ベートーヴェン/交響曲第5番《運命》 (続き)

*紹介ディスク一覧

00年 ラトル/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

00年 ブロムシュテット/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

01年 アバド/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

01年 ドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団   

02年 ラトル/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

04年 金聖響/オーケストラ・アンサンブル金沢  

06年 P・ヤルヴィ/ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン 

06年 サロネン/ロスアンジェルス・フィルハーモニック

08年 ナガノ/モントリオール交響楽団 

09年 シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

09年 T・トーマス/サンフランシスコ交響楽団 

10年 ティーレマン/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 

12年 ヤンソンス/バイエルン放送交響楽団 

15年 ラトル/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団  

19年 ネルソンス/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 

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“自分のベートーヴェン解釈を世に問う意欲に溢れる反面、まだ未完成な印象も残るライヴ盤”

サイモン・ラトル指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2000年  レーベル:EMIクラシックス)

 後の全集録音とは別のライヴ音源。チョン・キョンファをソロに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲(スタジオ収録)とのカップリングです。印象としては、ピリオド奏法の効果を取り入れながらも、アーノンクールほど極端にならず、オーソドックスな良さも兼ね備えた演奏。総じてテンポが速く、第2楽章などは駆け足すぎて味わいに乏しい感じも受けますが、若々しい勢いとエネルギーが持続する点は作品の性格によく合っています。

 多少のアインザッツの乱れや響きが荒れるのは気にしないスタンスで、管楽器の内声が目立って耳に入るのも特徴ですが、さすがにウィーン・フィルだけあって、最低限の音色美は死守しています(存分に音色美を楽しめる演奏ではありません)。強弱の交替、アーティキュレーションの区別は細かく付けられていて、その辺りはやはり古楽系の演奏を想起させます。

 第1楽章のオーボエのカデンツァは、直前のトゥッティを弱めに柔らかく処理し、一拍置いてから開始させているのは独自の解釈。楽章終結前の数小節も、一旦音量を落としてからクレッシェンドしています(他の楽章も同様)。フィナーレは提示をリピート。ピッコロの上昇音型が入る箇所で、トゥッティの音量を落としてバロック的な軽妙さを出しているのは、T・トーマス盤と同じ。今一つ表現がこなれない感じがするのは、合奏に粗さが残る上、他盤を思い起こさせる部分が多いからかもしれません。

“端正で格調の高いライヴ盤。洗練された響きとスケール感、力みのない余裕の表現はさすが”

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

(録音:2000年  レーベル:querstand)

 楽団自主レーベルによるライヴ音源5枚組ボックス・セットから。ブロムシュテットは過去にドレスデンで同曲をスタジオ録音しています。すっきりとクールなサウンドで収録されていますが、金管を含むトゥッティもまろやかにブレンドし、耳に心地よい美しい録音。自主制作のライヴ盤としては、演奏も録音も高い完成度を誇っています。

 第1楽章は旧盤を彷彿させる表現で、遅めのテンポで画然とリズムを刻んでゆく、一歩引いた客観的なアプローチ。気力は充実していて音に勢いがあり、重厚ではないものの、聴いていて背筋がピンと伸びるような格調高い演奏です。第2楽章は、一部でテンポを速めるなど、わずかにアゴーギクの動く表現。金管の定位に奥行きがあって、スケール感も充分です。

 後半2楽章はリピートを実行(旧盤と同様)。フィナーレは、決して力で押す事のない余裕のトゥッティと、鋭敏なリズムを駆使した軽快なフットワークが印象的。旧盤はオケの古風なキャラクターのせいで、良くも悪くもくすんだ色調でしたが、ゲヴァントハウス管の響きは近代的に洗練されているのが特徴です。

“旧盤のウィーン的味わいから一転、古楽系スタイルに一歩近づいたようなアバド”

クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2001年  レーベル:ドイツ・グラモフォン)

