ベートーヴェン/交響曲第3番《英雄》 (続き)

*紹介ディスク一覧

01年 アバド/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

02年 ラトル/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

03年 金聖響/オーケストラ・アンサンブル金沢

04年 T・トーマス/サンフランシスコ交響楽団

04年 ミュンフン/シュターツカペレ・ドレスデン

08年 シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

09年 ティーレマン/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

10年 ナガノ/モントリオール交響楽団

12年 ヤンソンス/バイエルン放送交響楽団

15年 ラトル/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

18年 サロネン/シンフォニア・グランジュ・オ・ラック

19年 ネルソンス/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

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“機動性の高い合奏でH.I.P.に接近しつつも、優美なタッチは旧盤を踏襲”

クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2001年  レーベル:ドイツ・グラモフォン)

 ライヴ収録によるアバド2度目の全集録音より。当コンビはこの前年にベルリン、フィルハーモニーザールで全集録音を完了していますが、9番以外をローマの聖チェチーリア音楽院で再録音。アバドは最初の方を破棄し、ローマ録音を正式とする意向を表明しています。ベルリン録音と較べると残響がややデッドですが、オケの特質はきちんと出ていて、この方が彼のアプローチに合った音なのでしょう。1年の間に、スコアにも新しい発見があったのかもしれません。

 ジョナサン・デル・マーによる新版スコアを採用し、旧盤とは別の指揮者が振っているように感じるほど解釈が変化した演奏です。第1楽章は提示部リピート実行。速めのテンポできびきびとしていて、合奏もコンパクトにまとめています。切れの良いスタッカートを多用する一方、あまり尖ったアクセントは用いず、あくまで優美なタッチ。しかしヴィブラートは抑制し、フレーズの解釈にもピリオド奏法を研究した跡が垣間見えます。

 第2楽章も軽快さが勝り、雄大なスケールより合奏の室内楽的一体感を優先。速めのテンポですいすいと進行し、小気味好いフレージングで楽想をさらっと掴んでゆく感じでしょうか。性格的には上品で、柔かなニュアンスが付与されている辺りは、ピリオド団体の攻撃性とは逆のベクトル。響きも、拡散よりはブレンドの傾向です。

 第3、4楽章は平均的なテンポで、緊密なアンサンブルを展開。響きにやや雑味はありますが、旧盤同様に丁寧な仕上がりです。リズムは歯切れ良く、ライヴらしい感興もあり。内声、特に弦の動きがよく彫琢されていて、造形面では小編成のそれを志向している雰囲気が強くあります。オケが上手く、細部に至るまで強度、密度の高い合奏力は聴き応え満点。

“前半2楽章の荒々しい激情、後半2楽章の暖かな情感と内的高揚”

サイモン・ラトル指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2002年  レーベル:EMIクラシックス)

 全集ライヴ録音から。ラトルは後に、ベルリン・フィルともライヴで全集録音を行っています。残響を豊富に取り込みながらも、全体にスリムな音像はこのレーベルらしい傾向。

 響きがクリアで、副次的な音の動きも透けて聴こえるのがラトルらしく、解像度の高さで群を抜く印象。一方、音色美や艶っぽい歌い回しにオケの美質が生かされています。ヴィブラートを抑制し、管楽器のアタックを生かすスタイルはH.I.P.の流れですが、ナガノやP・ヤルヴィほどは先鋭的には感じません。

 第1楽章はテンポが速く、ラトルの持ち味であるパーカッシヴな発音を生かした、力強くソリッドな演奏。音の立ち上がりにスピード感があり、多少粗くなっても響きが内包するエネルギーを重視する傾向があります。タッチがすこぶる敏感で語調の切れ味も抜群ですが、しなやかな歌との対比は美しく、描写も細部まで緻密そのもの。

 第2楽章は推進力を保持しつつ、中庸のテンポで適度にロマン性を表出。この全集は響きが明るく、発色が鮮やかなのが特徴で、葬送行進曲でも重々しくなりません。むしろ流麗な歌が印象的に残り、時に鋭い音を発する弱音期付きホルンをスパイスとしています。ティンパニと金管を伴うフォルティッシモは、荒々しい激情をむき出しにして壮絶。展開部も、悲劇的パッションが嵐のように打ち付ける一方、ホルンがレガートで朗々と歌います。

