“当代きっての物語の名手が贈る、悲しくて暖かい、不思議な音楽小説”

麦ふみクーツェ』 (新潮文庫)

 いしいしんじ

 数学者の父、ティンパニ奏者の祖父と三人で暮らしている、飛び抜けて背のひょろ高い少年。音楽家を志し、街のみんなから“ねこ”と呼ばれている彼は、ある日、屋根裏から「とん、たたん、とん」という麦ふみの足音が聴こえてくるのを耳にする。少年と街のみんなに次々と降り掛かる、不条理な災難と大きな哀しみ。そして彼の数奇な人生に、通奏低音のように付きまとう、不思議な麦ふみの音。

 いしい作品を読むのは全くの初めてでしたが、私は即刻魅了され、続いて読んだ『ぶらんこ乗り』や『トリツカレ男』などすっかり夢中になってしまいました。なにしろ彼が紡ぎ出す物語の、独創的で、物悲しくて、暖かい事といったらありません。童話のような雰囲気を持ちながら、その実、私達の住む現実社会と地続きで繋がっている、不思議な世界。主人公の“ねこ”が住む港町も、彼が通う音楽学校がある街も、どことなくヨーロッパ的な雰囲気(特に後者はザルツブルグを想起させますね)があって、宮崎アニメのようなロケーションも脳裏に浮かびますが、そんな光景の中で展開する奇想天外な物語は、じつは現実に起こってもおかしくないくらい、リアルなディティールや身近な素材の組み合わせで語られています。

 いしい作品では、主人公達に、すこぶる過酷で辛い出来事が次々と降り掛かってきます。ところが、彼らはみんな、悩んだり苦しんだりしながらも、起こった出来事にプラスの面を見つけ出し、より良い未来と幸福に向かって、健気にも一歩ずつ足を踏み出してゆく。だから、とても胸の痛む、悲しいお話ではあるけれど、その先にはいつも、幸せな読後感が待っているのです。『麦ふみクーツェ』のこの一節は象徴的です「降った雨は空へもどせない。ひとはなにかをなくせば、なくなったそこからやっていくほかない」。

 彼も又、希代のストーリーテラーではないかと思うのですが、中島らもとの対談本などを読むと、ご本人は至って普通の、大阪のおもろいおっちゃんという感じなのも面白い所ですね。しかし、『ぶらんこ乗り』の作中に登場するたくさんの短い創作童話の幾つかは、作者が実際に幼少の頃に書いた作品だそうで、驚きました。ちょっと信じられない感じもしますが、昔から創作の才に恵まれた子供だったんですね。

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