 ライヴ収録によるアバド2度目の全集録音より。当コンビはこの前年にベルリン、フィルハーモニーザールで一旦全集録音を完了していますが、翌年に9番以外をローマの聖チェチーリア音楽院で再録音。アバドは最初の方を破棄し、ローマ録音を正式な全集とする意向を表明しています。ベルリン録音と較べると残響がややデッドですが、オケの特質はきちんと出ていて、この方が彼のアプローチに合った音なのでしょう。1年の間に、スコアにも新しい発見があったのかもしれません。

 ジョナサン・デル・マーによる新版スコアを採用し、旧盤とは別の指揮者が振っているように感じるほど解釈が変化した演す。旧盤で随所に盛り込まれていた溜めや間はぐっと減り、アゴーギクの変化も減った他、フレージングもニュアンスが抑制され、全体として客観性が増した印象。ピリオド奏法とまでは行きませんが、弦の人数も少し減らし、ヴィブラートも抑えているようです。音色に艶やかな明朗さがあるのは、指揮者のイタリア的特性か、それともローマの会場による楽員への心理的影響でしょうか。

 第1楽章はアバドらしいシンフォニックで雄渾な響きで、タイトに引き締まった造形。テンポは極端に速い訳ではなく、どちらかといえば昔からのスタイルに近い表現です。ホルンは鋭い音で鮮やかな効果をもたらしますが、そこで僅かに溜めを加えるのは旧盤の解釈を少しだけ継承した感じ。第2楽章もソロ、合奏ともに明るく艶やかな音が印象的ですが、やや骨張ったソリッドなトゥッティはこのコンビらしいです。テンポはやや速めですが、過激というほどではありません。

 スケルツォ及びフィナーレはリピートを実行。スケルツォは冒頭の低弦に雄弁な強弱が付けられ、表現主義的。やはり鮮やかで豊麗なホルンの音が魅力的です。テンポは落ち着いていて、あくまで旧世代の感覚。トリオはそのままの速度で、フットワークの軽さに新版の視点も感じさせます。第4楽章も柔らかい着地や軽妙なタッチ、鋭敏なリズムに新版の影響あり。アーティキュレーションのこだわりも随所に聴かれます。ライヴらしい感興の高まりも好印象。

“自然体のスタイルは良いものの、ドホナーニらしい才気や鋭さは不足”

クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団

(録音:2001年  レーベル:クリーヴランド管弦楽団)

 オーケストラ自主制作による10枚組ライヴ・セット中の音源。当コンビのベートーヴェンは、既にテラーク・レーベルに全集録音があります。何を振っても才気を感じさせるドホナーニですが、この演奏は私にはピンと来ませんでした(会場の拍手は盛大に入っています)。録音のせいか、ディティールがややぼやけ気味に聴こえるせいかもしれません。ドホナーニの解釈は全体を大きく掴んで、一つの流れに収束させた感じで、これにより個々のメリハリが減退したような印象です。

 第1楽章はスムーズな流れと誇張のない古典的造形が身の上。アタックには柔かさもあり、オーボエ・ソロなど叙情的な表現も聴かれますが、全体的には気負いのない自然体の風情。ホルンの強奏はやや抜けが悪く聴こえる一方、トランペットの鋭いアクセントはエッジが効いています。後半の盛り上がりもほぼイン・テンポで、緊張感を高めてゆく熱っぽいタイプではありません。コーダもあっさり締めくくり、アタッカ気味に次の楽章へ突入。

 第2楽章は相当に速いテンポで、これも大きな変化を付けない感じ。フル編成のオケでも響きのクリアネスが確保されているのはこのコンビらしい所。強弱のコントラストもあまり大きくなく、トゥッティも大仰な溜めを排除して、流れの良さを優先させたような表現。

 第3楽章は構えた所がなく、やはり自然体という他ない演奏。ルバートは適度に挿入されますが、トリオなども音楽的対比をあまり付けない、さらっとした表現です。弦を中心にみずみずしい響きは魅力的。フィナーレも各パートがやや締まりのないフレージングに聴こえ、ダイナミックなアクセントや鮮烈なリズムなどは影を潜めています。ブラスのアクセントは効いていますが、どこか気迫を欠くユルいパフォーマンスで、私はあまり乗れませんでした。

柔和なニュアンスとアグレッシヴな推進力が増し、解釈も手中に入ってきた再録音盤

サイモン・ラトル指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2002年  レーベル:EMIクラシックス

