欧米の人達の物の考え方というのは、往々にして、キリスト教のそれと切っても切り離せない関係にあります。特に芸術の分野では、キリスト教及び聖書の概念やエピソードを知識として持っているかどうかによって、作品の理解度に大きな差が出てきます。芸術に関する知識と理解をさらに深めたい人、さらには、ここで心機一転、欧米社会に華々しく鳴り物入りして、現地のコミュニティでまったりやっていきたいと思っている大胆な諸氏にあられては、キリスト教の思想を深く理解する事は必要不可欠となってくるに相違ありません。 ちなみに私は特定の宗教にのめり込む事もなく、日本で地味な生活を送っておりますが、幼少の頃は、たまたま校区の関係でバプテスト教会の幼稚園に通い、たまたまミッション系の大学を卒業し、たまたま父がカトリック系の会社にいたので、自らアクションを起こす事なく、日曜日の礼拝やクリスマスのミサ、イースターのお祭りやバザーなど、キリスト教の行事に参加する機会を多く持ってきました。幼稚園のクリスマス会ではキリスト降誕の劇でベツレヘムの星を持った事もあります(持つだけ。多分セリフが無かったからかも)。 そんな私が、キリスト教と聖書について、欧米人並みの深い知識を得るに至ったかというと全然そんな事はなく、聖書は大小二冊も持っていながら、何度か読み始めては挫折し、放っておいては数年後に思い出したように読み始める、その繰り返しで一向に前進しません。それでもなぜ再トライするかというと、単なる学術的興味もあれば、現代思想や政治問題との絡みで少しは理解したいというのもありますが、やはり、芸術鑑賞に関わる部分が大きいわけです。美術や建築は勿論ですが、文学や映画や音楽、それも、ことクラシックの声楽分野においては、聖書のエピソードや福音書に題材を採った作品が相当の割合を占めているわけで、それらがみな群を抜く傑作である以上、とても無視するわけにはいきません。 そんなわけで、聖書の内容をかいつまんで(かつ体系的に)把握でき、しかも読んで面白い本はないかと、長年に渡ってボヤーと探すともなく探していた所、たまたま出会ったのがこの本です。ぬるめのおやじギャグには少々面食らいますが、何と言っても阿刀田氏は、あの分厚くて読みにくい聖書を全部読み、その内容を吟味した上で、一番分かり易い辿り方を見つけだすという、最も過酷な仕事を代わりにやってくれているのですから、多少の事で文句は言えません。愛想笑いの一つでも返して差し上げるのが礼儀でしょう。 さて、旧約聖書とは、ユダヤ教の正典を継承したものをキリスト教で“旧約”と呼んでいるものですが、内容自体はかなり面白く、むしろスペクタクル満載の一大エンターティメントとさえ言えます。詳しくは本書を読んでいただきたい所ですが、ソドムとゴモラ、ヤコブの梯子、ヨセフの夢占い、モーセの十戒、エリコの城壁、サムソンとデリラ、ダビデ、ソロモン王、天地創造、カインとアベル、ノアの箱船、バベルの塔、ユディットなどなど、絵画や小説、映画、ミュージカルなどで描かれてきた面白エピソードが目白押し。著者は、これらのエピソードを一つ一つ、おやじギャグ、いやユーモアを交えながら分かり易く解説しています。 一方新約聖書は、一人の作者がストーリーを語っていくのではなく、様々な人物の書いた手紙や福音書で構成された、一種のオムニバスになっているのが特徴ですが、著者はその内訳を、1「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書」、2「使徒言行録」、3「パウロの手紙(ローマの使徒への手紙、コリントの使徒への手紙など十三巻)」、4「その他の手紙(ペテロの手紙、ヘブライ人への手紙など八巻)」、5「ヨハネの黙示録」という五つのグループに分類しています。全体的には、ここから登場するイエス・キリストの言行がメインとなるのでしょうが、ドラマティックな場面も多く、心ならずもイエスを裏切ったペテロが自分の弱さを嘆いて大泣きする所など、胸打たれる箇所も少なくありません(これはバッハの不朽の名作《マタイ受難曲》の中でも最も感動的な音楽の一つとなっています)。 本書では、肝心の“精神”の方はそんなに取りあげられていないようですが、物語に焦点を当てるのは、取っ掛かりとして親しみ易い切り口だと思います。著者自身は信仰を持たないという事なので、宗教と聞いてちょっと引いてしまうような人にも、同じ目線で書かれた本として受け入れ易いでしょう。似た趣旨の本を他に読んでいないので断言はできませんが、文体も平易で取っつき易い上、美術作品との関連や観光ガイド的な著述も盛り込んであって、入門書として最適かと思われます。最適すぎて、また本物の聖書を読む努力を先延ばしにしてしまいました(これはダメです。皆さんは真似しないように)。ちなみに著者は、『ギリシア神話を知っていますか?』という本も出しているので、合わせてご紹介しておきます。こちらも芸術鑑賞には相当役立ちますよ。 |