プッチーニ/歌劇《トゥーランドット》

概観

 プッチーニ最後のオペラ。世界各国を舞台にオペラを書いてきたプッチーニですが、最後は中国でした。大胆な不協和音やユニークな管弦楽法を導入した書法は、次の世代の音楽にまたがる意欲的なものですが、そこはやはりプッチーニ。今の耳で聞くとやや映画音楽的な色彩もあり、やっぱり繰り返し聴くと、ヴェルディとは違って食傷気味になるのも事実です。アリア《誰も寝てはならぬ》が断トツに有名な一方、メジャーな全曲録音は意外に少なく、特にイタリアの指揮者達、シャイーやシノーポリ、ムーティ、ジュリーニ、パッパーノが録音を行っていないのは不思議でもあります。

 よく知られるように、リューが死んだ後の場面は、弟子のアルファーノが作曲者のスケッチを元に補筆したスコアで、その音楽的クオリティの低さは悪名高いものです。私は、モーツァルトのレクイエムの補筆はさほど悪くないと思うのですが、本作の場合は、冗長で間延びした構成や、空虚な響きが確かに気になります。もっとも、ゲルギエフやシャイーが支持するベリオの補筆も、異質という点ではアルファーノ版のさらに上をゆくもので、プッチーニの意図に忠実な分、アルファーノの方がマシだと、私は思うのです。

 荒唐無稽が言われる台本の中でも特に、カラフとトゥーランドット姫の人格破綻は尋常ではなく、感情移入云々以前に、物語として受け入れるのが困難な部分がかなりあります。特にアリア《誰も寝てはならぬ》以降はめちゃくちゃ。そもそも、いかなる暴君や権力者でも、直近の臣下から市民全員に至るまで全員を死刑に処すなどというおふれなど、どうやって出せるんでしょう。誰がどうやって処刑を行うのか、まず実行不可能ですし、市民も家来もゼロとなっては皇帝も姫もへったくれもありません。

 カラフもカラフで、姫をひと目みただけで、やっと再会したばかりの父とリューを見捨て、姫を手に入れると宣言してドラを鳴らしちゃいます。さらには、勝手に姫に逆質問を出題し、そのせいでリューは自害、市民全員が死刑になってしまう状況を作っておきながら、オレは知ったこっちゃない、ただ姫が欲しいんだなんて、もうどうかしてます。

 さらに姫も、おびただしい犠牲者を出してきた謎解きについに成功したカラフを、理不尽にも「いやです」と言って拒み、市民達は市民達で、尊い命を犠牲にして死にゆくリューに、まだ「名前を言え、名前を」と迫る始末。結局の所、リュー以外は誰もが自分の事しか考えていないオペラと言えます。ただ、このオペラを荒唐無稽だと言って再構築した宮本亜門版の音楽劇《トゥーランドット》も、ただただ混迷して訳の分からない筋書きになっていたので、プッチーニの荒唐無稽にもそれなりの力があるのかもしれませんね。

*紹介ディスク一覧  *配役は順にトゥーランドットカラフリュー

[CD]

61年 ストコフスキー/メトロポリタン歌劇場管弦楽団 

      ニルソン、コレッリ、モッフォ

72年 メータ/ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団  

      サザーランド、パヴァロッティ、カバリエ

81年 カラヤン/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

      リッチャレッリ、ドミンゴ、ヘンドリックス

83年 マゼール/ウィーン国立歌劇場管弦楽団 

      マルトン、カレーラス、リッチャレッリ

[DVD]

83年 マゼール/ウィーン国立歌劇場管弦楽団 

      マルトン、カレーラス、リッチャレッリ

87年 レヴァイン/メトロポリタン歌劇場管弦楽団

      マルトン、ドミンゴ、ミッチェル

98年 メータ/フィレンツェ五月祭管弦楽団

      カゾッラ、ラーリン、フリットリ

02年 ゲルギエフ/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

      シュナウト、ボータ、ガイヤルド=ドマス

08年 メータ/ヴァレンシア歌劇場管弦楽団

      グレギーナ、ベルティ、ヴォルガリドウ

09年 ネルソンス/メトロポリタン歌劇場管弦楽団

      グレギーナ、ジョルダーニ、ポプラスカヤ

15年 シャイー/ミラノ・スカラ座管弦楽団   

      ステンメ、アントネンコ、アグレスタ

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[CD]

 

“冒頭だけ耳につくストコ節より、名歌手達の華麗な歌唱に耳を奪われるライヴ盤”

レオポルド・ストコフスキー指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団

 ビルギット・ニルソン、フランコ・コレッリ、アンナ・モッフォ

(録音:1961年  レーベル:DATUM)

