ヴェルディ/歌劇《ファルスタッフ

概観

 個人的には、《ドン・カルロ》と並んで最も好きなヴェルディ作品。悲劇を得意としたヴェルディだが、最後の最後に喜劇を書いたというのも素敵。シェイクスピア作《ヘンリー四世》の登場人物ファルスタッフのスピンオフ、《ウィンザーの陽気な女房たち》が原作で、構成がよくまとまっていて歌劇ビギナーにも楽しめる。約2時間という演奏時間もタイト。

 緻密を極めたオーケストレーションは圧巻で、千変万化する伴奏や合いの手の妙に圧倒される。歌手のパートも、ヴェルディらしいアリアは一つもないのに、印象的な旋律やフレーズが目白押し。最後のフーガでは、「人は道化の生まれつき、でも最後に笑う者が本当に笑っているんだ」とメッセージが込められた人生讃歌で終る所、実に素晴らしい。

 シェイクスピアが原作だと、ストーリーが錯綜していて設定も細かいせいか、妙な読み替え演出があまりないのが良い所。演出家が余計な要素を付け足す隙が無いのだろう。《マクベス》も《オテロ》もその傾向だが、本作は特にそう。ただ、現代に設定を移した演出は多く、それでも全く違和感がないのはシェイクスピアの普遍性の偉大さと言える。

 アンサンブル中心なので歌手を揃えるのが難しいが、オケの比重が高い事もあり、名指揮者のディスクも多い。オケ・パートに関しては、C・デイヴィス/バイエルン盤の活力と精度に達している録音は他にない。マゼール盤もオケは個性的だが、歌手に凹凸あり。逆にオケは大人しいものの、歌手が充実しているのがムーティ、アバドの両盤。

 映像ソフトでは、オケが見事で総合的にもガッティ盤、ユロフスキ盤が理想的だが、いずれも日本語字幕なし。演出も含め総合的にビギナー向きなのは、レヴァインの92年盤。演奏・演出共に異色ではあるがバレンボイム盤もお薦め。

*紹介ディスク一覧  *配役は順にファルスタッフアリーチェフォードクイックリー、フェントンナンネッタ

[CD]

80年 カラヤン/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団  

      タデイ、カバイヴァンスカ、パネライ、ルートヴィヒ、アライザ、ペリー

82年 ジュリーニ/ロスアンジェルス・フィルハーモニック

      ブルゾン、リッチャレッリ、ヌッチ、テラーニ、ゴンザレス、ヘンドリックス

83年 マゼール/ウィーン国立歌劇場管弦楽団

      ベリー、ローレンガー、ザンカナロ、ルートヴィヒ、アライザ、ワイズ

91年 C・デイヴィス/バイエルン放送交響楽団

      パネライ、スウィート、タイタス、ホーン、ロパード、カウフマン

93年 ムーティ/ミラノ・スカラ座管弦楽団

      ポンス、デッシー、フロンターリ、ディ・ニッサ、ヴァルガス、オフライン

93年 ショルティ/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

      ダム、セッラ、コーニ、リポヴシェク、カノニーチ、ノルベルグ=シュルツ

01年 アバド/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

      ターフェル、ピエチョンカ、ハンプソン、ディアドコヴァ、シュトーダ、レシュマン

[DVD]

82年 カラヤン/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

      タデイ、カバイヴァンスカ、パネライ、ルートヴィヒ、アライザ、ペリー

87年 カンブルラン/王立モネ劇場管弦楽団   

      ダム、マドラ、ストーン、ブダイ、デール、シミュトカ

92年 レヴァイン/メトロポリタン歌劇場管弦楽団

      プリシュカ、フレーニ、ポーラ、ホーン、ロパード、ボニー

01年 ムーティ/ミラノ・スカラ座管弦楽団

      マエストリ、フリットリ、フロンターリ、ディ・ニッサ、フローレス、ムーラ

06年 メータ/フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団

      ライモンディ、フリットリ、ランザ、ジリオ、シュトーダ、カンタレロ

09年 V・ユロフスキ/ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団  

      パーヴェス、クツネツォヴァ、クリストヤニス、レミュー、ベドゥズ、クセロヴァ

11年 ガッティ/チューリッヒ歌劇場管弦楽団

      マエストリ、フリットリ、カヴァレッティ、ネイフ、カマレナ、リーバウ

13年 メータ/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団  

      マエストリ、チェドリンス、カヴァレッティ、クルマン、カマレナ、ブラット 

13年 レヴァイン/メトロポリタン歌劇場管弦楽団  

      マエストリ、ミード、ヴァッサロ、ブリス、ファナーレ、オロペサ

18年 バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリン   9/22 追加!

      フォレ、フリットリ、ダザ、バルチェローナ、デムーロ、シエラ

21年 ガーディナー/フィレンツェ五月祭管弦楽団   9/22 追加!

      アライモ、ペレス、ピアツォーラ、ミンガルド、スヴェンセン、ボンコンパンニ

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[CD]

 

“艶っぽい音色でフレーズをたっぷり聴かせるオケと歌手”

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 ウィーン国立歌劇場合唱団

 ジュゼッペ・タデイ(ファルスタッフ)、ライナ・カバイヴァンスカ(アリーチェ)

 ロランド・パネライ(フォード)、クリスタ・ルートヴィヒ(クイックリー)

 フランシスコ・アライザ(フェントン)、ジャネット・ペリー(ナンネッタ)

(録音:1980年  レーベル:フィリップス)

 カラヤンの珍しいフィリップス・レーベルへの録音(唯一かも)。オペラに関しては当時、バーンスタインやレヴァインもこのレーベルへの録音があり、スケジュール等の関係で契約の垣根を越える事がよくあったのかも。主要キャストも含めて全く同じ顔ぶれのザルツブルグ・ライヴが映像ソフトで出ているが、当盤はムジークフェライン・ザールでのセッション録音。豊かな残響が心地良い。

 冒頭から、勢いよりもフレーズを良い音でたっぷり聴かせる事を重視。オケも歌手も、艶っぽい音色で朗々と歌う傾向が強い。テンポも落ち着いていて、格調の高いタッチを貫く一方、羽目を外したユーモアは控えめ。ただ、強音部のエネルギッシュな音圧、アクセントの刺々しさやトランペットを筆頭に派手な音色はカラヤン流。表情付けにやや誇張もあるが、聴かせ上手で巧妙な語り口はさすが。弱音部のデリカシーも聴き所。

 タデイはライヴ盤より音程やリズムも安定し、自在な歌唱力がより発揮されている。声質も豊かで艶っぽく、魅力的。後のデイヴィス盤でファルスタッフを歌うパネライが手堅い表現を聴かせる他、カラヤンお気に入りのアライザも美声で安定した歌唱。カバイヴァンスカはややヴィブラート過剰で、声にも癖あり。名歌手ルートヴィヒ、ジャネット・ペリーが美しい声と安定感のある歌唱で好演している。