 ライヴによる全集録音中の一枚で、先行発売された単発盤から約1年半後の別録音。プロデューサーやエンジニアは同じで、解釈の方向性は変わりませんが、ディティールの掘り下げ、特に強弱のコントロールがより徹底している上、演奏、録音共に高域の抜けが良くなった印象。少々目詰まりした感じだったホルンの強奏なども、胸のすくように音がよく通っています。弦の表情にもウィーン・フィルらしい柔和なニュアンスが出て来ました。

 第1楽章冒頭は切っ先が鋭くなり、アグレッシヴな推進力がアップ。この楽章に限らず、小節の冒頭に休符が置かれている箇所では、必ずその休符にエネルギーを貯めて、裏拍を勢い良く飛び込ませてくるので、いかにも前へ前へと一心に進んでゆく様に聴こえます。オーボエ・ソロは旧来のスタイルに戻して演奏。第2楽章も相変わらず速く、弦の刻みなど、小節冒頭の休符にのめりこませるようにして勢いを強調しているのがユニークです。

 第3楽章のトリオもすさまじい快速テンポですが、この辺り、ウィーン・フィルには珍しく分奏練習を行う一幕もあったそうで、弦楽セクションの見事な合奏力に脱帽です。演奏全体として、当盤の方が解釈も手中に入ってきた印象で、カップリングのコンチェルトがどうしても聴きたい人以外は、無理に旧盤まで購入する必要はないと思います。旧盤同様、終楽章の提示部リピートを実行。

変化に富む表情と若々しい勢い。指揮者の美点を表しながらも、深みや味わいは欠如

金聖響指揮 オーケストラ・アンサンブル金沢     

(録音:2004年  レーベル:ワーナーミュージック)

 全集録音の一枚。ライヴとスタジオの両音源から編集されているようです。カップリングは《エグモント》序曲で、リハーサル風景を収めたDVDも付属。同コンビとしては、後から始めたブラームスの全集録音が先に完結しましたが、表現のバランスを欠いて居心地の悪いブラームスの演奏と比べると、ベートーヴェンの方が彼らの資質に合っている印象を受けます。

 溌剌としたリズム、細かく設定されたダイナミクスと変化に富む表情、全編を貫く勢い、旋律線の美しさ。どれもこの指揮者の美点をよく表したもので、フレッシュな魅力に溢れています。彼が提唱する古楽器奏法を採用した解釈も、造型に新鮮さを与えていて好印象。オケも優秀だとは思うのですが、海外の一流オケによる数々の名盤に混ざる中で、音色のコクや深み、表現の味わいを求めるのは少々無理があります。そして、ベートーヴェンのような音楽において、そういう部分が占める割合は決して小さくないでしょう。

桁外れの機動力と多彩な音色で描いた、斬新極まるベートーヴェン像”

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン

(録音:2006年  レーベル:RCA)

 全集録音中の一枚。ピリオド・アプローチを採択した、実に斬新な演奏です。何といっても、オケの響きが多彩で、弦だけの時、木管が加わった時、さらに金管を加えた時と、何種類ものサウンドを段階的に交替させている印象。特に、ミュートを使ったブラスの鋭い響きが、随所で新鮮な効果を生んでいます。又、小編成のためにあらゆるパートがクリアに聴こえ、オケが並外れた機動力を展開するのも圧巻。

 第1楽章は、即物的とも言えるストレートな表現。冒頭からフェルマータが短く、強引なほどのインテンポで進む感じで、実際以上に速いテンポに聴こえるのがユニークです。音を短く刈り込んだ事でフレージングが通常と異なって聴こえる箇所も多く、アインザッツに溜めがないのでスピード感抜群。何よりも、響きが多層的に変化するのが耳を惹きます。

 第2楽章も速いテンポでサクサク進行。余情を排したザッハリッヒなアプローチで、無機的というよりはむしろバロック的という感じでしょうか。コーダなど、極端に短く切ったスタッカートと弱音のタッチが、正にバロックのスタイルを想起させます。