 第3楽章は平均的なテンポですが、造形と語り口が明快で、内的感興も豊か。トリオの深々と響く柔らかいホルンも素晴らしい聴き物です。第4楽章もゆったりとした佇まいに、堂々たる恰幅あり。前半2楽章の烈しい感情表現が、ライヴ・パフォーマンスの中でこの充ち足りた暖かな情感を導いているとも推測されます。後半のライヴ的な白熱もさすが。

“H.I.P.による全集の第1弾で、内容的に最も成功した1枚”

金聖響指揮 オーケストラ・アンサンブル金沢

(録音:2003年  レーベル:エイベックス・クラシックス)

 全集録音から。日本でいち早くH.I.P.に取り組んだ全集ながら、指揮者の不祥事とキャリア凋落によってケチが付いた格好なのは残念。小編成のコンパクトな音像に、適度な残響を伴うサウンドは聴きやすいものです。この全集はセッション録音もありますが、《コリオラン》序曲とカップリングされた当盤はライヴとセッションの混合編集。

 全集のスタートになった録音ですが、演奏は最もうまくいった1枚と感じます。セッション録音で柔らかいタッチが前に出たり、逆に力づくのデフォルメが目立つなど、仕上がりにムラのある全集の中で、当盤はバランスが良好。やや細身の音像で、ティンパニの打音も峻烈ですが、しなやかなマスの響きと鋭いアクセントのバランスは最適と感じられます。

 第1楽章は提示部をリピート。それほど速いテンポではないものの、音の立ち上がりがスピーディで鋭く、合奏の機動力が高いので、非常にきびきびとした演奏に聴こえます。ディティールの解釈はよく練られ、フレージングも無味乾燥に陥ることなく優美。透明度の高い響き、シャープなリズム処理の一方、ホルンの弱音器を除けばあまり雑音性の高い音色は用いません。全編に若々しい覇気と力感が漲るのも好印象です。

 第2楽章は落ち着いたテンポで集中力が高く、細部まで丹念に描写。小編成の利点を生かし、音楽の輪郭をくっきりと切り出しています。ノン・ヴィブラートの弦も、清新な響きとタイトな合奏の構築に大きく貢献。理詰めにならず、豊かな感興を横溢させている点も注目です。粒立ちの良いティンパニも鮮烈ですが、唯一、展開部のホルンのフレーズで、ミュート付きとストレートが不規則に入れ替わるのは気になります。

 第3楽章は適度なテンポ感ながら、瞬発力と歯切れの良さがあって機敏。ただ、表情こそこなれていますが、ある種の音色的魅力には不足します。トリオのホルンもくすんだ響きで、弱音器付きの奏者を混ぜているのも耳に付きます。第4楽章は、全体の好調を反映して良い案配。各変奏の性格をよく掴んでいて、短調の舞曲風エピソードも、厳格な語調が面白いです。後半はライヴらしい高揚感もありますが、合奏に一部モタつく箇所があるのは残念。

“フル編成ながら、室内オケによる旧盤の解釈と機動性を踏襲した驚異の再録音”

マイケル・ティルソン・トーマス指揮 サンフランシスコ交響楽団

(録音:2004年  レーベル:サンフランシスコ交響楽団)

 フル・オケによる再録音ライヴ盤。元々はキーピング・スコア・シリーズとして映像ソフトと一緒に出た音源ですが、後に第2、5、7、9番も録音されました。驚くのは演奏時間が旧盤からあまり変わっていない事で、演奏自体を聴いても、オケの編成が大きくなっただけで解釈のコンセプトはそのまま踏襲されているようです。サンフランシスコ響が、それこそ室内オケ並に透明な響きと機敏なレスポンスで応じているのも見事。音色面の魅力では、確実に当盤に軍配が上がります。

