今回のニナガワ作品は、中世イタリアのパルマ地方を舞台に、兄と妹の禁じられた恋を描くエリザベス朝時代の演劇。ジョン・フォードというと、どうしても私達、ハリウッドの西部劇の巨匠を思い浮かべてしまう(と言っても私は一本も観た事がないけど)が、このジョン・フォードはシェイクスピアと同時代の劇作家。中世イタリアという時代設定や、セリフの雰囲気、構成、現代に通じる普遍性の高さなど、シェイクスピアと共通する要素も多いが、私はこの時代の劇を他に知らないので、単に当時はみんなこういう感じだったのかもしれない。とは言っても、やはり全ての面においてシェイクスピアの優位性は明らかで、改めてシェイクスピアは図抜けた天才だったんだなあとも思う。 冒頭、真っ暗闇の中、いきなり客席背後から神父役・瑳川哲朗の声。まったく何も見えないというのに、セリフを喋りながら通路を歩いてゆくとは。凄い。舞台俳優の鏡だ。舞台がうっすら明るくなると、中央に置かれた巨大な馬の上に、三上博史が逆さにもたれている。セットは、又もや上方スペースを活用した三階建てで、前面は内側へゆるやかな弧を描き、各階にずらりと窓が並んでいる。イタリア建築を彷彿させる。これらの窓には、時折シャーッと一斉にカーテンが引かれ、内側から照明を受けて揺れる様には、何やら尋常ならざる気配が漂う。 特に、兄ジョヴァンニと妹アナベラ二人きりの場面では、舞台は薄暗いのに、窓の外にはこうこうと明るい光が射し、白いカーテンがゆらゆら揺れている所、いかにも後ろ暗いエロティックなムードがあって、彼らが置かれている立場をも暗示しているよう。一方、パーティの場面では、舞台上と客席の左右壁面に大量の燭台が使われ、役者も本物の火がついたトーチを手にしていて、これまた荘厳な美の世界が現出(ちなみにこの劇では、二つあるパーティ場面の両方が陰惨な殺人で締めくくられる)。 主演の三人をはじめ、出演者の約半数が蜷川作品初出演との事。元・宝塚娘役トップスターの月影瞳も出ている。深津絵里は、昔テレビで野田秀樹の『半神』をみて、劇自体はさっぱり分からなかったけど、例の野田秀樹調のフルテンションで怒鳴りっぱなしの芝居に圧倒された事を覚えている。生でみる深っちゃんは少し声が細く、常に喉を絞っているようで聞きづらい部分もあったけど、後半からは持ち前のパワーを発揮、谷原章介との緊迫感溢れる対決場面では、野田演劇ばりのがなり声で激しい芝居を展開していて圧巻。三上博史も、今まで軽くてシニカルなキャラクターしかみた事がなかったので、こんなに暗く、ひたむきに燃え上がる芝居をみる事ができて、ちょっとトクした気分。 びっくりしたのは、谷原章介。体躯の大きさにも驚いたが、モデル出身とは思えないほど深くて太い、あまりにも舞台向きの素晴らしい声! みんな腹式呼吸で必死に発声しているのに、この人だけ、囁くように普通に喋っても、会場の隅々にまでバリトンの美声が響き渡る。体格がああだから、内臓も欧米人型の造りになっているのだろうか。滑舌は万全ではなくて、時々アワワワ〜なんて言葉が連なってしまったりもするけど、声が良いから気にならない。蜷川演劇常連組では、やっぱり枢機卿の妹尾正文とヒポリタの立石涼子、バーゲットの高橋洋が抜群に上手い。高橋洋は『間違いの喜劇』に続いてまたコミカルな役柄だが、今回はすごく重い内容の劇なので、彼のはじけたユーモアは唯一の救いだ(でも悲しく死んでいっちゃうけど)。 クライマックス、アナベラ殺害の強烈なシーンの後、彼女の心臓が突き刺さった短剣を手に、返り血を浴びたものすごい形相のジョヴァンニが現れる晩餐会の場面、彼はソランゾ(谷原氏)のみならず、列席する人々を次々と刺殺。血まみれの三上博史が客席通路から登場し、舞台に恐ろしい悲鳴が響き渡るこの演出には、こちらまで衝撃を受けてひどく気が滅入るほど臨場感があるが、こういう時の蜷川演出は大体、私にはしっくりこない。『ハムレット』のラストでも、フォーティンブラス達が貴族達をマシンガンで掃射して皆殺しにする演出があったが、あれにも違和感を覚えた。 今回のは勿論、『ハムレット』の演出意図とは違うだろうし、自分達を受け入れない世間に対する復讐の色彩も濃いが、それが無差別大量殺戮という形で現れる限り、どうしても私はテロリズムを連想してしまう。テロに走る若者を描く事が悪いのではなくて、あくまでそれまでの文脈があった上で、主人公に感情移入してきた観客としては、テロを肯定する立場に立たされるか、或いは、主人公が突然に理解不能な悪魔に変貌してしまったように感じるから居心地が悪い、という事だろうと思う。 ただ、例えば大槻ケンヂが書く歌の中には、世界を憎んで街を燃やしてしまうような人物がしばしば登場するし、私はそういう歌詞を受け入れ、共感すら抱いた事があるのも事実である。そうなると、私の不快感は、単に蜷川演出の苛烈さ、容赦のなさのみに対するものなのかもしれない。ジョヴァンニがアナベラの心臓を一口ちぎり取り、モグモグ食べて周囲を震え上がらせるという描写もあるが、これもちょっと具合が悪い。要は、ジョヴァンニが狂気に走ったようにも取れるという事だが、観客としては、ここで主人公に狂気の影がよぎると、今までのストレートな情熱があさっての方角に歪められてしまう感じがする訳だ。 私も昔から、やる事なす事みんな世間からズレている方で、社会への一体感や参加意識を持った事はほとんどないし、人が集まる場でも隅っこに一人きりでいる事が多い。だから、社会のスタンダードというものはよく分からないし、その枠組みを自分なりに特定できたとしても、自分はやはり、それを外側から眺める立場にしかないだろうと思う。それでも私は、自分が参加できないようなこの世界に破壊衝動を覚えたり、復讐しようと思った事は一度もない。それは、蜷川幸雄の世代と私達の世代の間で、反骨精神やハングリー精神に大きなギャップがあるせいかもしれないし、単に私の受動的な性格に由来するのかもしれないが、ともかく、ここにみられる激しい展開は、私にとってあまりに衝撃が大きく、このノートを記している今に至っても、いまだに私の心にエコーを響かせ続けている。その意味では、演出の目論見は成功なのかもしれないけど。 (*後日、演劇関係の某雑誌で読んだ所によると、ラストの大殺戮はやはり原作にはなく、演出家が付け加えた描写だという。蜷川幸雄曰く、禁忌が最後にぶち当たるのは権力(当時では教会)で、ジョヴァンニは権力を支えている人々を倒しながらも枢機卿だけは殺せない、つまり権力の中枢には届かない、革命は容易には遂行できない、という演出との事。私の解釈とは少し異なっていた訳ですが、だからといって、私の受けた衝撃が弱まるわけではありません。ジョヴァンニが心臓を一口食べる動作も、三上博史が独自に加えたもの。個人的には、これは悪趣味だったと思います。) |