“スローなテンポ、克明そのもののディティールで描いた、優美極まるファルスタッフ”

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ロスアンジェルス・フィルハーモニック

  ロスアンジェルス・マスター・コラール

 レナート・ブルゾン(ファルスタッフ)、カティア・リッチャレッリ(アリーチェ)

 レオ・ヌッチ(フォード)、ルチア・ヴァレンティニ・テラーニ(クイックリー)

 ダルマシオ・ゴンザレス(フェントン)、バーバラ・ヘンドリックス(ナンネッタ)

(録音:1982年  レーベル:ドイツ・グラモフォン

 演奏会形式のライヴ盤。ロス・フィルのオペラ伴奏は珍しいが、ジュリーニはこのオケにオペラの経験をさせてやりたいという教育的意図から、この公演を企画したそう。録音会場はミュージック・センターなる場所で、オペラハウスを思わせるデッドな響きの反面、各パートの分離は良く、ブラスを伴うトゥッティにも輝きがある。

 テンポは極度に遅く、細部を克明に処理してゆくスタイルだが、スコアを隅々まで照射する行き方は、オケのパートが精緻に描き込まれたこの曲に大変有効。歌手もオケも短いパッセージが多い曲なので、各フレーズを丁寧にたっぷりと聴かせるジュリーニの演奏は、旋律美に光を当ててスコアから優美な気品を引き出すのに成功している。

 例えば第2幕の大騒動でもニュアンスの豊かさを失わないし、フォードとファルスタッフが連れ立って出てゆく箇所など、独特のゆったりした足取りに、たおやかな情感すら漂う。終幕の大団円が白熱せず、最後まで落ち着き払っているのは、良くも悪くもジュリーニ。オケも明るい音色で緊密なアンサンブルを展開し、オペラ経験の豊富なジュリーニの棒によく付けている。

 ブルゾンは力強さと威厳、優雅さを兼ね備え、なるほどジュリーニが振ればこういうファルスタッフ像になるかという仕上がり。役にふさわしいかどうかは賛否あるとしても、歌唱自体は素晴らしい。アリーチェのリュートに合わせて歌う箇所など、まろやかな声、優雅で柔らかな歌い口で、このスタイルの典型をゆく。

 リッチャレッリも、美声と細やかな表現力が圧倒的。他ではヘンドリックスが最高で、第3幕のアリアが絶品だし、ウィリアム・ワイルダーマンが歌うピストラがいかにも悪党風なのも個性的。レオ・ヌッチがフォードを歌うのも豪華なキャスティングで、当盤の楽しみの一つとなっている。自身の名を冠した合唱団で知られるロジェ・ワーグナーが合唱指揮を担当しているのもロスならでは。

“鋭利かつ緻密で軽快、マゼールらしさ全開のライヴ録音。歌手は少し凹凸あり”

ロリン・マゼール指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団・合唱団

 ワルター・ベリー(ファルスタッフ)、ピラー・ローレンガー(アリーチェ)

 ジョルジオ・ザンカナロ(フォード)、クリスタ・ルートヴィヒ(クイックリー)

 フランシスコ・アライザ(フェントン)、パトリシア・ワイズ(ナンネッタ)

(録音:1983年  レーベル:オルフェオ)

 マゼールがウィーン国立歌劇場の座にあったごく短い期間の記録。歌手は凹凸があるものの、オケのパートが非常に優れたライヴ録音で、オルフェオが発売するのも理解できるクオリティ。マゼールのヴェルディ録音は意外に少なく、他にはスカラ座との《オテロ》《アイーダ》、ベルリン・ドイツ・オペラとの《椿姫》、コヴェント・ガーデン王立歌劇場との《ルイザ・ミラー》しかないかも。

 マゼールの指揮は、遅めのテンポできっちり句読点を打ってゆく独特のもので、アクセント、スタッカートに鋭利な切れ味があるのと、細かいパッセージまで驚異的な解像度でスコアを彫琢している所が特色。舞台上のドラマには配慮が行き届き、歌手との呼吸も見事に合わせている上、第1幕の各場や第2幕第2場は加速して熱っぽく終える一方、第2幕第1場ではマゼールらしいルバートを盛り込み、芝居がかったコーダを演出。

 第2幕の家探し騒動や終幕のクライマックスは、アゴーギクの操作が殊のほか見事で、急速なテンポでドラマを煽る所は、この時期のマゼールらしいスピード感と軽快なフットワークが絶妙。又、第3幕で真夜中を告げる鐘が鳴る所では妙に遅いテンポを採ったりと、アクの強さも発揮。録音も概ね鮮明で、細やかなパフォーマンスを余す所なく捉えている。ほんの短い音符にも艶やかなヴィブラートが掛かっていたりするのは、ウィーン・フィルならでは。

 歌手は、大型ではないものの表情豊かでユーモア・センスもあるベリーと、こういった役柄は得意な美声のアライザが好演。ザンカナロも悪くないが、女声陣がやや弱い印象で、ローレンガーは歌い方がやや時代掛かっている上、マイクのせいもあるのかどこか不安定。ワイズにも同じ事が言える他、名歌手ルートヴィヒも好調とは言えないようだが、やっぱり録音のせいだろうか。

“エネルギッシュな音楽を展開する見事なオケ・パート。歌手の魅力はあと一歩”

コリン・デイヴィス指揮 バイエルン放送交響楽団・合唱団

 ロランド・パネライ(ファルスタッフ)、シャロン・スウィート(アリーチェ)

 アラン・タイタス(フォード)、マリリン・ホーン(クイックリー)

 フランク・ロパード(フェントン)、ジュリー・カウフマン(ナンネッタ)

(録音:1991年  レーベル:RCA)

 当コンビのヴェルディ録音は他にレクイエムがあるが、オペラはこれが唯一。デイヴィスとしては他に、コヴェント・ガーデン王立歌劇場との《仮面舞踏会》《トロヴァトーレ》、ロンドン響自主レーベルの《オテロ》録音があり。

 スター歌手をほとんど起用していないのと、タイトル・ロールのパネライ以外、主要キャストを全てアメリカ人歌手で固めるという、異色の企画。この内、ホーンとロパードはレヴァイン指揮のメト映像でも歌っている。又、バルドルフォとピストラを同じ歌手が歌うという、録音ならではの突飛な(経済的な)アイデアも実行。

 デイヴィスの指揮が見事。速めのテンポと筋肉質の引き締まった響きで小気味よく音楽を運び、パンチの効いたアクセントを打ち込んで、音楽を生き生きと息づかせている。ヴェルディを演奏し慣れていないオケを起用しているのも吉と出ているようで、スコアを細部まで完璧に音にしている点では、数あるディスクの中でもトップクラス。特に、俊敏なスピード感とディティールの解像度はピカイチ。第1幕第1場など、これほどのエネルギー感と生気に満ちた演奏は他にない。