 第1楽章は旧盤同様にスポーティでテンポが速く、瞬発力のある俊敏な合奏を生き生きと繰り広げます。響きの豊麗さは増しているものの、オケがまるで小編成のように立ち回り、こうなると室内オケが売りだった旧盤の存在感も薄れがち。それほど当盤の演奏は素晴らしく、自在な呼吸感やしなやかな歌、シャープなリズムと軽妙な筆致など、フレッシュな魅力に事欠きません。しかも描写の精細さはぐっと増しています。コーダに向かっての溌剌とした高揚感も秀逸。

 第2楽章は、あらゆるパートが明快に切り出され、スコアが隈無く照射された鮮やかな表現。冴え冴えとした筆使いで描写されるものの、オケの音色に暖かみと柔かさがあるため、硬質な手触りや冷たさとは無縁です。淡々としたテンポ、すっきりして立体的な響き、明るい色彩を元に進行してゆくこの健康な演奏は、カラヤン辺りと較べても隔世の感あり。張りのあるティンパニを軸にした、筋肉質でダイナミックな響きも痛快。

 第3楽章は細かい音符も勢いで流さず、全てを明瞭に発音しているため、生真面目な性格が前に出て愉悦感が後退してしまった印象。これは、T・トーマスの演奏では時々起こる現象です。締めくくりのティンパニは鮮烈。

 第4楽章は。変奏曲を非常に速いテンポでスピーディに始めるのがユニークで、これは旧盤に無かった解釈です。その勢いが楽章全体の駆動力に繋がるのも効果的で、弦楽セクションの速弾きなど、随所に即興的な聴き所を生んでスリリング。一部で弦を各パート1人にして弦楽四重奏的な音響を作る解釈は、旧盤を踏襲しています。

“旧式のスタイルながら、自身とオケの個性を十二分に生かして聴き応え満点”

チョン・ミュンフン指揮 シュターツカペレ・ドレスデン

(録音:2004年  レーベル:プロフィル)

 シュターツカペレ・ドレスデン・エディションの一貫で発売されたライヴ盤。プロフィル・レーベルにアジア人指揮者が登場するのは恐らく初だと思います。当コンビの録音は過去に、ブラームスのヴァイオリン協奏曲(ソロは樫本大進)のライヴ盤がありますが、ミュンフンは同オケの来日公演でも《運命》や《魔弾の射手》序曲を演奏していて、オケに寄り添った王道の演目を組んでいる感じも素晴らしいです(スカラ座やフェニーチェ歌劇場ではヴェルディも振っています)。

 第1楽章は提示部をリピート。遅めのテンポでゆったりとした間合いを採り、短いフレーズも全て艶美に歌わせるスタイルはH.I.P.に逆行するものです。オケの美質がこれ以上ないほど発揮されていて、全く時代遅れな感じがしない点、勝算はあったのでしょう。熱っぽい感興が充溢し、アタックに雄渾な力感が漲りますが、腰の重さや仕上げの粗さはなく、細部まで丁寧に彫琢された峻厳な合奏は、師匠にあたるジュリーニの芸風を彷彿させます。

 第2楽章もスコアの解釈云々より、まず各パートの優美極まるフレージングに魅了されます。アーティキュレーションは丹念に描写され、ダイナミクスの設計も精緻ですが、オケの名人芸に耳を奪われて、そういう事にあまり意識が行かない感じ。無用な力こぶは作らず、流麗なラインを作ってゆく辺りに手腕を発揮する一方、全強奏の有機的な迫力が聴き手を圧倒します。ピアニッシモのデリカシーと静寂の深さもミュンフンならでは。

 第3楽章は、速めのテンポできびきびと進行。トリオもほぼイン・テンポで通します。第4楽章は冒頭から活力が漲って意欲的。明るい音色が好ましく、艶やかな光沢と潤いを失わない一方、このオケの持ち味である安定した低音部には機動性が確保されています。強弱は濃淡のグラデーションが豊かで、客演ではあっても入念なリハーサルが行われた印象。遅めのテンポで各変奏を深く掘り下げ、楽想転換の僅かな間合いも耳を惹きます。終盤の白熱ぶりもさすが。

“モダン・オケの美質を保ったまま、快速テンポで機敏にパフォーマンス”

リッカルド・シャイー指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

(録音:2008年  レーベル:デッカ)