 過去に色々なレーベルから出ている放送録音。ストコフスキーがメトを振った記録は珍しいのではないかと思います。モノラル収録ですが、いわゆる疑似ステレオのような処理がなされています。強音部はさすがに歪むものの、音自体は鮮明で聴きやすい方。歌手をメインに聴くというリスナーであれば、オケの解像度がやや低くとも、名歌手たちの華やかな歌唱が展開する当盤には支障のない所かもしれません。

 冒頭から銅鑼やシンバルを派手に打ち鳴らし、木琴の連符を勝手にトレモロに変えてしまうなど、いきなりストコ節が炸裂しますが、各幕の最後に銅鑼のクレッシェンドを加える他は案外まともな演奏(失礼!)。速めのテンポで軽快に進む箇所が多く、この指揮者によくあるように、ティンパニを抑えて軽い響きを出しているので、それほど濃厚な表現には感じません。むしろ、重量級のスター歌手たちが前に出て、指揮者は伴奏に徹している印象もあります。

 歌手は豪華なキャスティングで、皆がみな艶やかに声を張って歌いまくっていて、何ともゴージャス。即興的な装飾をまじえる歌いっぷりも、オペラ歌手の黄金時代を感じさせます。そのせいか、トゥーランドット姫は全然冷徹な雰囲気がないし、リューなんて恰幅が良すぎてはかなげな悲しさに事欠きますが、まあグランドオペラの楽しいショーとして聴くものなのでしょう。

 コレッリの《誰も寝てはならぬ》も華麗なパフォーマンスに会場が大喝采。さすがのストコフスキーも、一旦演奏を止めています。宰相ポンを、ネルソンス指揮の映像ソフトにも出演しているメトの名物男、チャールズ・アンソニーが歌っているのも嬉しいキャスティング。

 

“雄弁極まる壮年期メータの棒と、豪華歌唱陣の圧倒的パフォーマンス”

ズービン・メータ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

 ジョン・オールディス合唱団、ワンズワース・スクール少年合唱団

 ジョーン・サザーランド、ルチアーノ・パヴァロッティ、モンセラート・カバリエ

(録音:1972年  レーベル:デッカ)

 あまりこの曲を録音していないデッカ・レーベルの代表盤。リマスターされて、ブルーレイ・オーディオ付きの豪華盤でも出ています。メータの同曲は、中国・紫禁城での一大イベントやバルセロナでの映像ソフトも出ていますが、セッション録音はこれが唯一。強音部や歌手の高音域など、ややノイズや混濁はあるものの、生々しくダイナミックな録音は聴き所です。

 演奏も実に雄弁で、壮年期のメータらしい熱っぽくグラマラスな表現は迫力満点。オケや合唱の統率が見事で、強靭なドライヴ能力を感じさせます。細部まで描写が精緻ながら、音楽全体がうねるような起伏の大きさもあるし、緩急のメリハリも鮮やか。合奏もよく揃っていて、コーラス共々一体感が強いです。後年の映像ソフトが、どちらかというと安全運転の淡白なパフォーマンスである事を考えると、メータの良さはこのセッション録音に一番よく出ていると言えるでしょう。

 歌唱陣は、一人ずつ述べるまでもないほど充実。スター性のみならず、妙な癖や過剰なヴィブラートもなく、オペラに関しては理想的なスタイルという他ありません。特徴としては、柔らかく角の取れた声質の歌手を集めている点でしょうか。サザーランド、カバリエは音程が正確で、弱音まで完璧にコントロールされた声が絶品。リューの泣き声など、ドラマティックな演技力も胸を打ちます。

 脇役も豪華で、ニコライ・ギャウロフがティムールを歌っている他、トム・クラウゼがピン、ピエロ・デ・パルマがポンを担当。オケもコーラスもオペラハウスの団体ではないですが、ロンドン・フィルはグラインドボーン音楽祭でピットに入っているし、作品自体にシンフォニックな性質もあり、聴き応えに遜色はありません。

“豪華キャストで一世風靡した名盤。意外にシャープで無駄の無い音楽作りのカラヤン”

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 ウィーン国立歌劇場合唱団、ウィーン少年合唱団

 カティア・リッチャレッリ、プラシド・ドミンゴ

 バーバラ・ヘンドリックス

(録音:1981年  レーベル:ドイツグラモフォン

 豪華布陣によるカラヤン一流の商業録音。初期のデジタル録音ですが、打楽器と合唱を伴うトゥッティでは、僅かに歪みます。ディティールの直接音がクリアにキャッチされているせいで、オケに非常な存在感があり、ウィーン・フィルの豊麗で艶やかな音彩が上手く生かされています。木管の細かい動きなど対旋律や細部をピックアップした箇所も多く、プッチーニのオーケストレーションの妙がよく表現された、いわば原色の《トゥーランドット》という印象。