 歌手は堅実。パネライはフォードを当たり役としてきた歌手だが、70年代からファルスタッフ役もレパートリーに加えて熟成させてきたとのこと。もう少し遊び心があれば闊達な雰囲気が出たのではと思うが、真面目な歌唱は指揮者のコンセプトに合っている。他は、ベテランのホーンが相変わらず個性的な声を聴かせるのを除き、至ってオーソドックス。それぞれ実力のある歌手のようだが、指揮が素晴らしいだけに、歌唱陣にも華やかな個性が欲しい。

“持ち前のパワーを抑制し、モーツァルト的表現を目指すムーティ。歌唱陣が充実”

リッカルド・ムーティ指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団

 ファン・ポンス(ファルスタッフ)、ダニエラ・デッシー(アリーチェ)

 ロベルト・フロンターリ(フォード)、ベルナデッテ・マンカ・ディ・ニッサ(クイックリー)

 ラモン・ヴァルガス(フェントン)、モーリーン・オフライン(ナンネッタ)

(録音:1993年  レーベル:ソニー・クラシカル)

 ライヴ収録による、満を持しての録音。同作の初演100周年を記念した公演で、演出はジョルジュ・ストレーレル(80年にマゼール指揮で行われたプレミエの再演)だった。当コンビの同曲は、後に音楽祭のライヴ映像も発売されたが、キャストは大幅に違っている。オケの響きがやや遠目で生気に欠けるのと、歌手の移動に合わせて左右のチャンネルにかなり動きがあるのは難点。逆に言うと、それだけ臨場感のある録音。

 ムーティはこのオペラを、とりわけ第1幕前半をモーツァルト的な軽妙さを持って演奏していて、肩の力こそ抜けているが、力感やパンチには不足する。しかし、後半に向かって力強さを加え、第2幕のラストなど盛大な歓声が起っているので、あくまで解釈の問題かも。テンポの締まりがよく、アンサンブルも弛緩しないし、細部の解釈もよく練られていて、オケが万全の合奏力で応えている。

 歌手も優秀で、短いフレーズの受け渡しが多い作品にも関わらず、ライヴとは思えないほど見事なアンサンブル。そんな中、特に美声とテクニックで印象に残るのがダニエラ・デッシー。同じムーティの《ドン・カルロ》の映像でも素晴らしいパフォーマンスで魅せてくれた彼女だけに、対照的なこの役も是非映像で見たかった。

 ポンスは80年のプレミエ時に「遂にファルスタッフ歌いが見つかった」と讃えられ、奇跡的な大成功を収めた人で、再演に唯一参加しているキャスト。派手な存在感こそないが、器用な歌唱だし声も良く、表現力も多彩。クイックリー夫人は癖の強い声質の人が歌う事が多いが、当盤のディ・ニッサというメゾもやはり同傾向で異彩を放つ。ヴァルガス、フロンターリの配役も注目だが、オフラインや脇役も実力者揃い。

“ショルティらしい豪胆さは残しつつ、歌手もオケも流麗さが印象に残る演奏会形式ライヴ”

ゲオルグ・ショルティ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 ベルリン放送合唱団

 ホセ・ファン・ダム(ファルスタッフ)、ルチアナ・セッラ(アリーチェ)

 パオロ・コーニ(フォード)、マリアナ・リポヴシェク(クイックリー)

 ルカ・カノニーチ(フェントン)、エリザベス・ノルベルグ=シュルツ(ナンネッタ)

(録音:1993年  レーベル:デッカ)

 演奏会形式によるライヴ録音。オケがベルリン・フィルなのは注目されるが、同オケは意外にもカラヤンとのレコーディングがなく、この8年後にアバドとセッション録音を敢行。ショルティの同曲ディスクは、RCAイタリア・オペラ管との63年録音もあり。歌手陣はダムとリポヴシェク、コーニ以外あまり聴かない名前が並ぶが、メグにはスーザン・グラハムを起用。

 ショルティらしい豪胆さは音楽作りの基本を成し、金管の刺々しいアクセントなど、アグレッシヴな性格を打ち出すが、旋律線が意外に優美。歌手もオケも、短いフレーズまで艶やかに歌い切っていて、テンポ・ルバートも自在に盛り込まれる。アーティキュレーションもデリケートに処理していて、細部に至るまで実にニュアンスに富む指揮。ただし格調が高く、必要以上にコミカルさや劇性を求めないのはショルティらしい。

 スタッカートの切っ先など鋭利だし、場面転換をオケが誘導する局面では、意志の強さや牽引力を感じさせる場面が少なくない。第2幕で女性グループと男性グループが入れ替わる際の、弦楽アンサンブルが前に出て来る所も、加速とクレッシェンドが絶妙。ショルティというと主情を排した即物的な演奏を想起しがちだが、長年劇場で指揮してきた経験は伊達ではない。欲を言えば、余りにも整然としているので、もう少しとっ散らかった雰囲気が出ても良かったかも。

 歌手も、美声とレガートで艶っぽく歌うスタンスで、ダムはその典型。流麗でリリカルなファルスタッフという感じ。演奏会形式という事もあるのだろうが、あまり演劇的な身振りは聴かれない。他の歌唱陣も優秀で、美しい声の持ち主が揃っているが、若者の二人、特にフェントンの方はもう少し魅力が欲しいというか、やや弱い印象を受ける。

“美声の歌唱陣と、圧倒的な表現力を聴かせるターフェル。やや大人しいアバドの指揮”

クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 ベルリン放送合唱団

 ブリン・ターフェル(ファルスタッフ)、アドリエンヌ・ピエチョンカ(アリーチェ)

 トーマス・ハンプソン(フォード)、ラリッサ・ディアドコヴァ(クイックリー)

 ダニール・シュトーダ(フェントン)、ドロテア・レシュマン(ナンネッタ)

(録音:2001年  レーベル:ドイツ・グラモフォン)

 アバドはスカラ座管と多くのヴェルディ作品を録音しているが、ベルリン・フィルとはレクイエムや序曲集だけで、オペラは当盤が唯一。日本盤ライナーには、アバド自身による作品の分析、オーケストレーションを中心にスコアへの細かな言及が載っていて、ほんの数ページではあるが興味深い読み物。

 アバドの棒はソフトなタッチで、大人しめ。今一つ活力とユーモアが欲しいが、音楽的には緻密で完璧、テンポも落ち着いていて、徐々に力強さを増してくる。アバドはオペラティックな興趣やサービス精神には見向きもしない人なので、テンポを落として歌い込んで欲しい箇所でも、イン・テンポでさらりとかわしてしまう事が多い。オケの表現力は凄いが、編成はあまり大きくない様子。