 全集録音から。英国の老舗デッカ・レーベルは80年代のデジタル期以降、ベートーヴェンの全集セットがほとんどなく、欧州の名門オケや人気指揮者を起用している他のレーベルと比べて出遅れた印象がありました。ここでシャイーとゲヴァントハウス管を擁した満を持しての全集は、書籍風の豪華な造りで(これが面倒臭い)、いかにも力が入っています。

 第1楽章は予想通り速めのテンポ。力強く剛毅な二和音に続き、しなやかなラインと躍動的な鼓動を両立させて作品の性格を見事に表出。ほぼイン・テンポで、それがリズミカルなグルーヴを生んでいる上、前へ前へと突き進むひたむきさも好印象です。ただ、エッジこそ鋭いものの、過激なメリハリやアクセントは避けられていて、むしろ優美なカンタービレや微細なニュアンスなど情感面が雄弁。合奏は機敏で、強い一体感を維持しています。

 第2楽章もかなりの速さですが、むしろロマン的に演奏されすぎる傾向があるので、このくらい音がすいすい流れる方が古典的な均整にかなっている気がします。それでも、必要な叙情性や起伏の大きさは充分確保。ドライになりすぎたり、音楽が小さくまとまったりはしません。弦はノン・ヴィブラートに近いようにも聴こえますが、モダン・オケらしい響きの豊麗さや艶やかさ、内声の充実感は手放さず、あくまで旧スタイルの延長線上にあるアプローチ。

 第3楽章は元々急速な曲なので平均的なテンポに近いですが、響きがたっぷりしている一方、小回りが利いて軽快な所にシャイーらしいリズム感が出ています。オケも緊密な合奏を展開。ティンパニを含む強奏は歯切れがよく張りがありますが、ピリオド楽器のささくれだった響きではなく、ちゃんとフル・オケのサウンドで鳴るのが痛快です。

 第4楽章はスピード感溢れるスリリングな導入から、変奏曲以降も疾走感を失わず、緊張度とテンションの高い表現をキープ。後半の山場もあまりテンポを落とさず、前のめりの速度感を維持しますが、ダイナミクスの設計や表情付けは巧緻そのもので、一本調子には陥りません。金管のロングトーンなども、強奏にしろクレッシェンドにしろ迫り来るような底力があります。ライヴのような高揚感もあって、全集中でも特に成功している演奏という印象。

“伸びやかなフレージングとウィーン流の典雅さ。至福のベートーヴェン演奏に酔う”

クリスティアン・ティーレマン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2009年  レーベル:ソニー・クラシカル)

 ライヴによる全集録音の一枚で、映像ソフトと同音源(筆者はブルーレイで試聴)。暗譜で振っており、弦を両翼配置にした上、コントラバスを最後列に並べています。意外にも流れの良さと柔らかなタッチを優先させた演奏で、イッセルシュテット盤以来、最もウィーン・フィルらしい全集だと思います。恣意的なテンポ変動の他、フレーズを存分に歌わせる事を重視している点ではH.I.P.の対極ですが、鋭敏なリズムや明晰で立体的なソノリティなど、古色蒼然とした演奏とも全然違います。

 第1楽章は余裕のあるテンポで、スケールの大きな表現。強弱のニュアンスを細かく付けていて、第1主題も一旦弱くしてから緩やかにクレッシェンドさせたりします。スタッカートの切れとリズム感が良いため、重々しくなりすぎないのは美点。アーティキュレーションを徹底的に描き分ける点ではH.I.P.と同様で、解釈が実によく練られています。

 即興的なルバートを多用し、幾分ロマンティックに傾く部分があるのはティーレマン流で、弱音部ではぐっとテンポが落ちるし、展開部に入った所などものすごいスロー・テンポ。木管ソロの柔らかさは印象的で、オケの魅力は全面的にフィーチャーされています。提示部リピートを実行。

 第2楽章は、ブルックナーかというほどの遅いテンポで開始。ただし、巧妙なアゴーギクによって自然な速度の加減が図られ、それと知らぬ内に標準的なテンポに近付いていたりします。提示部が終わってオーボエから新しい旋律が始まる所は、再びテンポをぐっと落とし、展開部で加速して音楽が熱を帯びるのも効果的。弱音部の集中力も高く、音楽が弛緩しません。