 カラヤンがこの曲を振るとなると、さぞや大仰で絢爛豪華たる音絵巻になるかと想像しがちですが、意外にもシャープな造形で一貫。第1幕の群衆シーンや第2幕冒頭などリズミカルな箇所での引き締まったテンポ、各場面での無用な誇張を排したストレートな表現は、同じオケが2年後に収録したマゼール盤の、むしろ対極といっていいものです。

 勿論、ドラマティックな演出力や聴かせ上手な語り口は傑出しており、嫋々たるカンタービレとダイナミックな起伏で盛り上げるリューの自害場面など、さすがといった所。音楽作りとしては叙情性に重きを置く傾向があり、強いアタックを避けて、レガートの流麗なフレージングを多用。特に顕著なのが謎解きの場面で、リッチャレッリの歌唱を始め、ソフトなタッチで音楽を造形する一方、強い緊張感や鋭さを欠く感は否めません。一方、クライマックスにおける、雄大なスケール感は申し分のないもの。

 不思議な事に第3幕、アルファーノ補筆の場面から急に生気が失せ、スコアの音楽性の低さがいやに目立つのは残念。カラヤンの指揮と譜面の相性が悪かったのか、それともプッチーニびいきのカラヤンが、敢えて作曲家自身が完成させた部分と弟子の補筆の落差を強調したのか、いずれにしろこのパートは、妙に間延びして空虚に響く演奏になっています。

 歌唱陣は万全で、ドミンゴのカラフをはじめいかにも華がありますが、リッチャレッリのタイトル・ロールは、役柄とのマッチングに賛否が分かれるかもしれません。氷のように冷たいキャラクターは求めず、さりとて威圧的な迫力がある訳でもなく、美声と豊かな表現力でひたすら音楽的なクオリティを追求。声の美しさとニュアンスの多彩さでは、リュー役のヘンドリックスさえ少し弱く感じさせる(意図的な表現でしょうか?)ほど圧倒的なパフォーマンスです。

 特筆すべきは、脇役陣。凄まじく贅沢なキャスティングで、レコード制作黄金時代が偲ばれます。皇帝アルトゥムにピエロ・ディ・パルマ、ティムールにルッジェーロ・ライモンディ、ピン/ポン/パンにゴットフリート・ホーニック、ハインツ・ツェドニク、フランシスコ・アライザとはこれいかが。ただ、どの役もカラヤン・スタイルというか、艶めいた声で流麗に歌う点は共通しています。コーラスも生き生きとしたパフォーマンスで好演。同曲決定盤としての地位はいまだ揺るがないディスクかも。

“パワー全開のマゼール節が作品との強い親和性を示す、ユニーク極まりないライヴ盤”

ロリン・マゼール指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団・合唱団

 エヴァ・マルトン、ホセ・カレーラス

 カティア・リッチャレッリ

(録音:1983年  レーベル:ソニー・クラシカル

 英国で進められてきたマゼールのプッチーニ・シリーズに、番外編のような形で加わったライヴ録音。ロンドン以外のオケを起用するのも初めてなら、ライヴ収録も初めてですが、同時にビデオ収録も行われたため、丁度良かったのかもしれません。この後、《マノン・レスコー》《西部の娘》がミラノ・スカラ座で録音され、後者はやはりビデオ収録がメインのライヴ盤となっています。ジャケットには“SEFEL RECORDS”というロゴが入っていて、元はCBSの音源ではないようですが、プロデューサーがミシェル・グロッツ、エンジニアがジャック・レナーと、メジャー系の名物スタッフが収録を担当しています。

 演奏は、マゼールの強烈な個性が前面に出た、ひときわユニークなもの。冒頭から、異様なまでに遅いテンポと、細部を拡大するようなデフォルメ、不協和音の強調による激しい緊張感に、思わず身を乗り出してしまいます。音質は万全とは言えないし、アンサンブルにも結構乱れがありますが、この迫力と熱気も正にライヴならでは。プッチーニのスコアにも、これら典型的なマゼール節を歓迎するような要素が元々備わっているようです。

 合唱が入ってきて群衆場面になる所も、極端なアゴーギクやティンパニの強打など、スコアの特異性を強調する仕掛けがいっぱい。カラフが銅鑼を鳴らす箇所も、引き延ばされたフェルマータが緊張感を煽ります。第2幕冒頭も、スローなテンポでバス・トロンボーンのアクセントを強調して、いかにもグロテスクなムード。旋律線に意識が傾きがちなプッチーニ作品ですが、背後で細かく動く弦や木管のパッセージなど、オーケストレーションの面白さに光を当てているのもマゼールらしい所です。