 フレーズの息が短いのもその印象を助長する一方、例えば第2幕第2場のファルスタッフを迎える準備の場面など、繊細なピアニッシモが歌手とオケの間で交わされ、アンサンブルが見事。全体に、エレガントさを追求したコンセプト。曲自体も、幕を追うごとにアバド向きの精緻な音楽になってゆくので、演奏もそれにつれて良くなってゆく印象。

 歌手はピエチョンカやレシュマン、ハンプソンなど、美声の実力者を揃えているが、何といってもターフェルが素晴らしい。無限のニュアンスを聴かせる趣で、強弱、ルバート、声色など、あの手この手で飽きさせない多彩な表現力は圧倒的。他のオペラで聴く事も多い歌手だし、《サロメ》のヨカナーンなんて意外に存在感がなかったりもするが、改めて彼の芸達者さに舌を巻く思い。ピストラにアナトーリ・コチェルガというのも、贅沢なキャスティング。

[DVD]

“ベテラン揃いの歌手と重厚な指揮、薄暗い舞台が好みを分つ異色盤”

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 ウィーン国立歌劇場合唱団

 ジュゼッペ・タデイ(ファルスタッフ)、ライナ・カバイヴァンスカ(アリーチェ)

 ロランド・パネライ(フォード)、クリスタ・ルートヴィヒ(クイックリー)

 フランシスコ・アライザ(フェントン)、ジャネット・ペリー(ナンネッタ)

演出:ヘルベルト・フォン・カラヤン  (収録:1982年)

 ザルツブルグ音楽祭のライヴ映像。2年前に録音されたレコードと、ほぼ同じキャストによる上演。重厚な指揮といい、往年の名歌手を集めた重量級の歌唱陣といい、薄暗い照明の舞台演出といい、コメディ色を抑えた異色のファルスタッフ。

 カラヤンは登場するなりブラヴォーで迎えられているが、スコアのグルーヴと指揮棒のビートに幾分の乖離があり、アンサンブルもところどころ乱れる。細部は緻密に描写されているが、そもそもカラヤンの方向性自体が、ディティールの集積というより、マスの響きの充実感で聴かせる方なので、例えば3年後に同じオケを振ったマゼール盤とはコンセプトからして全く異なる。

 テンポも遅めか中庸で、極端に煽るような箇所はないが、リズムの取り方に軽快さを欠くのはこの時期のカラヤンの傾向。トゥッティの響きは誠にエネルギッシュで、ブラスなどスタッカートの切れ味も鋭利。各場面の緩急の演出も見事で、その辺りはカラヤン節健在と言える。オケが上手いので、スコアの室内楽的性格も十分捉えられている。

 歌手はベテラン揃いで歌唱自体はさすがだが、年齢層が高めで時代掛かって見える。タデイはいかにもスケベおやじという風貌と芝居で、台詞に近い自在な歌唱が見事。時に音程やリズムが崩れがちになるが、闊達なパフォーマンスはそれを補って余りある。声質も豊かで艶っぽく、魅力的。パネライも手堅い表現。カラヤンお気に入りのアライザも安定した歌唱で、若手の起用が多いフェントン役としては安心して聴いていられるのが何より。

 女声陣では、カバイヴァンスカがややヴィブラート過剰。同じくカラヤンとウィーン国立歌劇場の《トロヴァトーレ》の映像でレオノーラを歌っていた人だが、風貌も歌い方も旧世代という感じ。名歌手ルートヴィヒが、映像で観ると仕草や表情など、演技も女優並みに上手いのに驚かされる(バルドルフォを歌うハインツ・ツェドニクも然り)。ジャネット・ペリーも好演。

 例によってカラヤン自身が手掛けた演出は、いつもの型というか、伝統的でシンプルな舞台美術を、薄暗い照明で見せるもの。音楽を邪魔しない点では申し分ないが、独創的なアイデアは期待できない。歌手達の動きは生き生きとしていて、第2幕でファルスタッフが川に投げ込まれた後、全員が愉快に笑い転げる様子などは、実に楽しい雰囲気。

“カンブルラン若き日の記録。全体に好演ながら、薄暗い舞台演出は問題”

シルヴァン・カンブルラン指揮 王立モネ劇場管弦楽団・合唱団

 ホセ・ファン・ダム(ファルスタッフ)、バーバラ・マドラ(アリーチェ)

 ウィリアム・ストーン(フォード)、リヴィア・ブダイ(クイックリー)

 ローレンス・デール(フェントン)、エリジビェータ・シミュトカ(ナンネッタ)

演出:ルイス・パスカル  (収録:1987年)

 ベルギー王立モネ劇場のオケとコーラスだが、エクス・アン・プロヴァンス音楽祭のライヴ映像。当時のモネ劇場総裁はジェラール・モルティエで、彼がパリ・オペラ座の総裁、そしてザルツブルグ音楽祭の音楽監督を務めるのに合わせ、彼に重用された俊英カンブルランもザルツブルグの寵児となってゆく。ダムも後にザルツブルグでこの役を歌い、指揮をしたショルティがベルリン・フィルと録音を行った際にも起用されている。

 会場の響きがデッドなせいと、オケが超一流とはいかない点において、カンブルランの才気が十全に発揮されている記録とは言えないが、歌手も含めた精緻な合奏の構築と、シャープな切り口には聴くべきものがある。ドラマに肉迫して当意即妙にエッジを効かせたオケのアクセントや、歌手が入り乱れてとっ散らかった音を見事に整理してみせる棒さばきには、さすがブーレーズがアンテルコンタンポランに抜擢した人材、と唸らされる怜悧さがある。

 一方、第1幕の滑り出しなど、今一つパンチの効いたアタックや勢いが欲しいと感じる場面もなくはないが、名指揮者が一級の劇場で振っても同じ感触がしばしば残る曲目でもあり、若きカンブルランが一流とはいえないオケを振って、ここまでシャープな輪郭を切り出している点は評価すべきだろう。指揮姿が全く映らない映像演出は不満だが、カーテンコール(これも引きのロングショット一辺倒だが)では、颯爽と舞台中央に走ってくるカンブルランの勇姿が見られる。

 歌手はダム以外、私の全く知らない人達。個々の技量に多少ばらつきもあるが、アンサンブルとしては非常にまとまっていて、特に女性陣はマドラを筆頭に、シミュトカ、ブダイとみな柔らかい声質と音程の良さで好演。男性陣はやや地味だが、歌唱は悪くない。ダムも予期した以上に器用で、がなり声も使ったりして雄弁。身体の使い方も上手く、見応えがあるが、薄暗い舞台のせいで全てが暗がりに飲み込まれがちなのは残念。

