ラテン・アメリカ文学を代表するマジック・リアリズムの旗手、ガルシア=マルケスの奇想天外な中編を、『ピアノ・レッスン』やピーター・グリーナウェイ監督の映画で売れっ子の作曲家、マイケル・ナイマンの音楽を得て蜷川幸雄が舞台化。これだけでもワクワクするラインナップだが、昨年一度延期になって、待ちに待ったという感じ。ただしチケットは一万二千六百円と正に法外で、大阪公演だけはなぜか安い席なしの均一料金。いくら物価の高い日本とはいえ、誰か何とかして欲しい。政府や地方自治体は、こういう所にこそお金を使うべきだ。劇やコンサートの価格設定を見る限り、日本は芸術分野の成熟した一級の文化的国家とは到底思えない。全国のお金持ちの皆さん、財団か何か作って下さい! 節税にもいいんじゃないですか? という事で、久しぶりにヴィジュアリスティックな蜷川作品に期待に胸弾ませて会場に足を運んだが、期待が大きすぎたのか少し拍子抜けしてしまった部分もあり、《王女メディア》や《身毒丸》の強烈な演劇体験には今一歩及ばずの恨みも。さすがに蜷川御大もパワーが衰えたのか、なんて思いたくはないのだが、一つ一つの場面は斬新だったり印象的だったりしても(例えばエレンディラの不運の元凶となる火事の場面!)、その感動がどうも散発的で、全体的なパワーとしてうわあ〜っと圧倒される感じが希薄な気がする。ちなみに小説の方は短編集で、一応《エレンディラ》の原作だけは前もって読んでおいたが、台本は他の作品も混ぜているとの事。原作は短いのに、劇は休憩を二回も挟んで三時間以上の長丁場。 会場が暗くなると、音楽と共に、魚やバスタブが舞台に浮かんでは天に上がってゆく。一つずつなのであまり迫力がないのと、吊りワイヤが丸見えで残念。そこへ奥から、板に乗せた堕天使を運ぶ人々の集団が、身体を斜めに傾けて歩いてくる。これはおおっと思ったが、かつて《王女メディア》で、絢爛たる衣装とメイクを施したコロス達が、三味線を弾きつつ体を傾けて大挙登場したインパクトに比べると、ちょっと弱い気もする。堕天使、突然空に向かって羽ばたき、すぐに力尽きて落ちて来るの図も、羽根をパタパタさせすぎて滑稽で、ちょっと笑ってしまった。その後も、ダチョウや、トラックの列や、クモ女などが舞台に登場してくるが、どれも作り物めいて、蜷川さん本当にこれにオーケー出したのかなという感じ。一方、奇術師や踊り子や大道芸人やらが舞台にひしめく場面は、群衆演出を得意とする蜷川幸雄の面目躍如。人が入れ替わったり、消えて別の場所から出て来たりと、手品の手法もあちこちに取り入れている。 問題と思われるのは、坂手洋二の脚本。ガルシア=マルケスのマジック・リアリズムって、現実と幻想が絶妙なバランスで同居するシュールさが魅力だと思うのだが、どうもこの脚本は、そこに論理を持ち込んで割り切ろうとしているように見えてしまう。小説は、最後にエレンディラが何もかも振り切ってひたすら全速力で走り続ける所が、何というか、強烈なインパクトと迫力があって、唖然としながらも妙に納得させられたものだが、この劇はそれを安手の推理小説みたいな、分かり易い謎解きに作り替えてしまう。ウリセスのキャラクターをクローズアップしたせいで、そうせざるを得なくなったのかもしれないが、私は、観客が「ええ〜っ!?」とひっくり返って終わる方がマルケスらしかったんじゃないかと思う。 音楽劇のようでいて、実はソングナンバーがあまりないこの劇、中川君の歌唱はさすが。歌の時だけマイクを使うのが残念だが、完全生演奏ではないようなので仕方ないのかも。おばあちゃんを瑳川哲郎が演じるというのも凄いアイデアだが、着ぐるみみたいのを着ながらこの人も一曲。オペラティックな発声で結構上手くて、それもびっくり。美波ちゃんは、全編ほとんど裸で大健闘。モデルさんもやっていてスタイルが良く、痛々しい感じがしないので良かった。マイケル・ナイマンの音楽は、元々そんなに好きではなかったのだが、今回のはとても良くて気に入った。葬送行進曲のようなテーマもいいし、オペラのアリアを思わせる物悲しい曲や、出演者が歌うソングナンバーも、とても印象的。 (*後日、ちくま文庫『エレンディラ』収録の他の短編も全部読みましたが、これが詩的な表現と幻想的なイメージに満ち溢れた、実に美しい短編集でびっくり。むしろ、エレンディラの原作が一番イマイチなくらい。これはいつかブックリストのコーナーでお薦めしなくては!) |