 第3楽章は一転して速めのテンポ。躍動感を表出しつつも、内声が突出したり、アタックの角が立ちすぎないのはこの全集の特色です。フレーズを切り詰めずにたっぷり養分を与え、音楽を伸びやかに息づかせるティーレマンの行き方は、ウィーン・フィルに最適と言えるでしょう。おかげで音が目詰まりせず、旋律がしなやかに流動するのが何よりです。

 フィナーレも、よく考えられた設計。最初の変奏など室内楽的というか、自然な間合いを生かした雄弁なアンサンブルは聴き応えがあります。トゥッティの盛り上がりが一旦ストップする箇所では、長い休止を挿入(ティーレマンはドキュメンタリー映像で、この箇所について示唆に富んだ発言をしています)。続く木管群の変奏も、超スロー・テンポで開始します。

 舞台上でも冷静なイメージのあるティーレマンですが、実演らしい高揚感は十分に確保。ドイツ風の重厚さに傾かず、あくまでウィーン流に典雅さ、柔らかさを軸にしたソノリティは素晴らしく、こういう音でベートーヴェンを聴きたいと思っていたリスナーは多いかもしれません。クラシック音楽の愉悦に溢れた名演奏。

“H.I.P.に傾倒した先鋭的な表現ながら、音色的美感は尊重”

ケント・ナガノ指揮 モントリオール交響楽団

(録音:2010年  レーベル:ソニー・クラシカル)

 全集録音シリーズの一枚で、バレエ音楽《プロメテウスの創造物》とカップリング。この曲には第4楽章の変奏曲主題が登場するので、アルバム全体としてのコンセプトにも合っています。ナガノのアプローチは、対向配置でノン・ヴィブラートを始めピリオド奏法も取り入れたもの。バロック的な細かい強弱を適用するし、短いクレッシェンドを随所に盛り込みますが、音価は必ずしも短く刈り込まず、尖鋭なアクセントに急速な減衰のパターンでは押しません。

 柔らかいタッチや細やかなニュアンスは耳を惹き、木管ソロなどピアニッシモでそうっと入ってきて、はっとするような効果を挙げたりします。全体に、雑音性は排除して美感を尊重する傾向。第1楽章は提示部リピートを実行、コーダに向かって感興を盛り上げてゆく熱い一面も聴かれます。

 第2楽章も、速めのテンポでバロック的様相を強めた表現。緩徐楽章で逆に音価を短く採っているのは面白い所です。オーボエによる第2主題の上昇音型や、弦の伴奏の3連符をスタッカートで切っているのはユニーク。古典的造形をキープしながらも、展開部ではスケール感をきっちり打ち出します。

 第3楽章は、無用にエッジを強調しない柔らかな演奏。トリオのホルンはオフ気味で間接音が多く、舞台裏で吹いている様子です。フィナーレがやや微温的で力強さに欠けるのが残念で、ここはもう少しアタックの鋭さや雄渾さ、高揚感が欲しかった所です。

“オケを主役にして管弦楽の魅力を存分に打ち出すも、斬新な解釈は満載”

マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団 

(録音:2012年  レーベル:BRクラシック)

 楽団自主レーベルによる全集録音より。まずは近年あまり聴かれなくなった、王道の独墺系オーケストラ・サウンドである事にほっとする全集です。ピラミッド型の音域バランスによる、たっぷりと中身の詰まったサウンドにヤンソンスらしい明朗さを加え、機敏なフットワークと鋭利さも兼ね備えます。又、この全集は音楽の流れがすこぶる良く、どの曲のどの楽章も、冒頭からコーダまで立て板に水のごとく一気に流れてゆく印象を与えます。スコアの隅々に至るまで、周到に設計されているものと思われます。

 第1楽章はテンポこそ標準的ですが、鋭いアクセントや敏感な強弱の描写が印象的。張りのあるティンパニもオケの運動神経を高めています。合奏力と滋味豊かなフレージングが素晴らしく、ベートーヴェン演奏の主役を指揮者からオケに戻した全集と言いたくなるほど、管弦楽の魅力と存在感が際立つパフォーマンス。ただ、スコアの改変、特に管楽器の和声補強は随所に施されているようで、聴き慣れない内声が響いたり、隠れたフレーズが浮かび上がるのはヤンソンスならではです。提示部はリピート実行。