 演出のパスカルはジョルジュ・ストレーレルの高弟だそうだが、師のスタイルをそのままなぞるのはどうかと思う。黒バックや影絵風のシルエットのせいで、歌手の細やかな表現がつぶれてしまう。そもそも群像劇でこれをやられると、誰が誰だか分からないし。全体の印象としても、息苦しくて窮屈。セット・デザインや衣装は絵画的かつオーソドックスで、夕景の並木道や静物画風の配置など、瞬間瞬間の美しさはよく出ている(それも師匠の手法なのだが)。

“驚嘆すべき完成度! ファルスタッフ上演の最高峰がここに”

ジェイムズ・レヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団

 ポール・プリシュカ(ファルスタッフ)、ミレッラ・フレーニ(アリーチェ)

 ブルーノ・ポーラ(フォード)、マリリン・ホーン(クイックリー)

 フランク・ロパード(フェントン)、バーバラ・ボニー(ナンネッタ)

演出:フランコ・ゼフィレッリ   (収録:1992年)

 ゼフィレッリの親しみやすい演出にレヴァインの完璧な指揮、粒揃いの歌手と、ビギナーにも安心して薦められる決定盤。バルドルフォ&ピストラやカイウス医師、フェントンなど、視覚的にもそれらしい歌手をキャスティングしているのはメトらしい。

 速めのテンポできびきびと進行するレヴァインの指揮はすこぶる手際が良く、あらゆる音符に生命が吹き込まれたかのようにスコアが躍動する。スタッカートの切れ味も鋭く、打楽器を伴うトゥッティのアクセントが痛快。デイヴィス盤もそうだが、こういうパンチの効いた思い切りの良い演奏だと、この曲は見違えるように活気付く。痛快というか、コメディはこうでなくちゃという感じ。

 第3幕で変装した2組のカップルの素性が明らかになる場面など、これほど巧妙にスパイスを効かせた演奏も稀。オケの技術力がまた、度肝を抜くほどのハイレヴェル。快速調のレヴァインの棒にぴたりと付け、各パートが自発的に表現しながらも一糸乱れぬアンサンブルを繰り広げる様は圧巻である。音響もクリアそのもので、録音もソロの細かい動きまで明瞭にキャッチしている。

 プリシュカは歌唱、容姿、演技力ともに適役で、第2幕のカーテンコールではびしょ濡れで登場し、客席をしかめっ面で指差すなど茶目っ気たっぷり。花瓶に活けられた大きな花束を抜いて、自分が持って来た小さな花束を差したり、第3幕の冒頭でクイックリー夫人に話しかけられてワインをブーっと吹き出すなど、演出なのか自分のアイデアなのか、客席を笑わせるサービス精神も旺盛。

 歌唱陣は何しろ演技力抜群の人達だから、ほとんどミュージカル。実際に音楽と歌手の動きがシンクロしている箇所もあり、第1幕でバルドルフォが椅子に尻餅をつく場面なんてまるでアニメ映画。ビデオ撮影を意識してか平素からか分からないが、顔の表情も豊かで、目の演技までしている人もいる。

 年齢層がやや高い事を除けばみな適役で、癖のある声質のマリリン・ホーンもクイックリー夫人には合っているかも。スーザン・グレアムがメグ、ピエロ・デ・パルマがカイウス医師を歌っている。ゼフィレッリの演出は、例によって台本の世界観を細部まで活写した、オードソックスながらイマジネーション豊かなもの。羊や犬など、生きた動物も舞台に乗せており、ナンネッタのアリアも馬に乗って歌われるなど見所満載。

“ヴェルディの生地で行われた没後100周年記念公演。見事な歌唱陣に注目”

リッカルド・ムーティ指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団

 アンブロージョ・マエストリ(ファルスタッフ)、バルバラ・フリットリ(アリーチェ)

 ロベルト・フロンターリ(フォード)、ベルナデッテ・マンカ・ディ・ニッサ(クイックリー)

 ファン・ディエゴ・フローレス(フェントン)、インヴァ・ムーラ(ナンネッタ)

演出:ルッジェーロ・カップッチョ  (収録:2001年)

 ヴェルディの生地ブッセートにある、ヴェルディ劇場で行われたライヴ映像。ヴェルディ没後100周年を巡る催しのハイライトで、座席数328という小劇場ながら、スカラ座のオケがピットに入った本格的な公演。ムーティは93年に同曲をライヴ収録しているが、今回はオケの編成を大幅に減らしている他、歌唱陣も若手を中心に起用。

 映像を見ても、拍手の響き方を聴いても、オペラハウスというより市民会館か映画館という感じだが、ムーティはそれを逆手にとって室内楽的、機能的にスコアを解釈していて、どことなくモーツァルトを想起させる。その意味では、スカラ座でのライヴ盤のコンセプトをより押し進めたものと言えるかもしれない。力強さはないが、歌手が緊密なアンサンブルを繰り広げている事もあり、小じんまりとした空間にふさわしい表現である。

 逆に、第2幕第1場におけるオケの当意即妙な合いの手などは、ムーティには珍しいユーモアのセンスも聴かれる一例。第2幕のコーダでは音価を長めにとって、優美なタッチを感じさす場面もあるが、部分的にテンポが性急過ぎて、前のめりになる印象もあるのはムーティらしい。

 マエストリはこの公演で国際的な名声を得た人だが、当時なんと31歳とのこと。深々と豊かな声と堂々たる体躯、多彩な表現力は正にファルスタッフにふさわしく、若さのデメリットを感じさせない。ベテラン、フロンターリのパワフルで充実した歌唱に一歩もひけをとらない存在感は、全く大した物。

 ムーティお気に入りのフリットリも素晴らしいパフォーマンスで、声の美しさもさる事ながら、細やかな演技力が抜群。旋律のアクセントに合わせてファルスタッフのお腹をつんと突いてみたり、吹き出しそうなこらえ笑いを歌の中に盛り込んでみたり、とにかく表現の引き出しが多い。リュートを弾く場面で、音自体はピットから流れているにしても、運指を正確に行っているようなのは彼女らしい。

 ちなみに、マエストリとフリットリのコンビは、ガッティ/チューリヒ歌劇場の映像でも観られる他、13年のスカラ座来日公演(指揮はハーディング)でも喝采を浴びた。又、まだスターになる前と思しきフローレスが、圧倒的な歌唱力を聴かせるのも豪華。ムーティ指揮の公演だけあって、他の歌手達も実力者を揃えている。

 演出は、作曲者生誕100周年を祝って1913年にトスカニーニ指揮で行われた際のプロダクションを、若手演出家カップッチョが再現したもの。本来庶民である登場人物達が、みな貴族のような衣裳、髪型で登場するのは違和感もあるが、背景とのマッチングもよく考えられた衣裳で、照明と相まって絵画のような色調を帯びる配色は美しい。舞台の狭さも感じさせない。ちなみにDVDの日本語字幕は、他盤と較べてかなり抽象化した意訳と感じられる部分が多く、残念。