 第3楽章は、小回りのきく編成を生かした、フットワーク抜群のアンサンブルが見事。相当に速いテンポを採っていながら、あらゆる音符を疎かにしない緻密さに圧倒されます。強弱のコントラストは明瞭で、ホルンの第1主題も発音の前に間を置かず、イン・テンポでためらいなく切り込んでくる印象。こういう音のスピード感は、ドラティやマルケヴィッチにも通ずる所があります。

 第4楽章は提示部をリピート。エネルギーの塊のように激しく演奏される事が多い楽章ですが、当盤は弱音を基調にダイナミクスを設計し、軽快を極めたリズム感と卓抜な運動神経を駆使して、スコアの隅々にまで余す所なく命を吹き込んでいます。特に色彩の多様なニュアンスとフレーズ解釈の斬新さは、近年類をみないほどのレヴェルに達していて、作品のイメージを一変させるほどの新鮮な発見に満ちあふれています。

 全てを精緻にコントロールしながら、コーダに向かって速度を加え、白熱の度合いを高めるなど直感的な一面を見せるのも好印象。威圧的な音響で聴き手を圧する箇所は皆無ですが、小編成の利点を最大限に生かしながらも、ピリオド系の演奏にありがちな粗雑な響きを注意深く避けた、実に優れた見識を持つ表現です。ピリオド系のアプローチが嫌いな人も、一度は聴いてみて欲しいディスク。

ピリオド奏法の影響というよりポストモダンと呼びたい、サロネンの新感覚ベートーヴェン

エサ=ペッカ・サロネン指揮 ロスアンジェルス・フィルハーモニック

(録音:2006年  レーベル:ドイツ・グラモフォン

 ネット配信のみのライヴ録音シリーズ、DGコンサートの一枚。レオノーレ序曲第2番、ルトスワフスキの第4交響曲と、当夜のプログラムを丸ごと収録しています。サロネンの演奏は非常にユニークな視点を持ち、力みのない柔らかな響きと小気味良いリズム処理、頻繁なダイナミクスの交替が特徴。特にクレッシェンド、ディミヌエンドの多彩なニュアンスは印象的です。ピリオド奏法の議論を経由していない雰囲気もあって、どちらかというとポストモダンとでも呼びたいスタイル。

 第1楽章は音が整然と並んでいる印象で、「あれ、こんなに音の少ない曲だったっけ」というくらい隙間の多い音楽に聴こえます。ホルンの抜けが悪いのは録音のせいか、そういう表現なのか分かりませんが、管弦のブレンドはまろやか。逆に、トランペットは充分な鋭利さを保っています。第3楽章トリオの低弦も、軽妙なフットワークできびきびと動き、ほとんどバロックを思わせますが、一方で第2楽章のトランペットなどは、ソステヌートで歌わせていたりもします。

 第4楽章では壮大さも表現されますが、どこか伸びやかで肩の力が抜けていて、威圧感はほとんど感じられせん。ただ突然、凄味を帯びた底力のあるクレッシェンドが入ったり、コーダで短いクレッシェンドの繰り返しを盛り込み、最後で少しだけ加速するなど、スコア読解力の深さとコンサート指揮者としての演出力を兼ね備えた表現で、ロスの聴衆を熱狂させています(フライング気味に拍手が入ります)。響きが磨き上げられているのも、サロネンらしい所。

“ピリオド系スタイルで一貫しながらも強いアクセントは避け、美しい響きを作り出すナガノ”

ケント・ナガノ指揮 モントリオール交響楽団    

(録音:2008年  レーベル:RCA)

 ナガノのRCAレッド・レーベル第1弾。ソニーにもレコーディングを行っている当コンビですが、両社は同じBMG傘下になので契約に繋がりがあるのかもしれません。尚、当盤はカナダのアナレクタというレーベルの音源でもあり、カナダ国内ではそちらから発売されています。《エグモント》を始めとするベートーヴェンの劇音楽をナレーション入りで再構成した、《ザ・ジェネラル》という作品をカップリング。構成の是非はともかく、これらの音楽はなぜもっと演奏されないのかと思うほど魅力的なので、一聴の価値ありです。

