洞察力に富んだ鋭い人格描写で“魔女”と呼ばれたアメリカの作家、シャーリイ・ジャクスンの代表作。1965年に49歳で早世したため著作は多くないですが、他にも短篇『くじ』や、『たたり』『ホーンティング』としてハリウッドで映画化された『丘の屋敷』(旧訳『山荘綺談』)は有名です。 近年日本でも再評価が進み、今では長編7作品が全て翻訳済み。個人的にお薦めなのは、処女作の『壁の向こうへ続く道』と『処刑人』(別訳『絞首人』)です。スティーヴン・キングが史上屈指のホラー小説と激賞した『丘の屋敷』は、唯一ジャクスン節の悪意があまりない作品で、それほど怖い怪奇現象が起こる訳でもないので、純粋な恐怖小説としてもあまりお薦めできません。『鳥の巣』は都会が舞台の多重人格物ですが、展開が複雑すぎて、人格が頻繁に交代する後半などほとんどドタバタ・コメディ。 『日時計』はぶっとんだ終末物で、ぞっとするような悪意が展開される凄いシーンも途中にありますが、なにせ設定が突飛すぎて最後まで受け入れ難いのが問題。その点、『処刑人』は実際にあった少女失踪事件にインスパイアされた学園物で、女学校を舞台にしているだけあって、社会的な人間関係や虚栄心、嫉妬、生理的嫌悪感、自己愛、マウント競争など、随所に辛辣な人間観察眼が発揮されています。 ただ、彼女の長編にありがちなのですが、最初は「おお、これは凄い」とのけぞってしまうのに、後半の展開が緩くて焦点がぼやけてしまう事が多く、『処刑人』も例外ではありません。そんな中、『壁の向こうへ続く道』は悪意の切れ味を最後まで維持。群像劇で、数ページ単位で主人公がバトンタッチしていくせいもあるのでしょうか。郊外の住宅地の日常を描きつつ、最後に事件が起こりますが、事件そのものよりも住民たちの内面的リアクションの方が恐ろしいという、正にジャクスン流の視点です。 本書『ずっとお城で暮らしてる』は、いわゆる「屋敷物」である点で『丘の屋敷』『日時計』と共通し、邪悪な人間心理を描く点では一連のジャクスンの流れに乗っています。一家毒殺事件の唯一の生き残りである姉妹が、悪意に満ちた外の世界から逃避して屋敷に閉じこもっているという話。そこはジャクスンの事ですから、クライマックスにはその悪意が爆発します。解説で桜庭一樹は本書を、「すべての善人に読まれるべき、本の形をした怪物である」と書いていますが、正に言い得て妙。 悪意というものを、リアルかつ文学的に書くのは、実はけっこう難しいのではないかと思います。大抵は作劇のための道具になってしまう。「イヤミス」を得意とする作家はたくさんいますが、ストーリー展開が作為的、キャラクターも人工的なものが多く、ジャクスン作品のように人間性に迫る、真に背筋が寒くなるようなものにはなかなか出会えません。 決定的に違うのは、ジャクスンの場合、登場人物が示す悪意のみならず、作者自身が登場人物に対して悪意を持っているケースがしばしばみられることです。『処刑人』でしつこく出てくる主人公の父親の手紙など、それ自体は愛情のこもったもので害はありません。ただ親の情愛を示すユーモラスな文章として淡々と掲載されるだけですが、読み手はなぜかイライラしてしまう。著者はこの父親に、絶妙に鼻につく俗物的なセンスや、自己満足的な無神経さを見ているわけです。 ジャクスンが凄いのは、それが全く人工的ではない所で、それどころかむしろ「あるある」になっている。デフォルメすらほとんど感じ取れないくらいです。そういう人物は今も昔も、日常の中であちこちにいる。ただ、その切り取り方というか、敢えてそんな事を小説の中で描くのが意地悪なのです。その点では彼女より少し上の世代で、短篇の名手として知られたイギリスの作家サキと似た資質を感じます(男性作家ですが、彼もしばしば女性のマウンティング合戦を描きます)。 我が国では、夏目漱石も登場人物を徹底的に皮肉って茶化す傾向があり、それはもう幼児から、猫やセミまで擬人化して馬鹿にするほど容赦がないですが、漱石の場合はあくまでもユーモラスな笑いを志向する印象があります。これがジャクスンとなると、人間の行動心理を冷徹に見透かすようで恐ろしい。「魔女」と呼ばれるゆえんです。 それでも暗く、重苦しい「イヤミス」にならないのは、彼女の作品にあまり「絶望」が感じられず、あくまでも人間の本質を見つめるリアリズムという、文学性に根差しているからでしょうか。あるいはただ、そう書かずにはいられなかっただけなのかもしれませんが、ストーリー上の効果ばかり追いかけると、やはりゲーム性が強くなって、人工的に絶望を醸成する「イヤミス」になっていくように思います。推理小説やミステリは元々そういうジャンルなんだと言われてしまえばそれまでですが。 |