絶対音感とは、大雑把に言って、楽器などを頼りにしなくても無伴奏で正確に音程を取れたり、逆に、耳にした楽器音や自然音の音程を言い当てる事のできる能力です。著者はその定義を、音楽界で最も権威があるとされるニューグローブ音楽辞典から引用して「ランダムに提示された音の名前、つまり音名が言える能力。あるいは音名を提示された時にその高さで正確に歌える、楽器を奏でる事ができる能力」としています。私自身は、たまたま何かの曲を口ずさんでいて、それを鍵盤で確かめてみるとオリジナルのキーと符号している事も多いので、この能力があるような、ないような、という感じでしたが、この本を読んで、本当の絶対音感というのが、そんな手ぬるいものではない事を知りました。 なんと、精確な絶対音感を持つ人は、小鳥のさえずりや物音ですらドレミの音階で聞こえ、さらには、何十ヘルツという微妙な音程の差異まで聞き分けるというのです。想像を絶する世界です。私は音楽愛好家で、かつアマチュア作曲家であるにも関わらず、絶対音感という題材そのものにはさほど興味がなかったのですが、著者の取材は徹底しており、題材に関係なく、ある特定のテーマを追ったノンフィクションとして、純粋に面白いと感じました。 時に、構成や文体が小説みたいな文学的雰囲気を漂わせたり、主題が絶対音感からどんどん離れて、アーティストの苦労話・成功裏話みたいになってゆく所は「絶対音感に関するノンフィクションとしてちゃんと成立してるのかな?」と少し気になったりしますが、それはそれで内容自体は面白いので、個人的には楽しめました。特に、取材されているアーティストの顔ぶれの豪華さは、音楽関係の本の中でも屈指のもので、ジャンルも経歴も極めて多岐に渡っています。取材協力者の一覧をざっと見ただけでも、池辺晋一郎、大貫妙子、大友直人、KAN、五嶋みどり、財津和夫、三枝成彰、佐渡裕、千住真理子、別宮貞雄、三善晃、矢野顕子、渡辺香津美などなど、錚々たる名前が並んでいます。 あとがきで触れられているように、著者の最相葉月はたまたま会話の弾みで“絶対音感”というものに興味を持ち、百人の音楽家に「絶対音感はありますか?」と手紙を出すという、ほとんど無謀とも言える方法で、取材を開始しています。アンケートの回収率は約半数。白紙無記名で返送されてきたり、「あなたは何も分かっていない」という手紙が添えられていたりしたといいます。しかしこの、業界の知識やコネが無かったからこそ出来たのかもしれない単純かつ大胆な方法は、驚くべき成果を挙げるのです。彼女は、文庫本のあとがきでこう書いています「後にいろんな人から、なぜあんな著名人を取材できたのか、なぜあの組織を取材できたのか、などと不思議がられたが、何もない。すべて一通の手紙がきっかけである」。 必ずしも、医学面からアプローチしてゆくような学術的な本ではありませんが、絶対音感にまつわる音楽家達のエピソードや見解を満載した前代未聞の書物として、大変な存在感があると思います。ベストセラーを記録したので、書店で見かけた人も多いかもしれませんね。音楽業界のみならず、多方面で話題を呼んだ本ですが、若い新進ライターが、斬新なテーマ、大胆な切り口でドキュメントを構成してゆく様は、なかなか爽快なものです。第4回小学館ノンフィクション大賞受賞作。 |