 ソニーも使用しているサル・ウィルフリード・ペルティエはコンサート・ホールのようですが、残響がややデッドで、教会で録音していたデッカの頃とはオケのイメージがかなり異なります。むしろ、マックギル大学のMMRスタジオで収録された《ザ・ジェネラル》の方が、響きの柔らかさや潤い、ティンパニの生々しい質感などデッカのサウンド傾向に近く、音響的魅力が上だと思いました。

 演奏は、ピリオド奏法に対向配置というスタイル。冒頭から速めのイン・テンポで勢いがありますが、トゥッティでリズムを刻む箇所ではややブレーキが掛かる印象です。決して管楽器を突出させて骨張った響きを作ったり、刺激的なアクセントを多用したりしないので、音が荒れず、心地よく聴けるのが美点。トーンはやや乾いた感じですが、ホルンなど管楽器の奥行き感が深いので、美しさは保たれています。

 第2楽章も相当に速いイン・テンポ。コーダではさらに早足になります。編成があまり大きくない上、音量もセーヴしているので、スケール感はあまりありません。主題は、1拍目をスタッカートで切り、2拍目と3拍目をスラーで繋いだ独特のアーティキュレーション。

 リピートを実行した後半2楽章も、軽妙軽快を絵に書いたようなスポーティな表現で、胸のすくような鮮やかさがある代わり、雄渾で壮大というこの作曲家のイメージは払拭されています。フレージングがしなやかなので無味乾燥ではなく、爽やかな後味。サロネンのポストモダン風アプローチに近いかもしれません。

“メンデルスゾーン風? 敏感でふわりと軽い、柔らか仕上げのベートーヴェン”

リッカルド・シャイー指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

(録音:2009年  レーベル:デッカ

 英国の老舗デッカ・レーベルは80年代以降、ベートーヴェンの交響曲全集セットがショルティ/シカゴ響の再録音盤しかなく、欧州の名門オケや人気指揮者を起用している他のレーベルと比べて出遅れた印象がありました。ここで当コンビを擁した満を持しての全集は、書籍風の豪華な造りで(これが面倒臭い)、いかにも力が入っています。しかし演奏の方は逆に、肩の力が抜けた軽快なもの。

 第1楽章からして全く力みがなく、ふわりと軽いトゥッティはほとんど脱力気味と言っていいくらい。無類に歯切れの良いリズム、速めのイン・テンポ、弦のノン・ヴィブラート奏法はピリオド・スタイルの影響が窺えますが、刺々しいアクセントや骨格剥き出しの雑然とした響きは皆無で、ナガノ盤と同傾向のアプローチ。まろやかにブレンドするソノリティは美しく、タッチには柔らかさもあり。スコアの裏に隠された運命動機を浮き彫りにするなど、スコアもよく読み込んでいます。

 第2楽章は、すこぶる速いテンポで軽快そのもの。アーティキュレーションや強弱など新鮮な発見は随所にありますが、P・ヤルヴィのように大胆な革新を打ち立てようという演奏ではなく、今の自分が考えるベートーヴェン像をゲヴァントハウス管で表現したらこうなりました、という自然体の態度が感じられます。第3楽章も威圧感や厳めしさが全くなく、軽妙で爽やか。テンポはあまり動かさず、トリオもスケルツォらしい躍動感に溢れます。

 フィナーレは、提示部をリピート。付点リズムがよく弾み、みずみずしい歌が横溢する、流れの良い明朗な演奏です。音量を抑えてフットワークの自由さを確保しており、どちらかというとメンデルスゾーン辺りのスタイルという感じ。響きはささくれ立つ事がなく、むしろ柔らかくまとまっていて、耳に心地よいサウンドと言えます。ラストのフェルマータでは、ティンパニのトレモロが弱く入ってクレッシェンドするのがユニーク。

“ロマン派風でもピリオド系でもない、独自の道を模索するMTT再録音”

マイケル・ティルソン・トーマス指揮 サンフランシスコ交響楽団

(録音:2009年  レーベル:サンフランシスコ交響楽団)