 第2楽章は猛スピード(12分40秒で演奏しています)で、全体のバランスからみてもこの楽章の速さは突出していますが、ここにヤンソンスの様式感が出ている事は重要です。この楽章が肥大しない事で、作品全体が古典的造形にすっきりとまとまって感じられるのは新鮮。楽想の流れも非常に良く、これを聴くと他の演奏がスローすぎて冗長に聴こえるほどです。

 後半2楽章はオーソドックスな造形ながら、細密さとスケール感、柔らかさと鋭さ、ヒューマンな暖かさと機能美を見事に両立させた好演。オケも上手いし、感情のドラマとしても巧みに山場を形成しています。

“リスクを恐れずアグレッシヴな勢いに猛進する、スーパー・オケの凄み”

サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2015年  レーベル:ベルリン・フィルハーモニー・レコーディングス)

 ラトル二度目となる全集ライヴ録音から。自主レーベルから発売されたセットには、ブルーレイ・オーディオと全曲の映像、ドキュメンタリーも収録されています。音声はライヴのソースに、セッション収録での修正をミックスしたもの(その様子も撮影されています)。

 ラトル自身が語るように、演奏するたびに自分の間違いを発見するのがベートーヴェンの音楽で、解釈は常に変わってゆくもの。当盤ではH.I.P.からむしろ遠ざかった印象です。初期の交響曲は小編成にして曲目ごとに増やし、第九のみ通常編成で演奏。ティンパニは、当曲から柔らかめのバチに変えています。

 第1楽章は提示部をリピート。速めのテンポながら、冒頭の2和音はパンチを効かせず流麗。横のラインをスムーズに連結してゆく表現ですが、そのせいかアインザッツが不揃いになりがちなのは残念です。しかし勢いはものすごくあり、細部がアグレッシヴに仕掛けてくる感じはなかなかスリリング。展開部の、彫りの深い峻烈な造形も圧巻です。

 第2楽章は落ち着いたテンポながら、冴え冴えとした音響と精緻な合奏で構築。意識が常に覚醒し、指揮者もオケも感度を研ぎ澄ませている様子に独特の凄みがあります。コーダ前など、かなり恣意的にテンポを落とす箇所もあり。第3楽章は機敏で明晰。ただしコンディションは万全ではなく、縦の線はズレがちです。トリオのホルンは、これ以上ないほど鮮やか。

 第4楽章は、導入部のわずかに芝居掛かった溜めが、カラヤンの伝統を思わせもします。圧倒的な合奏力ゆえ、まるで巨大な室内楽のようにも聴こえるのは、正にヴィルトオーゾの領域。フーガの書法が出てくると、各パートの丁々発止のやり取りに思わず息をのみます。各フレーズの入りを際立たせるラトルの指揮も明晰ですが、同全集の第5、7番辺りと比較すると燃焼度が少し落ちるのが残念。

“H.I.P.のいいとこ取りで、ハイドンのようなユーモアと愉悦感を鮮やかに表出”

エサ=ペッカ・サロネン指揮 シンフォニア・グランジュ・オ・ラック

(録音:2018年  レーベル:アルファ・クラシックス)

 仏エヴィアンで70年代から毎夏、ロストロポーヴィチの主導でランコントル・ミュジカル・デヴィアン(エヴィアンでの音楽的出会い)という音楽祭が行われており、93年にラ・グランジュ・オ・ラックという木造の新しいホールが竣工。そして18年、欧州各地の団体から優秀な奏者が集まり、ホールの名を冠して結成されたのがこのオケです。日本語帯には結成コンサートのライヴ録音とありますが、原盤のブックレットにライヴとの記載はなく、同時に行われたセッション録音と思われます。