 テンポの設定は実に緻密で、謎掛けの場面も細かなシフト・チェンジや間合いの挿入を繰り返して、緊迫感満点。終幕のクライマックスも、アルファーノの筆かどうかなんて気にする様子すらなく、誇張したアゴーギクを導入してケレン味たっぷり。真正面から取組んでスコアの弱さを露呈させたカラヤンとは、全く対照的な行き方です。各幕の山場は、そのスケールと高揚感が尋常ではなく、全ての歯車がうまく噛み合って、カラヤンとは全く別の意味で作品の特性にぴたりと合致した印象です。拍手も収録されていますが、会場の反応も熱狂的。

 マルトンは、プリマドンナ的な華やかさとは無縁の、ひたすら手堅くスコアに向き合う実力派型歌唱。底力のある人なので不足は感じさせませんが、相手役のカレーラスまで、不思議にもやや地味な声質に聴こえてしまうのは面白い所。カラヤン盤で姫を歌っているリッチャレッリは、本来の当たり役であるリュー役で参加。音量が上がってくると歌い方も少し過剰になる印象ですが、全体としては役にふさわしい清楚さ感じさせる歌唱です。

 脇役陣は、皇帝やティムールのキャスティングにもう少し華があれば、といった所。役人をクルト・ライデル、延臣ポンをハインツ・ツェドニクが歌っているのも、ウィーンのシュターツオーパーならではといった配役ですね(後者はカラヤン盤でも同じ役を歌っています)。

[DVD]

“演奏は超ド級ながら、演出は中型といった所。とにかくマゼールが格好いい!”

ロリン・マゼール指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団・合唱団

 エヴァ・マルトン、ホセ・カレーラス

 カティア・リッチャレッリ

演出:ハロルド・プリンス   (収録:1983年)

 ミュージカル・ファンには《オペラ座の怪人》の演出家と言えば分かりやすい、人気演出家ハロルド・プリンスのプロダクションを映像化。これは、少なくともLD、DVDでは国内盤が出た形跡がないようで、私が鑑賞したのも書籍として発売されている、世界文化社のオペラ名作鑑賞というシリーズの付録ディスク。音声がリニアPCMではなくドルビー・デジタルなので、多くは期待できません。ブルーレイでの正式発売を望みます。

 音源自体はCDでも出ているので、演奏に関してはそちらを参照して頂きたいですが、就任間もなく音楽監督のポストを追われたマゼールの、数少ないシュターツオーパーでの記録であるにも関わらず、会場はほとんどお祭り騒ぎの様相を呈していて、最初にマゼールが登場した時から、一体何があったのかというくらいに聴衆が熱狂的な反応を示しています。それに対し、クールに礼儀正しく、それでいて心を込めて会場に挨拶を返すマゼールの佇まいが、何ともかっこいい。短い就任期間の中でも、特に好評を博した演目だそうですが、この映像はその受け入れられ方をよく伝えています。

 プリンスの演出は、思ったほど大仕掛けではなく、スケールや豪華さではゼフィレッリのそれに及びませんが、階段など上下の空間を活用し、歌手の顔を完全にペイントするなど、なかなかアグレッシヴ。三人の大臣や、トゥーランドット姫など、メイクの上に仮面をしていたりして、最初の内は誰が歌っているのか分からないくらいに様式化されています。

 カラフやリューも、アジア風に目や眉が吊り上がったメイクで、言われなければカレーラスだと分からないかも。セットや衣装もカラフルで、それなりのゴージャス感は演出されています。そもそも、この路線でゼフィレッリと較べるのは間違いという感じもしますし、チャン・イーモウやチェン・カイコーなど本国の映画監督のプロダクションも映像化されていたりして、いくら売れっ子でも演劇畑の演出家が真っ向から勝負するのは難しいのかもしれません。

ゴージャスの極み! 一度は観ておきたいフィレッリ演出による同オペラ決定盤

ジェイムズ・レヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団

 エヴァ・マルトン、プラシド・ドミンゴ

 レオーナ・ミッチェル

演出:フランコ・ゼッフィレッリ   (収録:1987年)

 豪華絢爛を絵に書いたような、メトの壮大なプロダクション。こんなものを映像で見られるのは幸福な時代だと思います。ゼッフィレッリの演出は、演劇面どうこうよりも、まずもってセット美術と衣装デザイン、群衆の物量で客席を圧倒してしまうもの。もはやリアリティや時代考証云々を越えて、これだけのスケールで、きらびやかな舞台を見せられては、これも一つのスタイルとして受け入れざるを得ません。さすがのニューヨークの観客も、幕が開いた途端におおっという歓声を上げています。

