この作品は、蜷川幸雄にオーディションで見出された藤原竜也のデビュー作でもあるが、今回は“ファイナル”と銘打たれている。もう再演しません、という事なのだろうか。ちなみに私はこの舞台、武田真治が主演した95年公演のビデオで一度みている。まず冒頭、舞台上方で使われる四台のグラインダーにやられた。ビデオではアップで撮影されたり、ロングのショットが挟みこまれたりして距離感や音の感覚が掴みにくいが、実際に舞台でみると、いっせいに鳴らされるグィーンというグラインダーの響きと、等間隔に並んだ火花の筋が舞台に落ちてくる視覚的な美しさ、これがいかに観客を魅了し、妖しい世界へと引きずり込んでゆく事か。 劇そのものは、私のような演劇に疎い者には意味が判りにくいというか、逆に言えば、非常に演劇的な言葉の連続で成り立っているような台本だが、これが、甘い蜜と毒を併せ持つような宮川彬良の音楽、耳にこびりつく不可思議なソングナンバーの数々と、奔放なイマジネーションに溢れた奇抜な舞台演出でショーアップされると、そんな事はもうどうでもよくなってくる。ただただ圧倒されるだけで、意味は判らなくてもいいという気にもなる。 限りなくいびつではあるけれど、これは結局、ショーの一種なのだと思う。だからこそ、ロンドンで字幕なしの日本語上演を行っても大喝采を浴びるのだろう。作家・夢枕獏は「何度でも観たくなる衝撃的な舞台」と評しているが、この言葉は《身毒丸》の麻薬的な魅力を端的に表している。どの場面も驚きの連続だ。私は一人で観たが、今観たものについて語り合う相手がいない事を、心から寂しく、残念に感じた |