 イギリス室内管との全集録音以来の再録音で、エマヌニュエル・アックスをソロに迎えたピアノ協奏曲第4番をカップリング。当コンビのベートーヴェン再録音は、他に第2、3、7、9番が出ています。年月を経た上に今度はフル編成オケとあって、コンセプトががらりと変わっているのはこの指揮者らしい所。自由なデッサンで描いたユニークなベートーヴェンで、前時代風でもピリオド系でもない、モダン・オケによる独自の路線として新たな可能性を感じさせるアプローチです。

 第1楽章は、穏やかに落ち着いた開始。テンポはゆったりとしていますが、スタッカートは歯切れがよく、響きもタイトに引き締まっています。イン・テンポではなく細かい動きがあり、ホルンの運命動機では、各音をテヌートで保持して柔らかなタッチを聴かせるのも面白い効果。ティンパニのクレッシェンドを加えたり、最後の一音の前にひと呼吸置くなど、即興的な発想も聴かれます。

 第2楽章は一転して速いテンポ。トゥッティの主題提示も、やはりテヌートで音を繋いでレガート気味のフレージングを展開します。ラストのフレーズに、感覚的なフェルマータを盛り込むのも独特。スケルツォもかなり速いテンポですが、アタックの角が取れて柔和になっている点は旧盤と異なります。

 フィナーレは再び遅めのテンポでまろやかな造形。弦を中心に優しい歌い口が目立ちます。鋭さや力強さが減退した訳ではないのですが、佇まいに余裕があり、トロンボーンも非常に柔らかいレガートで演奏されています。オケの暖色系の音色や、豊かな残響を取り込んだ潤いのある録音もその印象を強めているかもしれません。ピッコロの上昇音型が繰り返される箇所は、オケの音量を落とし、バロック風の軽さを表出していて、ここは旧盤をさらに発展させた表現だと言えます。

“あらゆるフレーズを「歌」と捉え、、名門オケに心ゆくまで歌わせきった珠玉の名盤”

クリスティアン・ティーレマン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2010年  レーベル:ソニー・クラシカル

 ライヴによる全集録音の一枚。映像ソフトで先行発売された全集と同じ音源です(筆者はブルーレイで試聴)。ティーレマンは暗譜で振っており、弦を両翼配置にした上、コントラバスを最後列に並べています。演奏は、意外にも流れの良さと柔らかなタッチを優先させたもの。恣意的なアゴーギクの他、フレーズを存分に歌わせる事を重視している点はピリオド系アプローチの対極ですが、固いバチを使ったティンパニや明晰で立体的なソノリティなど、古色蒼然とした旧時代風の演奏とも全然違います。

 同曲は、細かいテンポ変化が特徴的な同全集の中では、比較的イン・テンポに近い表現。拍手が鳴り止まぬ内に振り始める第1楽章は全くの正攻法で、オケのアンサンブルの魅力で聴かせます。ほとんどウィーン・フィルの魅力を伝える為の演奏という感じでしょうか。あらゆるフレーズを“歌”と捉え、旋律を味わい深く歌わせる事に全力を注いだような表現は、近年流行のスタイルを聞き慣れた耳に、ひたすら心地よく、新鮮に響きます。

 第2楽章も、遅めのテンポでじっくり歌い込んだ演奏。トゥッティの有機的な響きや、はっとするような弱音など、ポピュラーな名曲ながらこんなに内容の豊かな音楽だったかと、改めて感動を覚えるほどです。第3楽章も細かな音符をないがしろにしない、実に丁寧な造形。短い音符もたっぷりと響かせる事で、末端まで養分が行き渡った、充実した音響を作り

 フィナーレは、この全集では珍しく提示部をリピート。この辺りは臨機応変というか、コンセプト重視に陥らないのがティーレマンの良い所です。冒頭でぐっとテンポを落とし、その後一気に速度を上げてゆくのはミュンヘン・フィルとの来日公演でも聴かれた解釈ですが、リピート時はほぼそのままのテンポで演奏。この楽章に至って、フレーズごとに細かくテンポが変動するティーレマンらしいスタイルに復帰します。コーダ前後など、速い箇所はピリオド系に匹敵するほどのスピードで、リズムも鋭く生気溌剌。たっぷり間をとったエンディングで満場の拍手を受けます。