“メリハリを効かせながらもやや安全運転のメータ。歌手も脇役に凹凸あり”

ズービン・メータ指揮 フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団・合唱団

 ルッジェーロ・ライモンディ(ファルスタッフ)、バルバラ・フリットリ(アリーチェ)

 マニュエル・ランザ(フォード)、エレナ・ジリオ(クイックリー)

 ダニール・シュトーダ(フェントン)、マリオラ・カンタレロ(ナンネッタ)

演出:ルカ・ロンコーニ  (収録:2006年)

 関係の深いメータとフィレンツェ五月音楽祭のライヴ映像。メータはこのオペラをセッション録音していないが、後にウィーン・フィルとのライヴ映像も出ている。又、ライモンディがファルスタッフを歌ったディスクも存在しない様子。ちなみにこのソフトは、発売元がTDKなのになぜか国内盤が出ず、日本語字幕入りで見る事ができないのは残念。

 メータの指揮はメリハリが効いてダイナミックで、構成がしっかりしている上、細部まで緻密に描写しているのはさすが。ブラスや打楽器のアクセントは思い切りがよく、トゥッティで常にバス・トロンボーンの低音を強調しているのは、正にメータ流。ただ、録音のせいか高域寄りの響きで、やや軽めに感じられる。それと、この曲ではありがちだが、指揮振りがどこか冷静で、安全運転に聴こえる面もなきしにもあらず。

 歌手はベテラン、ライモンディの真面目で落ち着いた歌唱と、他の映像ソフトでも頻繁に登場しているフリットリが群を抜いて見事。特に後者は歌だけでなく演技力もあり、感情の変化に合わせてフレーズの途中で、すっとニュアンスを変えたり、表情や目の芝居、身体の動きによる表現も加えたり、とにかく舞台映えする歌手。

 これと較べると、他の歌手は視覚的にも音楽的にも弱く、アンサンブルが多いこのオペラでは、全体のクオリティを下げる結果になっていて残念。小柄で大学教授みたいなクイックリー夫人、太っちょでコロコロしているフェントンとナンネッタなど、もちろん歌唱さえ一級であれば良いのだけれど。ハンサムなルックスのランザだけは、所作も含めて見応えがあるが、カーテンコールでライモンディ以外の男性陣に全く声援が来ない所を見ると、聴衆にもあまり受けなかった様子。

 演出は、絵画的な色彩の美しさと愉しい美術デザインが秀逸。高低差を付けたセットが多く、積み上げた酒樽の上で歌手が歌ったり、フォード邸のバルコニーと丘陵を対比させ、それぞれに男性陣、女性陣を配置するなど、視覚面もよく考えられている。ただユーモアには乏しいのと、第3幕で森の中にベッドを配置しているのは疑問。前時代と近代が入り交じる時代設定で、終幕の妖精達にパンク・ファッション風の人がいたり、群衆のルックはミュージカル“キャッツ”を想起させる。

“本作のスコア解釈に新たな地平を切り開く、新世代を代表する超名演”

ウラディーミル・ユロフスキ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

 グラインドボーン合唱団

 クリストファー・パーヴェス(ファルスタッフ)、ディナ・クツネツォヴァ(アリーチェ)

 タシス・クリストヤニス(フォード)、マリー=ニコール・レミュー(クイックリー)

 ブレント・ベドゥズ(フェントン)、アドリアーナ・クセロヴァ(ナンネッタ)

演出:リチャード・ジョーンズ  (収録:2009年)

 グラインドボーン音楽祭のライヴ収録で、日本語字幕入りのソフトはなし。特にオケのパートに関しては、新世代の息吹を感じさせるものすごい名演なので、国内盤の発売がないのは残念(まあ有名なオペラなら、大筋だけ分かっていれば字幕なしでもさほど支障はないが)。

 ユロフスキの指揮は、ムーティやアバド、ショルティでさえ上品に小さくまとめてしまった開放感とエネルギーを、刺激的なやり方で取り戻した素晴らしいもの。しかも、大抵のオペラにはなぜこんな音が?という無機的に響くパッセージが多少はあるものだが、ここでは全てのフレーズが存分に効果を発揮している。テンポの落差も大きく取っていて、第1幕も遅めのテンポで始め、加速しつつ幕切れに至る巧みな設計。

 このオペラには次世代によるスコア解釈の刷新が必要だとずっと思っていたが、やっとそういう演奏が出てきた。ユロフスキは、この作品に音楽的な革新性を見いだしており、第2幕第1場のファルスタッフとフォンタナのやり取りなど、こんなに色々な音が入っているオーケストレーションだったのかと驚かされるほど。

 歌唱陣は若手中心なのかあまり名前を聞かない人ばかりだが、華やかではないものの、手堅くクオリティの高いパフォーマンス。何といってもパーヴィスが素晴らしく、歌は器用で聴き易いし、表現も多彩。しかも演技力が抜群で、こんなに素晴らしいファルスタッフ歌いが今までどこに居たのかと嬉しい驚き。マエストリも優秀な新世代だが、パーヴィスはもっとあちこちでキャスティングされていいと思う。

 演出は舞台を現代に移し、カラフルかつポップな色彩で見せるもので、ユーモアもあって演劇的。開演前に緞帳(絵画風)の刺繍をしている3人の針子は全篇に登場するが、縄跳びをしていたりするくらいで無害。時折、妙な解釈に演出家の自己顕示欲が見え隠れするが、基本はオーソドックスで、奇しくも同時期のロバート・カーセンのプロダクションと共通点も多い。ラストを乾杯(指揮者にまで勧めて笑いを取る)と歓声で素敵に締めくくるのも、カーセン演出と同じ。

“全くもって見事なガッティの指揮。歌手も演出も好印象のお薦め盤ながら、日本語字幕なし”

ダニエレ・ガッティ指揮 チューリッヒ歌劇場管弦楽団・合唱団

 アンブロージョ・マエストリ(ファルスタッフ)、バルバラ・フリットリ(アリーチェ)

 マッシモ・カヴァレッティ(フォード)、イヴォンヌ・ネイフ(クイックリー)

 ヴィエル・カマレナ(フェントン)、エヴァ・リーバウ(ナンネッタ) 

演出:スヴェン=エリック・ベックトルフ  (収録:2011年)

 ガッティとチューリッヒ歌劇場管の、恐らく唯一の共演盤。NHKが製作に参加しているため、国内でテレビ放映はされたが、例によって海外盤ソフトに日本語字幕が入っていない。お薦めしたいディスクだけに残念である。マエストリ、フリットリのコンビはムーティ盤の映像がある他、13年のスカラ座来日公演でも実現した。マエストリはメータ/ウィーン・フィル、フリットリはメータ/フィレンツェ五月音楽祭の映像でも同じ役を歌っている。

