8人で探すリア王 

作:ウィリアム・シェイクスピア

訳:松岡和子

演出:鴨下信一

出演:白石加代子、池畑慎之介、菊池麻衣子、裕木奈江、デビット伊東

   合田雅吏、宝井誠明、植本潤

1999年6月19日 新神戸オリエンタル劇場

 『リア王』は実に巨大で深遠な悲劇。個人的にはとっつきにくい印象もあるが、今回のは、今までのイメージとは少し違う、もっと身近で、親しみやすい切り口を持った舞台。この劇も他のシェイクスピア作品と同様、現代に通じる普遍的なテーマを扱っているが、こういう演出でみると、ほとんどもう、橋田寿嘉子作のドメスティックなホームドラマに近い感じ。

 考えてみればこの戯曲、形態としてはまず遺産相続と老人問題のドラマで、内面的には口先と本心という、人間の二面性に関する寓話でもあって、さらに不倫のドラマがあり、異母兄弟のドラマがあり、変装のドラマがあり、究極的には嫉妬と策略のドラマって事にもなる。で、この鴨下信一という演出家、それをどういう形で見せるのかというと、まずは、どこかの大学教授とゼミ学生の一行八人を客席通路から舞台に登場させる。ロンドン観光の後、リア王の墓を見物する為に、この、花が咲き乱れる美しい廃墟にやってきた由。そこでピクニックを楽しみながら、みんなで役を分担して『リア王』を朗読しようという事になる。

 だから彼等は終始現代人の格好のままで、一人が何役もこなし、自分の場面が終わっても舞台に残り、ピクニック・シートに戻っておやつを食べたり他の学生とお喋りしたりしながら、芝居を見物している。この戯曲には、変装して他人の目を欺く人物が二人も出てくるので、こういう演出だとその辺が余計に分かりにくくなるというデメリットもあるが、それでもこの手法は、『リア王』を普通の学生たちの視点で描く事で、作品に対する目線を私たち観客と同じ高さにまで下ろしてくる。

 結果的に私達が見るのは、テレビで良く知っているタレントや役者達であり、英国を訪れたゼミ学生の一行であり、リア王の物語の登場人物であるという三段階の立体的な構図になるが、不思議なもので、最初は違和感を覚えても、見ている内にすっかり劇に引き込まれ、雑念は消えてしまう。それに、例えばグロスターが両目を抉られるという陰惨な場面でも、意図的なチープさで笑いを誘う(グロスターの顔の辺りから赤い毛糸玉がポンと飛び出す)事が許されたりする。この場面で笑いが起こるなんて前代未聞だと思うが、これこそ立体構造であるが故に獲得できた利点で、そういうアイデアの枝葉一つ一つが、観客が、かつてない程この作品に接近するのを助ける。

 役者陣は息がぴったり合っていて、カンパニーとしてのまとまり充分。作品のキーとなる二人の人物、リア王とコーディリア(表面上は最も強い人物と最も弱い人物で、内面はその逆だ)の二役を白石加代子が演じるというのは、いくら何でも無理がある気がしたものだが、流石に芸達者な彼女の事、いつもの名調子で全てを語り尽くし、一点の不満も残さない。すごい人だ。一方ピーターは、年齢を感じさせない(失礼!)軽快な動きで道化を演じたかと思うと、威厳たっぷりのグロスターを重々しく演じたりと才気煥発。そういえば彼は、『リア王』を下敷きにした黒澤明の映画『乱』でも道化を演じて賞賛の的となった事があった。

 最年長の白石加代子が純潔な末っ子コーディリアを演じ、欲深い姉二人を若手の祐木奈江と菊池麻衣子が受け持つのは、逆説的で面白いキャスティング。テレビ等で見る彼女達からは想像もつかない大胆な芝居にびっくり。横柄な所作で不快感全開の祐木奈江。ドスの利いたダミ声で悪女を演じる菊池麻衣子はこれが初舞台という事で、堂々たる芝居っぷりに拍手。デビット伊東はなんと四役も演じ、コント風の多彩なキャラクター作りを披露。役者然とした自信にも満ちあふれ、しきりに感心する。

 緑あふれる廃墟を現前させるリアルなセットも凄いなと思っていたら、蜷川作品でお馴染みの中越司が美術を担当していた。道化の歌も、笠松泰洋が作曲。シェイクスピアの上演は実験的な物も多く、幻滅させられる事もしばしばだが、今回の演出は素晴らしい。こういうアレンジなら大歓迎だ。ちなみに鴨下信一は、白石加代子の百物語シリーズ(怪談や短編小説を朗読する舞台)の演出家。今回の『リア王』も朗読物という設定だから、考えてみれば、百物語の延長線上にある演出と言えるかも。

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