“純然たるドイツ風サウンドと円熟の味わいに魅了される、近年屈指の名演”

マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団   

(録音:2012年  レーベル:BRクラシック)

 楽団自主レーベルによるライヴによる全集録音より。同曲などは発売の数ヶ月前(《田園》に至っては何と1ヶ月前)の演奏で、このレーベルのフットワークの軽さが窺えます。1〜6番は昔から同オケの録音に使用されているヘルクレスザールでの収録で、冒頭から純然たるドイツの音が鳴り響くのに、どこかホッとする気持ちを抑えきれません。重心が低く、深い陰影とほの暗さを湛えた独特の色彩感、和声感は、決して古臭くも時代遅れでもなく、未だに新鮮な魅力を放って聴こえる事が嬉しい、という事でしょうか。

 第1楽章からして、正攻法で充実感を与える力強いパフォーマンスがヤンソンスらしい所。サウンドは堂々たるドイツ風ですが、音の立ち上がりのスピード感と切れ味、アタックの鋭敏さやイン・テンポのアゴーギクは現代的で、軽いスタッカートを用いてオーボエ・ソロへ繋ぐ呼吸も、なかなかの美しさ。

 第2楽章は、重厚さと艶やかさ、鋭さと柔らかさを兼ね備えた響きと表情が素晴らしく、自然なアゴーギクも強い説得力を持ちます。オケの表現力は見事という他なく、フレージングが堂に入っていて、ニュアンスには格別の味わいあり。優美で音楽的な間合いの取り方も絶妙です。全体にリズムの内的律動が維持されているのも好ましく、トゥッティの力強さも雄渾そのもの。

 第3楽章は旧来のこの曲のイメージ通り、柄の大きな造形。リズムとハーモニーに、これも正にドイツ的という他ないある種の重みを感じさせながら、躍動的で生気に溢れた演奏を展開する所、過去の名演の延長線上に位置しながら、新鮮な感覚を付与するという、誰もが望みながら実際には至難の技である境地に達していると、私は思います。

 第4楽章は、冒頭の三つの和音だけゆっくりと鳴らすという、ティーレマンと同様の解釈。こういう曲を感興豊かに昂揚させてゆくのは、オケの統率に水際立った才覚を発揮するヤンソンスの得意とする所です。特に、ピッコロの活躍する箇所では、場面全体のデッサンの素晴らしさが際立ちます。ピリオド系アプローチが圧倒的優位性を持っている昨今、それだけでは、面白いだけではお腹が空く、という事を改めて意識させられた演奏でした。

“細部に新鮮な発見を散りばめ、深い没入感で作品の精神性に迫る超名演”

サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2015年  レーベル:ベルリン・フィルハーモニー・レコーディングス)

 ラトル二度目となる全集ライヴ録音から。自主レーベルから発売されたセットには、ブルーレイ・オーディオと全曲の映像、ドキュメンタリーも収録されています。音声はライヴのものに、セッション収録での修正をミックスしたもの(その様子も撮影されています)。作品の様式に合わせて編成を変えた全集で、初期の交響曲ほど小編成に、第九のみは通常編成で演奏しています。

 ラトル自身が語るように、演奏するたびに自分の間違いを発見するのがベートーヴェンの音楽で、解釈は常に変わってゆくもの。当盤ではH.I.P.からむしろ遠ざかった印象です。しかし細部は新鮮な発見に溢れ、オケの表現力を生かしてすこぶる精度の高い描写を徹底。私が凄いと思うのは、ここまで緻密で雄弁な演奏でありながら、聴衆がこの作曲家に求める深い精神性や、演奏行為に求める内的燃焼に関し、高い目標を設定しながらそれを見事に達成している所です。

 80年代以降、ほとんどの全集録音(ラトル自身の旧盤も含め)は作品の偉大さを意識しすぎ、録音を行う意義や、H.I.P.か否かというスタイルの問題に足をすくわれていたように思います。しかしラトルとベルリン・フィルは、ただただ全身全霊で音楽に没入し、良い演奏とは、頭でっかちになる事なく、ただ生き生きとして真摯な演奏なのだと教えてくれます。曲によって仕上げにばらつきもあるものの、私は全体として、この35年間でバレンボイム盤と並んで最も成功した全集だと思っています。

