この本、面白すぎ。(大槻ケンヂ風に書いてみました)。片や臨床心理学者で、現在も心理療法の第一線で活躍中の河合隼雄。片や、チベット密教を自ら体験し、数々の著書でニューアカデミズムの中心的存在と目される中沢新一。河合隼雄はもはや対談の名手というか、ありとあらゆる分野の対談本に名前を見つける事ができますが、この二人の対談というだけでもう、私なんかはモリモリと読書欲をそそられてしまいます。 章によって話題は様々ですが、あらゆる宗教がある一点を超えるとみんな似たような事を言い出す、そこに宗教の枠を越える普遍的な何かがあり、そこに一番近いのが仏教である、というような思想が全編に底流しています。実際、欧米などキリスト教の文化圏では、善と悪の二項対立的な価値観に限界を感じはじめた人の多くが、善悪は人間が作り出した概念に過ぎず、本来はみな一つのものであるという仏教的価値観に傾き始めているといいますし、強固な“言語の世界”である欧米において、言語で表しきれないものもイメージとして捉えている東洋やアメリカ・インディアンの世界観が注目を集めている状況も述べられています。 私は常々、どうして日本に西洋型の徹底した個人主義が生まれてこなかったのか不思議に思っていたのですが、本書によれば、神という普遍がない日本人に自我の確立は不可能である、という事になります。神との関係があるから自分一人で立てるのであって、キリスト教抜きでは自我の確立どころか、デカルトすら理解出来ない筈だと。善悪の概念でも、懺悔によって罪の許しを乞うキリスト教に対し、仏教では、自分の行いがそのまま自分に帰ってくるわけです。神様に怒られるわけじゃないけれども、解脱できずにいつまでも輪廻を続けてゆくわけですから、結局自分が損をするだけですよ、という考え方ですね。自分自身が解脱して仏陀となるわけですから、最後の審判を行う第三者、人格を持った絶対的他者としての神がいない。単に物理的に、行いが良くないと輪廻転生のサイクルから抜けられないシステムになっている、という事です。 それでいて、面白い事に、近代科学というのはヨーロッパ、キリスト教文化の中から生まれてくるのです。キリスト教の教えは、科学の概念と真っ向から対立するものです。しかし、対談者二人がいうには、キリスト教が「神が世界を創った」と言ったから、つまり対立する考え方だったからこそ、近代科学が生まれて来たというのですね。仏教の概念は科学と対立しない。対立しないから科学は生まれてこないわけです。 本書では他にも、宮澤賢治の著作に見られる悪や悲しみの概念、ユングやレヴィ=ストロース、インディアン神話についても多くが語られています。特に注目したいのが、河合隼雄が心理療法に取り入れている箱庭療法の実例を写真付きで紹介している所です。私のような素人が読んで簡単に分かるようなものではありませんが、分からないままに症例と箱庭の変化を追っていても、なかなか興味深いものです。 その関連で、これも河合隼雄らしい主題ですが、抑鬱症(デプレッション)に関して、面白い解釈が出てきます。抑鬱症の人は、もう何をやっても虚しくて、普通の生活すら出来なくなってしまうそうですが、河合隼雄と中沢新一によれば、普通どんな人も空虚さは抱えているもので、その空虚さを満たすために、おしゃべりしたり、おいしい物を食べたり、おしゃれをしたりしてごまかしているという事になります。デプレッションになる人というのは、そうやってうまく空虚を埋められない、普通に幸福と言われている事にだまされない人である、と。つまり、普通はだまされているからデプレッションにならないわけです。これは、とてもよく分かります。 仏教関連のモティーフは、この二人が再び対談を行った本『仏教が好き!』(朝日新聞社)でもたっぷり議論されていますが、私のような、特定の宗教に所属しない人間でも、色々と本を読むと、どんな宗教にも必ず何かしら教えられる事があるものです。特にこれからの時代は、様々な宗教について知るという事が、ますます重要になってくるのではないでしょうか。これら二冊は、単に知的好奇心をそそる刺激的な読み物としても、テロや犯罪に脅かされる未来に希望の光を見いだすヒントの一つとしても、強くお勧めしたい本です。 |