“ユーモアと皮肉と人情の機微〜ひたすら楽しい!ケストナーの大人向け小説”

雪の中の三人男  (創元推理文庫)

 エーリヒ・ケストナー  訳:小松太郎

 ケストナーと言えば、『飛ぶ教室』『ふたりのロッテ』『点子ちゃんとアントン』など児童文学の第一人者として、ドイツのみならず世界中で愛されている人気作家ですが、そんな彼が大人向けのユーモア小説を発表していた事をご存知でしょうか。私は最近まで知りませんでした。『一杯の珈琲から』『消え失せた密画』『雪の中の三人男』のユーモア三部作は、いずれも小松太郎の翻訳で創元推理文庫から出ていますが、これらの小説の面白いこと面白いこと。読み始めたら止まりません。

 『一杯の珈琲から』はドイツとオーストリアの通貨規制を逆手に取り、主人公の男性がドイツでは大金持ち、オーストリアでは一文無しとして国境を行ったり来たりする喜劇。三部作全てがそうですが、どれもシチェーション・コメディ的な側面が強い上、軽妙洒脱な語り口や皮肉たっぷりの描写、優雅な背景や頭の切れる美女との小粋な恋愛模様など、どこかエルンスト・ルビッチやビリー・ワイルダーの映画を思わせる雰囲気もあります(だって1930年代に書かれた小説ですからね)。

 『消え失せた密画』は、高価な密画をドイツまで運ばなくてはならない美術品収集家の美人秘書と、偶然デンマークで知り合った肉屋の親方が主人公。その密画を狙う盗賊団や挙動不審な青年も現れ、あれよあれよという間に二転三転するストーリーは、本格派ミステリとしても通用するほどの面白さですが、それをあくまでユーモアとウィットで描き切る所がケストナーの魅力。私は何度も大笑いしてしまいました。

 『雪の中の三人男』は、文庫本の帯に「読んでいる間ひたすら幸せな大富豪←→大貧民とりかえばや物語」と書かれていますが、これは誇大広告ではありません。社会勉強をしたい欲求に駆られた大富豪が、自社が企画した旅行の懸賞に自らを当選させ、敢えてホームレスの格好で超高級ホテルに乗り込むという話。この懸賞にはもう一人、失業中の青年も当選していて、「大富豪がホームレスに化けてやってくる」という噂を耳にしたホテルの従業員や常連客が彼をその大富豪だと勘違いした事から、とんだ騒動になってしまいます。

 特筆すべきは、やはりケストナー一流のシニカルな人間観察。それでいて辛辣になりすぎず、常にヒューマンな暖かさが漂っている所がケストナーの美点です。件の高級ホテルを描写する彼の筆致は冴え渡ります。「ブルックボイレンのグランドホテルは常客用のホテルだ。客はすでに常連か、でなければ常連になるか、どっちかだ。それ以外の可能性はまずほとんどない。ぜんぜんグランドホテルに来ないということは、むろん考えられる。しかし一度このホテルに泊まって、二度と来ないということは、絶対にあり得ないと言っていい。ところでこの常連の種類は千差万別であるかもしれないが、金はみんな持っている」。

 或いは、こう「その頂上に立った者は、幸福感と一望千里の眺望にすべての理性を失い、靴にスキーを結びつけて、凍った雪と粉雪の中を、氷の瘤と吹き埋められた牧場の囲いを乗り越え、ジャンプと、ボーゲンと、ターンと、転倒と、滑降で、うなりをあげて谷底めがけて突進する。下まで来ると、ある者はウィンタースポーツ・ホテルへ五時のお茶に入ってゆく。またある者は医者へかつぎこまれる」。

 これらの作品は、勿論ストーリーの方も綿密に組み立てられていて、張り巡らされた巧妙な仕掛けが大団円に向かって収束してゆく様は痛快そのものですが、そこに必ず人情の機微が盛り込まれているのが、凡百の小説とは違う所です。それに三作共、“人が死なない”小説でもあります。だからこそ「読んでいる間ひたすら幸せ」なわけですね。何と言うか、読んでいて、とても気持ちが良いのです。

 ちなみに、ケストナーには他にもユニークな本が幾つかあります。役に立たない物の代名詞のように言われていた詩を薬に見立て、効能ごとに分類した『人生処方詩集』、《ドン・キホーテ》や《長靴をはいた猫》など欧州の有名なお話を自己流に語り直した『ケストナーの「ほらふき男爵」』はその最たるもので、どちらもちくま文庫から出ていましたが、残念ながら今は入手困難なようです。古本でもよろしければ、下に貼ったアマゾンのリンクでもまめにチェックしてみて下さい。

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