 第1楽章は、コーダまでほぼイン・テンポ。端正な造形で、前へ前へと凛々しく立ち向かってゆくような趣です。音の立ち上がりが速く、多少のルバートは挟むものの、間を詰めてひたむきに前進する傾向。内圧が高く、アタックが鋭利なのはスコアの本質を衝く表現です。

 第2楽章は速めのテンポで雄弁。リズムが軽く、部分的にはメヌエットのような性格も垣間見えます。短い音価やスタッカートを多用し、二度繰り返すフレーズは全てリズム・パターンと捉える感じ。強弱やフレージングにはっとさせられる瞬間も多く、研究され尽くしたようなベートーヴェンの音楽にも、まだまだ新しい発見はあると分かります。

 第3楽章は流れるようなテンポで、決して力まず、繊細な濃淡を付けてゆく演奏。スコアから新たな魅力を引き出していると言っていいです。バロック風に機敏なトリオの合奏も圧巻。第4楽章は猛烈な勢いの中にも、きっぱりと明快な語調を維持。抜群のリズム感と精度の高いコントロール、技術と感情表現を高次で結びつける図抜けた音楽性、パンチの効いたティンパニと歯切れの良い合奏も凄いですが、この曲において、全てがクリアである事がこれほどの激烈な効果を生むとは驚きです。

 前楽章の主題回帰のアゴーギクもまったく見事。しかし演奏は当初の勢いを失わず、凄絶な高揚感を伴ってコーダの白熱に至ります。特にこのフィナーレなどは、当盤を聴くと今までどれほど漫然と惰性で演奏されてきたが如実に分かります。傑出したこの全集の中でも、第7番と共に屈指の名演。

“往年のスタイルを継承しつつ高精細にアップデートした、新時代の名演”

アンドリス・ネルソンス指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2019年  レーベル:ドイツ・グラモフォン)

 珍しくもセッション録音による全集から。残響がたっぷりしているのは、ライヴではない利点です。やや骨張った響きで、パンチの効いた機動性を追求するタイプではなく、往年の名指揮者達に近い流麗なアプローチ。いわば旧スタイルを、モダンなセンスで高精細にアップデートした演奏と言えば分かりやすいでしょうか。

 とにかく仕上げが丁寧で、経験や雰囲気で漫然と流してしまう所がありません。王道ながら、新奇な解釈はなくともいかに多くの美質を取り揃えた全集か、アバドが同じオケを振った80年代のセットと聴き較べるとよく分かります。むしろ、見事な成功を収めたラトルとベルリン・フィルの録音を継承する雰囲気もあり、音楽そのものへの真摯な没入感が素晴らしい全集です。

 第1楽章は、落ちついたテンポで端正に造形。アインザッツは完璧に揃うとは行きませんが、整然とした佇まいで、とにかく丁寧に綴られた演奏です。溜めやルバートは伝統的な呼吸に則っている一方、解像度の高い描写力や磨き上げられた緻密な音響はポストモダン風。

 第2楽章は全くの正攻法で安定感抜群。弱音部もトゥッティも、このオケでベートーヴェンを聴く醍醐味をたっぷりと味わせてくれます。フレージングや間合いは堂に入っていて、巨匠風の身振りに大器の片鱗も窺える印象。特異な解釈はありませんが、響きや表情の精度の高さにネルソンスらしさが出ています。

 第3楽章は絶妙に力が抜けていて、柔らかな筆致を用いる一方、剛毅な力感も表出。トリオは入りをはっきりと強調するものの、やはり自然体の語り口と精密な合奏で聴かせます。第4楽章も誇張がなく、実にスムーズな流れ。音楽の掴み方が成熟している上、精神的にも音響的にもしっとりとした潤いが感じられます。良い演奏とは、必ずしも斬新な解釈を披露する事ではなく、生きた物として作品をみずみずしい感覚で伝える事(ラトル新盤の衣鉢を継ぐ行き方です)だと痛感。

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