 レヴァインの指揮は、カラヤンやマゼールのような個性や凄味は求められませんが、エンタメとしてバランス良く聴かせる、手際のよいスキルでまとめあげたもの。舞台がこれほど豪華であれば、演奏に凝集された強い緊張感など必要ないのかもしれません。第1幕の出だしなど、実に見事に決まっているし、シャープな切れ味も痛快。各場面の描き分けも巧妙で、ドラマティックな起伏に富んでいるし、スケール感も雄大です。

 又、細部は丁寧に仕上げられていて、色彩の豊かさやリズム感も卓抜。オケも高い技術力で好演しています。第2幕は冒頭こそ少し軽すぎるように感じますが、謎解きの場面など、高いテンションと緊張感を維持しながら、無駄のない強力な棒さばきで場面を牽引してゆく様はさすがという他ありません。リューの死の場面をはじめ、感情的に熱っぽい盛り上がりがあるのも好印象。

 マルトンのタイトル・ロールは、さすがシュトラウスやワーグナーを得意とするドラマティック・ソプラノだけあって、パワフルな張りのある声量と、それでも音程がブレない美声で聴き手を圧倒。舞台の上では派手な存在感こそないものの、立ち振る舞いや所作も多彩で、演技力にも欠けていないようです。ドミンゴも、例によって芸達者で表情豊か、華やかな歌唱でスター性抜群。3番目の謎に対する答を、最後のフレーズで粘る所など、名人芸と呼びたい雰囲気もあります。

 他のキャストで素晴らしいのは、何といってもリューを歌うレオーナ・ミッチェル。声の美しさやテクニックも一級ながら、第1幕のアリアでいきなり聴衆を虜にしてしまう表現力の豊かさは圧巻。第2幕の自害の場面も、主役陣を食ってしまいかねないほど存在感があります。カーテン・コールで盛大なブラヴォーを受け、涙ぐんでしゃがみこむ姿も印象的。もっと広く知られていい歌手ではないかと思います。

 ティムールを歌うポール・プリシュカは、同じ指揮者&演出家による『ファルスタッフ』の映像で見事に主役を歌っているメト常連の歌手ですが、リューを死に追いやった群衆を厳しく糾弾する所など、さすがの底力を感じさせる歌唱。逆に、皇帝アルトゥムを歌うスイス人歌手ユーグ・キュエノーは、何とも珍妙な、およそオペラ歌手らしくない弱々しい歌いっぷりで、大袈裟な身振りや旋律自体の奇抜さとも相まって、異色のメト・デビュー。3人の大臣は、身体の動きはよく振付けられていますが、アインザッツの乱れが目立ちます。

“紫禁城での記念碑的な公演ながら、演奏、録音、演出と全てに大きな難あり”

ズービン・メータ指揮 フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団・合唱団

 ジョヴァンナ・カゾッラ、セルゲイ・ラーリン

 バルバラ・フリットリ

演出:チャン・イーモウ  (収録:1998年)

 中国で初めて上演された同作品の記録映像。紫禁城に舞台を設置するという大イベントで、こういうお祭り的な企画には欠かせない指揮者、メータの夢でもあったとの事です。演出はこの1年前にフィレンツェで同曲を演出して好評を得た、中国の売れっ子映画監督チャン・イーモウで、彼もまた、北京オリンピック開会式の総合演出を担当するなど、大規模なイベントには縁のある人です。

 舞台中央奥から、まるで出演者のようにメータ登場。指揮は切れ味がよく、ソリッドなブラスを強調してダイナミックですが、テンポが速くてメリハリに欠ける上、低音部が薄い録音のせいで、かなり軽いサウンドに聴こえます。もっともこの状況だと、会場で聴いても本当に低音は響いていなかったかもしれません。クライマックスの盛り上げ方はスケールも大きく迫力がある一方、謎掛けの場面など、あまりに淡々と進むので緊張感が不足気味全。オケ、合唱は優秀ですが、どこか音が拡散する印象で、密度の濃さを求めたい所です。

 歌手は、タイトル・ロールのカゾッラが年齢、容姿共に役柄のイメージには少々キツイのと、ラーリンが歌うカラフが、歌唱は良いとしても、演技としては全くの無表情。そう考えると、やはりメータが絶賛するバルバラ・フリットリは、頭一つ抜出た才能の持ち主という印象。演技力もあるし、美声にも聴き惚れます。メイキング映像を見ると、巨大な舞台なのでマイクも使っているそうですが、録音は自然なバランスで収録されています。

 問題は演出。冒頭に人民解放軍のマス・ゲームを置くのはまあいいとして、合唱団など群衆がほぼ静止したままで、主要人物以外にほとんど動きがないのは違和感あり。広大な空間を持て余した印象も受けます。又、京劇や中国雑技団風のアクションを入れたり色々やるのはいいのですが、オリンピックの開会式の時と同じで、どこかお国自慢ショーみたいに見える面もあり、音楽やドラマとの密接な関係は希薄という感じがしないでもありません。

