今年も蜷川シェイクスピアで演劇初め。『コリオレイナス』は今回の予習に初めて読んだが、シェイクスピアらしいような、らしくないような、不思議な劇。まず、主役である孤高の武将コリオレイナスが最初から毒舌全開で大笑い。コリオレイナスは高慢なのか高潔なのかという議論があるが、私はズバリ、“毒舌キャラ”なのだと思う。シェイクスピアはそういう設定に自覚的な人だという気がする。小田島雄志訳ではコリオレイナスのセリフの中で、わずか二、三行の間に「畜生め!」という無意味な罵倒が二度も語尾に付け加えられていたりする。明らかにやり過ぎである。 この後、主人公の愚かなまでに純潔で真っ正直な性格も描かれてゆくが、この劇、彼の性格が引き起こした悲劇というよりも、むしろ徹底して平民と貴族の関係を描いた生々しい政治劇という感じ。気まぐれで煽動されやすい民衆、自分達の利権を守る事しか考えない護民官、選挙のため根回しに奔走する元老院の貴族達。シェイクスピア一流の洞察とグローバルな視点で描かれたこの劇を見ていると、現代の社会も政治もここから全く変わっていない事に驚くばかり。 蜷川演出は、お得意の巨大マジックミラーを舞台全面に使用。劇の開始と共に観客の姿がそのまま映し出され、客席から「おお〜」というどよめきが起こる。ミラーの向こう側が明るくなると、舞台の端から端まで全てを使った大階段。左右から役者達が入場してくると共に、客席から拍手。今日は何だかノリのいいお客さんだ。蜷川幸雄のお家芸でもある、きめ細かな群衆演出が縦横無尽に盛り込まれた舞台で、階段の上下が登場人物の関係性を象徴するのは勿論、煽動された群衆がマジックミラーの向こうに消えてゆくと同時に、再び客席が映し出されるという場面転換も数回。演出家は明らかに、劇中の民衆と客席を重ね合わせようとしている。「目先の利益にとらわれて主人公を追い込む民衆、これはあんた達なんだよ」と言われているようだ。 主人公の宿敵、タラス・オーフィディアスを勝村政信が演じているが、いつもながらこの人、快哉を叫びたくなるほど巧い。声の通り方がすこぶる気持ち良い。その代わりというか、主人公の唐沢寿明、登場からいきなりハスキーな声で甲高く、調子が出ない感じ。『マクベス』の時はこんなではなかったと思うので、喉を痛めでもしたのだろうか。後半で徐々に盛り返したけれど、それでもどこか線が細く、他を圧する迫力に欠けて残念。蜷川演劇常連のベテラン組は芸達者そのもので、客席から大いに笑いを取っている。主人公の母ヴォラムニア(白石加代子)のセリフには、手を叩いて激しく笑っている人もいる。あまりに頑固なコリオレイナスに対し、よほどみんな共通の感情を抱いているようだ。原作を読んでいない人はみんな役者のアドリブと思うようだが、シェイクスピア劇では大抵こういう場合、台本通りのセリフで笑いが起こる。 舞台演出の大仕掛けがもう一つ、大階段の上に何重にも開くふすま絵があって、人が出入りする時には次々にするすると開いていくのが壮観。場面によってはここにお経の文字が投影されたり、実際にお経が流れたりするが、こういうのが演出家がしばしば言う、日本人の記憶とクロスさせる演出なのだろうか。私は時折、違和感も覚えるのだけれど。一方で、大階段に座布団が並べられ、そこに元老院の貴族達が座る会議の場面は面白いと思った。 |