ハリウッドで映画化もされたサスペンス『薔薇の名前』が代表作として知られる、イタリアの記号論学者で作家、ウンベルト・エーコの歴史冒険ファンタジー。 彼の作品は難解なものも多く、歴史(それも裏歴史)の動きを神経質なまでの詳細さで記述してゆく所があります。本作にもそういう面は少し顔を出す一方、ここには心躍る冒険があり、しみじみと胸を打つ心情の描写もあり、まるで漫才のように笑えるコミカルなやり取りもあり、密室サスペンスや犯人探しといったミステリの要素まである。その意味で、この作家の入門篇としてまずお薦めしたい1冊です。 主人公のバウドリーノは貧しい農民の息子ながら、生来の大嘘つきの性分ゆえ、たまたま出会った神聖ローマ帝国のフリードリヒ大王に気に入られ、なんと王の養子、そしてブレーンとなります。頭が良く、言語の才能にも恵まれた彼は、歯に衣着せぬ助言の数々で帝国の窮地を救いますが、王の急死を経た後、臣下たちの念願でもあった司祭ヨハネの国を探す、東方への旅に出ます。 本作は上下巻でテイストが違い、上巻はフリードリヒ大王の領地拡大と十字軍の遠征など、歴史の裏側を描くエーコらしい陰謀ドラマ。偽の書類や手紙が力を持って歴史を動かしてゆく所は、イタリア統一、ドレフュス事件、そしてナチのユダヤ人大虐殺の根拠とされた史上最悪の偽書『シオン賢者の議定書』、その裏で一人の文書偽造家が暗躍する様を描いた『プラハの墓地』と共通のテーマを扱っています。 しかし下巻は、架空の土地や人種、怪物などが登場する、荒唐無稽な冒険ファンタジーの様相。読者は「あれっ?」と戸惑ってしまいますが、すぐにこの話全体が、バウドリーノが貴族ニケタスに語る枠物語だという事を思い出すのです。何しろ彼は、自分が幼少の頃から大ほら吹きだったと自ら語っている訳で、そうなると、彼が偶然フリードリヒ大王に出会って寵愛を受けた辺りからして、全てが作り話であったとしてもおかしくありません。 何しろ、物語の随所に偽物が散りばめられているのです。偽の手紙に偽の年代記。偽の聖遺物に偽の皇帝、偽の聖十二使徒まで。それでも思わず引き込まれてしまうのは、目的地の王国が本当にあるのかどうか、そして施錠された密室で息絶えたフリードリヒ大王の死因といった、現実的な謎解きがストーリーを牽引してゆくからでしょう。又、エーコには珍しくリリカルで感傷的な記述も随所にあり、心を打たれる瞬間も多いです。プチ読書好きにもマストの本として、上下巻のヴォリュームにひるまず、ぜひ挑戦を。 |