“日常を描きながら、おそるべき洞察力で人間心理の機微を描き出す短編集”

『台所のおと』(講談社文庫)

 幸田文

 私は幸田文の熱心な読者ではなく、たまたま妻が所有していた数冊を、せっかくだからと貧乏根性で読んだだけに過ぎません。もちろん個人的な印象ではありますが、この人の作品、特にエッセイは、あまりに淡々としていて読み通すのがしんどいものも多い一方、時おり思わず背筋がピンと延びるような、妙に凄みを帯びたものがあります。私が読んだものの中では、『父・こんなこと』と本書がそうでした。

 本書は短編集で、描かれる状況もさまざま、主人公も男性だったりします。病に伏した料理人が、妻の包丁の音に変化を聞き取る表題作『台所のおと』に始まり、結核の夫を持つ妻の心理を驚くべき洞察力で描いた『食欲』、ある下駄をめぐる、ごく短くも深く心に残る佳篇『蜜柑』など、どれもすこぶる鋭い視点で人間心理を掘り下げていて圧倒されます。

 日常の描写が多いのと、病人がよく出て来るのは、著者の実人生を反映しているのでしょうか。中には、思わず主人公と著者を同一視して、エッセイのように読んでしまう短篇もありますが、それにしても、何気ない日常の中に、どれほどの人生の機微が潜んでいる事でしょう。ほとんど身の回りの事だけを書いているようでいて、その小宇宙の底知れぬスケール感は尋常ではありません。

 今はさも夫婦で一つの列車に乗っているような気でいるけれども、よく見ると別々のレールの別々の列車が接近して同じ速度で走っているだけで、ちょうど同乗しているのと同じように錯覚しているだけ。隣に密着して走っている列車は、急にどこかに逸れてなくなるんじゃないか。夫が病に倒れた事で、夫婦という関係をそのように意識しなおす主人公。人の心をこんな風に描けるなんて、幸田文は本当にすごい作家だと思います。

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