蜷川シェイクスピア・シリーズが芸文センターに初登場。5月の『ヘンリー四世』はチケットが取れず、またも一回飛ばした形になってしまったが、今回はオールメール・シリーズという意外な形。かねがね蜷川氏が嫌いだと発言していた作品だが、オールメールならありという事なのだろうか。個人的には女優さんも見たいので、この戯曲なんて通常上演して欲しかった所だが、自宅から徒歩圏内で見られるのはありがたい。そう感じた人も多いのか、客席の年齢層もかなり高いような。 この戯曲は、今までに見た上演が人種差別に焦点を当てた演出ばかりで、シェイクスピア・シスターのも劇団四季の浅利慶太のも、最後にシャイロックが殴る蹴るの暴行を受ける描写が入っていた。キリスト教徒側の身勝手さ、残酷さを強調するためであろうが、そのやり過ぎ感が個人的には不愉快で、シェイクスピア特有の多様な視点とも相容れないんじゃないかと思っていたら、主演の猿之助もインタビューで、シャイロックはやっぱり悪者だし、そういう風潮には抵抗したいと語っていた。 一方、蜷川氏はキリスト教徒側に不快感を示していて、どうもそれがこの戯曲を嫌う理由らしいのだが、むしろ周辺人物を金銭で繋がった打算的な関係と捉えている所が面白い。ただしこれは発言の話で、実際の舞台は、むしろ演出家や出演者達の言葉と全く逆という印象。結局は原作の言葉でやるしかない訳で、アントーニオ達の友人関係は全然打算には見えないし、シャイロックもいくら悪徳とはいえ、やっぱり哀れである。 シェイクスピアに人種差別社会を告発する意図はなかったと解釈されているけれども、シャイロックのセリフはどう考えても彼の置かれた立場を理解しなければ書けない類いのもので、いくら当時の聴衆でも、これらセリフの正当性が説得力を持たなかったとは考えにくい。緩急巧みで迫力のある猿之助の芝居も、シャイロックを可哀想に演じるつもりはないといいながら、結局の所、自業自得以前にすこぶる不当に扱われてきた人間である背景を、はっきりと客席に伝える。 唯一問題だと思ったのは、彼が歌舞伎風の様式を演技に持ち込む度に客席から笑いが起り、その内に登場するだけで笑いが起るようになって、シリアスな場面においても常に笑いが絶えないという状況、良いのか悪いのか微妙な所。個人的には、そういう劇じゃないだろ、という気持ちもある(これは演者より観客が悪いのかもしれないけど)。 アントーニオの高橋克実以下、他のキャストも充実したアンサンブルで見応えあり。特に若手で、ポーシャを演じた中村倫也は素晴らしいパフォーマンスで圧巻。後半、男装して法廷に乗り込む所は、男優でありながら男装した女性を演じなくてはならないという、非常に複雑で難しい演技を要求されるが、ただの男性弁護士にならず、ちゃんと変装した女性を表現できているのが凄いと思った。 セットは過去作品の使い回しが多いように見えるが、やっぱり蜷川幸雄が展開する演劇空間の迫力には独特のものがある。これが地元の西宮で観られて感無量。周到に計算された場面転換や音楽の効果と相まって、久しぶりに見てもさすがと感じる舞台だった。 |