二度の大戦、結婚及び夫との死別を経た、ギンズブルグ自身の経験を描いた家族小説。登場人物は全て実名で、本当にあった事だけを書いているという事なので、実際にはフィクションではなくエッセイなのですが、著者自身が「小説として読んで欲しい」とまえがきで明言しているし、読後感も小説のそれに近いです。 特徴的なのは、出来事が必ずしも彼女自身の目を通して描かれる訳ではなく、客観的な視点から綴られている事。なので著者がそこに不在で、見た筈のない出来事さえも、生々しい臨場感で描かれます。その点やはり本作は、小説と呼ぶべきなのでしょう。一家はユダヤ人だし、ファシズムとナチスによる迫害の時代を描いていますから、当然悲惨な出来事もたくさん起きますが、著述の客観性ゆえか、むしろ淡々と描写されてゆくので非常に読みやすいです。 又、タイトル通り「会話」をメインとしているので、文学的なレトリックや情景描写はほとんどなく、むしろダイアローグの羅列が続いてゆく箇所が多い印象。「会話でたどる一家の歴史と肖像」とサブタイトルを付けてもいいくらいです。ラストもまるで映画みたいで、両親の他愛のない言葉の応酬で終ってゆきます(映画ならそのままフェイドアウトしてゆくイメージでしょうか)。 注目したいのは、全編に溢れるユーモア。末娘である著者ナタリアは、風刺の精神を含んだややシニカルな視線で各人物を見つめていて、特に彼らの口癖に関しては、まるでそれしか言っていないみたいにしつこく繰り返して笑いを誘います。例えば、父親が相手を見下して言う「ロバめ」「あいつはロバだからな」という言い回しは、戦前戦後を通して様々な会話の最後に、オチみたいに付け加えて誇張されます。 このユーモアが人物に独特の複雑な奥行きを与えていて、極度に封建的な父親や、家族や友人の烈しい対立を描いてさえ、背後に著者の愛情が感じられるのが面白い所。投獄された父親がどこか満足げに帰ってきたり、戦後は医者になった三男が退屈だ退屈だとこぼし、「昔は少なくとも逮捕されたりとかしたのに、今じゃ逮捕さえしてくれない」とぼやく所もおかしいです。 全編に漂うヒューマンな暖かみと人間模様の味わいは、例えようもなく素晴らしいもの。もちろん本作は、ある特定の状況の、特定の家族を描いていて、著者の経験は他の誰とも異なる、世界に一つの経験です。現に、この家族は作家のチェーザレ・パヴェーゼや、タイプライターの世界的メーカーとなったオリヴェッティの一家、近代イタリア文学の一端を担ったエイナウディ社の面々とも深い繋がりがあるのです。 なのに読んでいると、国も文化も時代も著者とはまるで違う私のような読者であっても、これらがほとんど自分の人生の一部に思えてくる。彼らの物の見方、感じ方に人類共通の普遍的な情感が底流していて、その温もりと愛おしさ、懐かしさが、登場人物を読者にとって限りなく近しい存在にしているのです。それは正に、本物の文学作品である証左なのでしょう。 |