 一方、首切り役人プー・ティン・パオを身軽な少女に設定したり(くるくると舞いすぎですけど)、リューが姫のかんざしで自決するなど、ユニークなアイデアも幾つかあります。別に制作されたメイキング映画を観ると分かりますが、陰影を強調したがるイタリアの照明デザイナーを連れて来てしまったために、色彩の鮮やかさ、きらびやかさを出したいイーモウと意見が対立して、結局薄暗い舞台になってしまったのは残念。

“奇抜ながら意欲的な演出と、ゲルギエフの強力な指揮に注目。ベリオの補筆は違和感あり”

ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 ウィーン国立歌劇場合唱団、テルツ少年合唱団

 ガブリエーレ・シュナウト、ヨハン・ボータ

 クリスティーナ・ガイヤルド=ドマス

演出:デヴィッド・パウントニー  (収録:2002年)

 ザルツブルグ音楽祭でのライヴ映像。ゲルギエフの指揮が素晴らしく、正直な所、シンフォニーや管弦楽曲では今一つピンと来ない演奏も多いですが、オペラや声楽曲では水を得た魚のように自在な表現を繰り広げる所、本質的には「劇場の人」なんじゃないかと思います。パウントニーの奇抜なプロダクションも、この説得力の強い演奏があってこそという感じで、ここに挙げたディスクの中では、マゼール盤と共に群を抜いて強力なオーラを放つお薦め盤です。

 第1幕は、冒頭の警吏による宣告から群衆シーンに移り、カラフ達が登場するまでの一連の音楽の流れが、実にハッタリが効いてドラマティック。特にルバートの効果的な使用は見事で、時にレガートを排除し、敢えてぶつ切りのフレージングで再構築したような旋律線が、すこぶる斬新な印象を与えます。随所に聴かれるバス・トロンボーンのソリッドな吹奏も、異様なムードを強調。

 リューのアリアでは最後に情感たっぷりのルバートをかけ、その後の、カラフがドラを鳴らすまでの盛り上がりを、切迫した調子で煽るなど、心憎いまでの緩急巧みな演出が聴かれますが、凄いのが3人の延臣のパート。速めのテンポとシャープで軽快なリズム、色彩を構築し直した音響バランスによって、まるで聴いた事のないような、リズミカルでモダンな音楽に生まれ変わっています。

 第3幕のベリオ補筆によるエンディングは、アルファーノ版と同じ素材をなぞる所もありますが、基本的には木に竹を接いだような別世界の音楽。「プッチーニの音楽とは異質」と非難され続けてきたアルファーノ版が、それでもプッチーニのスケッチに基づいているのに対し、ベリオ版はプッチーニの曲を素材にした単なる自作に過ぎません。シュナウトはメイキング映像で「プッチーニもどきではなく、態度がはっきりしていていい」と言っていますが、例え音楽的に劣っていても、プッチーニが思い描いていた構想に近いのは断然アルファーノ版の方だと思います。

 シュナウトはパワフルな歌唱で実力を発揮。特殊な衣装と装置を伴って歌うのは大変そうですが、そういう演出上の障壁をものともしない、ヴァイタリティに満ちたパフォーマンスです。ヨハン・ボータも声や表現は見事ですが、外見的にオペラティックな劇性に乏しく感じられるのが難点。ぽっちゃりした体型やルックスの問題だけでなく、演技らしい事をあまりしないせいかもしれません。

 ガイヤルド=ドマスのリューは、この役によくあるように繊細でか弱い感じではなく、地に足の付いた安定感と意志の強さが特色。歌唱も力強いです。ティムールをパータ・ブルチュラーゼ、皇帝アルトゥムをロバート・ティアーが歌っているのも注目のキャスティング。3人の延臣も、頭や手に特殊な小道具を装着していて歌うのが大変そうですが、J-Popのグループ、Perfumeのような、三者三様に少しずつ振付けがずらされたロボット的ダンスを踊りながら、見事な歌唱を披露。オペラ歌手にとって、誰にでもできるパフォーマンスではないと思います。

 演出は、舞台となる北京をまるで架空の国のように扱い、処刑が日常化されている、非人間的で冷酷な社会のイメージを、実在の全体主義国家と重ね合わせつつ、過剰にデフォルメしています。この解釈にはなかなか説得力があり、ダイジェストやメイキング映像で見ると奇抜に見えるセット美術も、最初から鑑賞すると不思議と違和感がありません。むしろその隠喩ゆえか、物語の流れにうまくはまって、意外にしっくりきます。