 とにもかくにも素晴らしいのがガッティの指揮。編成も大きくないし、肩の力が抜けているのだが、細部の処理がすこぶる繊細で音楽的。オケも歌手も、一音だけ発する短い音符をテヌート気味に伸ばしてヴィブラートを掛ける箇所が多く、全体として非常に優美なタッチ。集中力も高く、特定のフレーズをマルカートで強調したりと、随所にアーティキュレーションへのこだわりが聴かれる。

 さらにはテンポのコントロールが絶妙で、第2幕の後半をはじめ、段階的に加速してゆく際のスリリングなアゴーギクは絶品。最後は狂躁的なスピードに達して場の混乱を演出するなど、ドラマ・メイキングのセンスに惚れ惚れさせられる。リズムや音色、フレージングへの配慮にも全く隙がなく、終始緊密なアンサンブルを維持。

 マエストリは艶やかな声とたっぷりした声量で表現力豊か、いつ見ても素晴らしいファルスタッフ。フリットリも、いつもながら質の高いパフォーマンス。二人共、コミカルな所作が細かく付けられた演出に見事に対応しており、スキルの高さを示す。脇役陣が充実しているのも特色で、若い歌手達も含めて、皆がカーテンコールでブラヴォーを貰っているのが気持ち良い。特に、フェントンとナンネッタは美声の上、弱音の表現力も豊かで好演。

 演出はカラフルでモダン、ポップでデザイン性の高いシンプルなセットが美しく、チューリッヒの小規模な舞台でも見栄えがする。時代設定は現代に近く、カーセンのプロダクションと共通する雰囲気があるが、アイデアを無闇に盛り込まず、リュートがラジカセになっていたりとかその程度。ストップ・モーションが多用されていて、特にフェントンとナンネッタの場面で他の出演者の動きが止まると、いかにも若い二人が自分達の世界に没入しているようで効果的。

 動きや所作は演劇的と言えるほど緻密に構築され、そこに控えめなユーモアを加えている所がいい。決して演出が前に出て主張したりはしないが、ちょっとした表情や仕草を加える事で、台本にはない性格描写がプラスされ、役柄の背景が豊かになる訳だ。音楽に合わせてファルスタッフのカップに何杯も砂糖を入れるアリーチェの動きなど、アニメチックに見える場面もある。最後のフーガで、出演者が長いテーブルに着いてワインで乾杯しながら歌うのも、人生讃歌っぽくて素敵。

“小気味好い演奏ながら、メリハリ不足。オフ気味の録音と面倒臭い演出もデメリット”

ズービン・メータ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団・合唱団

 アンブロージョ・マエストリ(ファルスタッフ)、フィオレンツァ・チェドリンス(アリーチェ)

 マッシオモ・カヴァレッティ(フォード)、エリザベス・クルマン(クイックリー)

 ハヴィエル・カマレナ(フェントン)、エレノア・ブラット(ナンネッタ)

演出:ダミアーノ・ミケレット  (収録:2013年)

 ザルツブルグ音楽祭のライヴ映像。メータの《ファルスタッフ》はフィレンツェでの映像ソフトも出ている他、あちこちでこの役を歌っているマエストリを始め、カヴァレッティ、カマレナもガッティ/チューリッヒ歌劇場の映像と同配役。

 メータの指揮は小気味好く、軽妙なタッチでまとめたものだが、もう少しメリハリや力強さ、スケール感も欲しい。細部は丹念に描写されていて、リズムもシャープ。第3幕冒頭など、速いテンポで勢い良く進行する箇所もある。雰囲気を重視したのかヴィヴィッドな臨場感に欠ける録音で、直接音をゆったりと余裕を持って収録しているため、オケの音色美があまり出ないのが残念。演奏自体は生き生きしている様子。

 歌唱陣はやはりマエストリが安定の名歌唱。演出は毎回様々だが、どんな芝居を付けられ、どんな衣装を着せられても、彼の実力と存在感は揺らがない。他で好演と言っていいのはクルマン、カマレナ、ブラット辺り。

 チェドリンスはヴェルディ・ソプラノとして評価が高いが、ヴィブラート過剰で音程がほとんど聴き取れない。容姿や演技力は充分ながら、ガッティ指揮《ドン・カルロ》の映像でも同じ傾向だったので、印象は変わらなかった。カヴァレッティもあちこちで見かける中堅だが、いつも無難な感じで、強い感銘を受けた事がないのは残念。

 演出は、現代の設定に移しているのはいいものの、色々と面倒臭いアイデアが多い。まず、大枠の舞台を老人ホームに設定し、全てをファルスタッフの妄想みたいに見せているが、これはもう使い古された手法。そのせいで、随所にエキストラの老人達がうろうろするし、全てを室内に設定したせいで、テムズ河の水がバケツ、第3幕の森が観葉植物で代用されたり、あちこちに無理が出て来る。

 又、本来そこにいない筈の登場人物を動員したり、いるけどいない体でと、観客の想像力に協力を求める描写が多く、演出側の論理を押し付けすぎる。第2幕で舞台一杯に広げられる巨大シーツのアイデアは悪くないが、ファルスタッフにバケツの水を浴びせるのは歌詞の内容と乖離している。アリーチェが弾くリュートがピアノに置き換えられる方が、まだ説得力のある読替えだと言えるだろう。

“新プロダクションで配役も一新した再演盤。歌手は今一つながら演出が素敵”

ジェイムズ・レヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団

 アンブロージョ・マエストリ(ファルスタッフ)、アンジェラ・ミード(アリーチェ)

 フランコ・ヴァッサロ(フォード)、ステファニー・ブリス(クイックリー)

 パオロ・ファナーレ(フェントン)、リゼッテ・オロペサ(ナンネッタ)

演出:ロバート・カーセン   (収録:2013年)

 ゼフィレッリの王道路線から時代設定を現代に移し替えた新演出。ミラノ・スカラ座の13年来日公演でハーディングが振った際もこのプロダクションで、その時もマエストリがタイトル・ロールを歌っていた。その時も素敵な演出だなと思ったのだが、残念ながら映像ソフトは日本語字幕なし。メトの映像ソフトにしてはオケがややオフ気味の音像で、トゥッティがやや虚ろな響きに聴こえるものの、ソロなど細かい音の動きはしっかりキャッチされている。

 レヴァインは車椅子に乗って指揮をしているが、スキャンダルで失職する前なので、登場から大喝采を浴びている。すでに高齢な上、座っての指揮で演奏にも影響が出るかと思いきや、演奏は溌剌として衰えを感じさせない。かつてほど力一杯のアクセントは聴かれないものの、音の立ち上がりにはスピード感があるし、鋭敏で軽快な演奏を繰り広げる。ただ、ユロフスキ盤の圧倒的鮮烈さを体験した後では、旧世代のスタイルに感じる面もなくはない。

