない境遇に対してである。少なくともこの演出では、そう見える。

 ここで、ニナガワカンパニーの若手女優、川本絢子が見事に演じているイリーナは、上流家庭で甘やかされてはいても、物事に誠意を持って取り組み、真剣に生きている女性だ。最初は明朗だった彼女が、幕が進むに連れて焦燥と切望を募らせて行く過程を、この若い役者さんは、外に発散するのではなく、内にため込んでゆく形で見せる。表情が大映しになるTVや映画ならともかく、舞台でそういう表現を採るのは、口で言うほど簡単な事じゃない。今にも爆発しそうな感情を、必死に押さえ込んでいる彼女の苦闘、その虚しさ、辛さは、次第に私達の胸をも張り裂かんばかりに高まってゆく。

 トゥーゼンバッハ男爵とイリーナの関係も、蜷川演出では殊更に切なく、イリーナにとっての男爵が、尊敬こそできても、恋愛感情はどうしても持てないという悲しい相手である事が、全面的に強調されている。蜷川幸雄は、トゥーゼンバッハの役に深い愛着があるそうだが、ここではその役を、彼の信望厚い高橋洋が演じている。婚約者となったばかりのイリーナを残して決闘に向かう男爵。いかにも平常を装い、明るく去って行こうとする彼だが、急に立ち止まったかと思うと、もの凄い形相で振り返り、客席の隅々にまで響きわたる様な「イリーナ!」の大声。だが、彼はそれ以上何も言えず、かぼそい声でありきたりの伝言を残して去ってゆく。こういう演出は初めて観たが、男爵が自分の死を予期している事をものの見事に表現していて、とても感動した。

 セットは極めてシンプルで、音楽もほとんど使わず、静けさの中で緻密に芝居を組み立ててゆく感じ。終幕では、軍楽隊の音楽に合わせてスタッフが白樺の木をステージに置いてゆき、あっという間にロシア片田舎の森が完成。流しのヴァイオリン弾きがいかにもロシア民謡風の物悲しい旋律を奏でるのも印象的。ここで、一つ残念な出来事が勃発。今さらながら理想の男性に出会ってしまった既婚者のマーシャが、立場上どうする事もできず、去り行く相手をそのまま見送ってしまうという悲しいシーン。やり場の無い悲哀を狂ったようにぶちまける、原田美枝子の渾身の芝居のさなか、客席で携帯電話の呼び出し音が鳴った。狭いスペースだけに、余計に音が目立つ。原田美枝子は明らかに音の方をちょっと睨んだように思う。

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