 官僚主義社会と機械文明のイメージの融合は、テリー・ギリアム監督の映画『未来世紀ブラジル』の世界観を彷彿させ、巨大な人形と下で歌う演者を同時に見せるやり方は、サイトウ・キネン・フェスティヴァルの《オイディプス王》やミュージカル《ライオン・キング》の演出家ジュリー・テイモアの手法とも共通します。それでもスペクタクルやデザイン性が先行して音楽とドラマが置き去りになる事がないのは、例えば、カラフが姫に一目惚れしたのをティムールとリューが絶望して嘆くというような、基本的な感情の流れを丁寧に描いている(実は出来ていない演出が多い)からだと思います。

“雄弁さを増したメータの指揮と、意外に潤いのあるオケの響きが好印象。演出も見事”

ズービン・メータ指揮 ヴァレンシア歌劇場管弦楽団・合唱団

 マリア・グレギーナ、マルコ・ベルティ

 アレクシア・ヴォルガリドウ

演出:チェン・カイコー  (収録:2008年)

 メータ二作目の《トゥーランドット》映像ソフトは、またしても中国第五世代の映画監督を演出家に迎えた、本格派の舞台。前作の方、フィレンツェ五月音楽祭管との紫禁城公演を演出したチャン・イーモウは、当盤の演出を手掛けるチェン・カイコーの映画作品で、かつて撮影監督を担当していた人でもあります。当時マゼールが音楽監督を務めていたヴァレンシア歌劇場は、メータとも関係が深く、ワーグナーの《指環》の映像ソフトなども出ています。ただし当盤はまだ、日本語字幕付きの国内盤がありません。

 メータの指揮は、どの幕も振り始めこそさりげなく、安全運転ぶりが物足りないですが、音楽が進むにつれてダイナミックな雄弁さが出始め、スケールの大きなクライマックス形成で会場を湧かせています。紫禁城での公演と較べても、ニュアンスの豊かさや精悍なサウンド、リズム感の良さ、ドラマティックな語り口など、メータらしい美点がより感じられる演奏で、オケも意外にウェットで艶っぽい響きが好印象。そのせいか、叙情的な箇所を中心に、しみじみとした情感の豊かな演奏に聴こえるのも一興です。

 グレギーナはこの1年後にネルソンス盤でも歌っていますが、声の調子は当盤の方が良い印象。演出による妙な身振りがなく、それで興を削がれる事はありませんが、氷のような冷淡さより、感情を率直に表す人間的なトゥーランドット像が、双方に共通の解釈です。逆に、カラフを歌うベルティは風貌が悪人顔(失礼!)で、表情も豊かとは言えず、いわばクールなカラフという感じ。歌唱は悪くないのですが、ドミンゴやカレーラスのような華がないのと、姫に執着する必然性や説得力があまり感じられないのが、オペラとしては少し弱いです。

 リューを歌うヴォルガリドウ(読み方が違ったらすみません)は繊細な感じのルックスで、やや癖がありつつも芯の強い歌唱でインパクトあり。ティムールを歌うアレクサンダー・ツィムバリウクも、メイキング映像を見ると本来は若くてハンサムな歌手のようで、歌唱も外見もなかなかの存在感があります。さらに、3人の延臣ピン、ポン、パンを歌う歌手達が歌唱、演技共にみな上手く、コミカルな場面も見応えがあるのは何より。

 演出は、凝り性のカイコー監督らしく、衣装やセットなどリアリズムを追求したもの。メイキング映像を見ていると、歌手の動きや所作なども細かく指示しているようで、ドラマをおとぎ話に堕ちさせない意欲は感じられますが、ゼフィレッリのような派手なサービス精神はありません。照明もシックな色調で、ほの暗い舞台上に巨大なセット美術や群衆が展開する様は、『始皇帝暗殺』をはじめカイコー映画の諸作品を彷彿させます。面白いのは、3人の延臣がブランコに乗って歌う所。ユーモラスでありながら、彼らの望郷の想いも如実に表現しているこの表現は、なかなか秀逸。

“演出は同じながら、指揮者、歌唱陣共に、数段弱く感じられる、リニューアル版メト映像”

アンドリス・ネルソンス指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団

 マリア・グレギーナ、マルチェロ・ジョルダーニ

 マリーナ・ポプラスカヤ

演出:フランコ・ゼッフィレッリ   (収録:2009年)

 レヴァイン指揮の旧盤から22年を経て製作された、メトのライヴ映像。演出が同じゼッフィレッリのプロダクションだけに、その差異は極めて明確なものとなっています。端的に言えば、HD収録でブルーレイ・ソフトも出て(輸入盤、日本語字幕なし)、音質も画質も向上している一方、指揮、歌唱共に、旧盤のインパクトには及ばない、というのが正直な印象。