 カップリングは、同曲の葬送行進曲のモティーフを用いたR・シュトラウスの《メタモルフォーゼン》。サロネンはロス・フィルと、DGでネット配信限定の全集録音を行っていて、当盤は再録音に当たります。メンバー表を見ると2管編成で弦が12、11、8、6、4名となっており、室内オケとまではいかなくても、比較的小編成で演奏する団体のようです。残響はたっぷりとまでは行きませんが、適度に潤いがあって暖かみのある明朗なサウンド。

 サロネンの表現も、ティンパニやノン・ヴィブラートの弦はH.I.P.寄りで、コンパクトなオケの機動性をよく生かしたもの。第1楽章は速めのテンポで、とかく強調されがちな剛胆さを排し、肩の力を抜いて軽妙なタッチを前面に出しています。歯切れの良いリズムも爽快ですが、古楽系の刺々しさはなく、実にしなやかで優美。透徹した響きと精度の高い合奏はサロネンらしいですが、裏拍のアインザッツは乱れも散見されます。エンディング前で急加速するのはユニークな解釈。

 第2楽章は、アーティキュレーションを入念に描写して雄弁な語り口。テンポは各部で柔軟に変化させていますが、基本的に推進力が強く、ティンパニが入る全強奏の辺りはかなり速いテンポに上げています。中間部はホルンの響きに壮麗なスケール感も出て、フレージングにも前時代的な溜めを踏襲。みずみずしく清澄なノン・ヴィブラートのヴァイオリン群が、高音域で僅かにポルタメントを加えるに至って、スタイルの選択を越えた、不思議な音楽世界が聴き手を魅了します。

 第3楽章も小気味好く、きびきびと軽快。無理にメリハリを付けず、自然体に構えている所が良いです。アタッカで飛び込む第4楽章も、時にユーモラスな間を挟みながら、生き生きと変奏を展開。本来の《エロイカ》はこれくらい力みがなく、カジュアルな音楽なのだと思わせてくれる表現で、時にハイドンのような愉悦感さえ横溢します。しかし筆致は精細で解像度が高く、隠れた音符が急に主張して物を言うような瞬間もあり。聴き馴れたスコアが、すこぶる鮮烈で多彩な音楽として蘇った印象すら受けます。

“旧式のスタイルや情緒的身振りへの恐れを捨て、自然体で根源的感動を追求”

アンドリス・ネルソンス指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(録音:2019年  レーベル:ドイツ・グラモフォン)

 珍しくもセッション録音による全集から。残響がたっぷりしているのは、ライヴではない利点です。やや骨張った、雑味のある響きで、パンチの効いた機動性を追求するタイプではなく、往年の名指揮者達に近いアプローチ。いわば旧スタイルを、モダンなセンスで高精細にアップデートした演奏と言えば分かりやすいでしょうか。

 第1楽章は提示部リピート。パンチを効かせたパーカッシヴなタッチではなく、音価を長めに採った優美な造形ですが、柔和一辺倒ではなく雄渾な力感との対比もきっちり表現されています。またこの世代の指揮者らしい表情付けの解像度の高さが、驚異的なまでに鮮烈。曲想の変わり目で大きくルバートしたり、弱音部でぐっとテンポを落として旋律を嫋々と歌わせるのは、むしろH.I.P.の対極とも言える古風なスタイルです。オケの練達の表現力も聴き所。

 第2楽章は遅めのテンポで、語り口の振幅と濃淡を大きく採ったロマンティックなパフォーマンス。スケールも壮大で、今の時代にここまで全力で旧スタイルへ後退されると、ある意味ではむしろ前進にも聴こえます。少なくとも、全く古臭くは感じないのが不思議。描写が極度に精緻で、情報力が格段に多いからかもしれません。情緒的な身振りへの過剰な自戒や恐れが無い分、自然体の豊かなニュアンスが溢れているのは美点です。

 第3楽章は無理のないテンポながら、内圧のエネルギー感が動力となって音楽を牽引。トリオも佇まいが落ち着いていて、情感が豊かです。H.I.P.にはまるで味がしない演奏もある中、しっかり味付けされている安心感といったらありません。第4楽章も落ち着いたテンポで、各部を深く掘り下げてゆく趣。オケの表現力は凄いもので、十二分に発揮されていて聴き応え抜群ですが、常に冴え渡る指揮者の意識もヴィヴィッドに感じられます。

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