 歌手はマエストリが安定の歌唱力で、演技面でもユーモアたっぷりのパフォーマンスで会場を大いに湧かせていて痛快。アンサンブルは、今やメトでもスター勢揃いという訳にはいかず、中堅・若手で固めているが、見た目には恰幅がよく華やかな女声チームが、どうも小粒でまとまりが今ひとつ。強いていえばクイックリー夫人は安定しているが、みな音程が怪しく、重唱のバランスが美しくない。男声陣も、一応キャラが立っているフォード以外は存在感に乏しい。

 というわけで、オペラの映像ソフトには非常に珍しい事に、当盤の見所は演出。現代に舞台を移している点は近年よくみる趣向だが、第1幕のテーブルが並んだレストランや第2幕のキッチンなど、セット美術が美しくリアルで、映画を観る感覚で接する事ができてビギナーにも薦められる。

 9/22 追加!

“遅めのテンポで味わい豊か。歌手のチームワークも好ましい名演”

ダニエル・バレンボイム指揮 シュターツカペレ・ベルリン

 ベルリン国立歌劇場合唱団

 ミヒャエル・フォレ(ファルスタッフ)、バルバラ・フリットリ(アリーチェ)

 アルフレッド・ダザ(フォード)、ダニエラ・バルチェローナ(クイックリー)

 フランチェスコ・デムーロ(フェントン)、ナディーン・シエラ(ナンネッタ)

演出:マリオ・マルトーネ  (収録:2018年)

 バレンボイムのヴェルディ作品は、同劇場での《オテロ》《トロヴァトーレ》、スカラ座での《シモン・ボッカネグラ》の映像ソフトもあるが、個人的には今一つしっくりこない感じがあった。しかし作品との相性もあるのか、当盤はとても良い演奏。劇場の大改修工事が終わった2017年、12月に開場275年を祝う特別プログラムとして上演された、イタリアの映画監督マルトーネによる新プロダクションの再演。

 近年の流行からするとかなり遅めのテンポで、曲想の変化に合わせてかなり細かくテンポ・チェンジ。時にかなり腰を落として濃密に描写するが、冴えた語調で細部をくっきりと照射するため、常に生き生きとした表情やエネルギッシュな動感が立ち上がる。詩的なデリカシーやスケール感、ユーモアとロマンティックな歌心も充分。スコアのポテンシャルを卓越した棒さばきで描き出した、味わい豊かな演奏である。

 フォレのタイトルロールは初めて聴いたが、器用な歌いっぷりで好演。フリットリもセンス、歌唱共に衰えがなく素晴らしいし、バルチェローナや若手・中堅陣の歌唱もみんな美声で正確。唯一、第1幕の重唱は縦の線がもう少し揃えばと感じるが、案外客席ではタイムラグが考慮されて揃って聴こえていたのかもしれず、合唱やソロはオケとのシンクロがどこまで調整されているのか判断が難しいのも事実。

 演出は時代を現代に置き換えたものだが、余計な読替えが一切無い点に大満足。「読替え」は受け付けない私も、「置き替え」なら歓迎である。ジョンは革ジャンにサングラス姿で、落書きだらけのスラム街に悪党たちと暮らし、フォード一家はプール付きの豪邸で暮らすセレブ。経済格差を背景にする点は、まあ一種の読替えか。クイックリー夫人がバイクに乗ってガーター亭にやってくる所など、あちこち笑いも起こっている。

 フリットリは他の演出でもそうだが、リュート(この演出ではギター)を弾く場面で、右手左手とも実際の運指を行っているように見える。音は吹き替えだとしても、実際に弾けるスキルはあるのではないか。そういう所にいつも、パフォーマンスに対する彼女の誠実な態度が感じられて好ましい。第3幕でフェントンのアリアを先導する角笛のソロは、ホルン奏者を建物の窓の所に立たせて演奏させるのも楽しい演出。

 カーテンコールで一人ずつ挨拶する時、去り際に茶目っ気のあるポージングをしてゆく歌手が多いが、他ではあまり見ない光景。よほど楽しい舞台だったのか、和気あいあいとしたチームワークの良さが伝わってきて何だか嬉しくなる。いつもオケの楽員たちを舞台に上げて、一緒に喝采を受けるのもバレンボイム流。

 9/22 追加!

“ピリオド寄りでもなく、やや衰えを感じさせるガーディナー。演出も常套的”

ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 フィレンツェ五月祭管弦楽団・合唱団

 ニコラ・アライモ(ファルスタッフ)、アイリーン・ペレス(アリーチェ)

 シモーネ・ピアツォーラ(フォード)、サラ・ミンガルド(クイックリー)

 マシュー・スヴェンセン(フェントン)、フランチェスカ・ボンコンパンニ(ナンネッタ)

演出:スヴェン=エリック・ベヒトルフ  (収録:2021年)

 ガーディナーとフィレンツェ五月祭管の珍しい共演盤。ガーディナーは98年に、オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークと同曲をセッション録音している。ベヒトルフのプロダクションは、この10年前にガッティ指揮チューリッヒ歌劇場の映像があるが、今回は新演出。公演は大成功で、鳴り止まない拍手を受けて、最後のフーガをもう一度演奏したそうである。

 ガーディナーならもっとピリオド寄りの表現かと思ったが、テンポもフレージングも意外に常套的。ただ、アーティキュレーションは徹底して描き分けられ、オケ・パートの緻密さはなかなかのもの。指揮姿を見ても思うが、あの精力的なガーディナーもだいぶ歳を取った感じで、アタックの激烈さや合奏全体の勢いがあまり感じられないのは残念である。とはいえ、カーテンコールでは盛大なブラヴォーを受けている。

 アライモも新世代のファルスタッフ歌いと言えるのか、歌唱力も表現力もこの役を歌うのに十分な器の様子。他ではペレスが所々でなかなか上手いなと思わせるが、好印象が持続しないのはやっぱり実力か。女性アンサンブルでは、ミンガルドがロシア風の癖のある発声ながら安定している一方、ボンコンパンニが声量も声質も弱いのが気になる。男性陣も悪くはないが、どうも印象に残らない感じ。

 ベヒトルフの演出は、時代設定を現代に移したチューリッヒのプロダクションから、元の時代に戻している。妙な読替えはないが、ストップモーションだけは踏襲。群像劇なので、歌っていない歌手全員にいちいち動きを付けるのは大変だろうが、一括で動きを止めるのはいささか安易な発想に感じる。読替え演出反対派の私が言うのも何だが、セット美術のカラフルな美しさなど、旧演出の方が好きだったかも。

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