 ネルソンスの指揮は端正で若々しく、細やかな配慮にも事欠きませんが、スコアを隈無く照射し、見事に生命を吹き込んだレヴァインの指揮と比較すると、力強いメリハリや感情の喚起力に乏しく、どこか物足りなさを覚えます。テンポは速めの箇所が多いですが、細部に拘泥せず、全体を大掴みで流してゆくような表現は、この曲の場合、裏目に出てしまうようです。異様なオーケストレーションの効果やドラマティックな緊張感を表出するには、指揮者が真面目すぎるのかもしれません。

 歌唱陣も、完璧なキャストと言えた旧盤と較べると、小粒で印象が散漫。主役のグレギーナは、少し癖のあるほの暗い声質ながら、全体にパワフルな歌唱ですが、フォルティッシモではややヴィブラートがきついように感じます。又、第1幕の登場で早くも笑顔を見せ、リューの死には大きく動揺するなど、この役としては感情を出しすぎる演技プランには、疑問を感じる人も多いかもしれません。

 カラフ役のジョルダーニは逆に、歌唱に徹して演技はあまりしない方針のようで、この二人が持つ、役柄とは逆方向の資質によって、冷徹な姫と熱血漢カラフの性格的温度差が、平坦にならされてしまった感じを受けます。又、綿密かつ多彩な演技力で聴き手を圧倒するドミンゴの記憶も、自然と比較の対象に入ってしまっていけません。声量は豊かですが、声質に若干の酸味というか、金属的な響きがあり、グレギーナと同様、強音部のヴィブラートで音程が聴き取りにくくなる傾向もあります。

 最も素晴らしいのは、リューを歌うポプラスカヤで、声の美しさと表現力、演技共に理想的。ティムールはベテラン、サミュエル・レイミーが歌っていますが、一語一語を短く切り、その上で全てのフレーズに細かくヴィブラートを掛ける歌い方は、個人的に少し受け入れ難いです。皇帝アルトゥムは、メトの名物歌手チャールズ・アンソニーが歌っていて、これはゼッフィレッリ演出の定番なのか、旧盤のキュエノー同様、しわがれた弱々しい声でコミカルに歌う役作りが異色。

“管弦楽は理想的ながら、歌手と演出、ベリオ補筆のエンディングに疑問符”

リッカルド・シャイー指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団

 ニーナ・ステンメ、アレクサンドル・アントネンコ

 マリア・アグレスタ

演出:ニコラウス・レーンホフ   (収録:2015年)

 シャイーの同曲は、70年代のサンフランシスコ・ライヴ盤が出回っていましたが、正規録音はこれが初。若い頃からプッチーニをよく振ってきた指揮者だけに待望のソフトでしたが、歌手と演出、エディションに難があって残念な仕上がりです。

 オケのパートは素晴らしく、引き締まったテンポできびきびと進行する所に、いつもながら見事なプッチーニ像を提示しています。透徹した立体的な響きで、大胆なオーケストレーションを精緻に解き明かしてゆく手腕も卓抜。いわゆる映画音楽的な安っぽさを出さず、スコアの先鋭性に光を当てている点は、さすが現代音楽を得意にするシャイーだけあります。残念なのは、彼が支持するベリオ補筆版のエンディングを使用している事で、アルファーノ版以上の違和感にがっかり。高揚感も全然ありません。

 歌手はどういう訳か、ヴィブラート過剰で音程がよく聴き取れない人ばかり。カーテンコールで特に喝采を浴びているアグレスタのリューも五十歩百歩で、ワーグナーで人気のステンメも深々とした声質は魅力的なものの、中音域を中心に音の揺れが大きすぎて問題あり。

 カラフを歌うアントネンコは散々で、私にはまるでベルクのオペラに聴こえます。会場では多少ブラヴォーも来ているので、生で聴くと違うのでしょうか。大臣達もほとんどヴィブラートしか聴こえてきませんが、そんな中で唯一、音程感を確保しているのがティムールを歌うツィムバリュク。サングラスを掛けたワイルドな風貌を施されていますが、歌唱は手堅いです。

 演出のレーンホフは、ネーデルラント・オペラの《トスカ》でもシャイーと組んでいるベテランですが、いつも面倒臭いアイデアを満載する人で、個人的には感心しません。時代も国も設定をぼやかし、近未来風にも見える大仕掛けに、陰鬱なセット美術、衣装デザインが目に付きますが、この路線ではゲルギエフ盤のパントニー演出に到底敵いません。コーラスが付けている仮面や姫が被るヴェール状のものは、いかにも意味ありげですが、特に解読したいとも思わない鬱陶しさがあって演奏の邪魔。

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