モーツァルト/レクイエム

*概観

 レクイエムの代表的な名作。モーツァルト最晩年の作品で、謎めいた逸話や裏話も付随するが、最大の問題はやはり未完だという事。弟子のジュースマイアーによる補筆は批判される事も多いが、私はプッチーニの《トゥーランドット》と同様、やや冗長な点を除いて一般に言われるほどひどいとは思わない。

 補筆といっても作曲者自身の遺稿やメモに基づいている訳だし(アーノンクールもこの点を強調している)、冒頭部分が回帰する構成もまとまりが良い。初演当時の話で言えば、シューマンはこの補筆を酷評したそうだが、ベートーヴェンは逆に、批評家達の「本当の作品ではない駄作だ」という記事の上に「大馬鹿野郎!」と書き殴ったと伝えられる。

 宗教曲ながら印象的なナンバーに事欠ないが、宇多田ヒカルを始め他ジャンルのアーティストにもこの曲が好きな人は多く、コード進行やメロディにクラシックの枠を越えた魅力や親しみやすさもある。特徴的なのは、クラリネットとトロンボーンの使用。F管のバセットホルン(クラリネット属)は、冒頭からハーモニーに独特の色を加えていて、時にオルガンのような、ほの暗く荘厳な響きを作り出している。

 当時の聴衆にもこの音楽は衝撃を与え、粗野で革命的な作品を書いたあのベートーヴェンでさえ、この曲を「あまりにも荒々しく、身の毛のよだつもの」と評した。

 ピリオド系団体の台頭以前・以降で、解釈に大きな地殻変動が起こっている事は確かだが、昔の指揮者にもすっきりと端正に造形する人はいたし、そこは交響曲と事情は同じ。歌手が活躍する曲ではないので、スター歌手が揃っているからといって名演とは限らない。むしろ合唱のクオリティと、指揮者がどういうスタイルを採択しているかが、リスナー側の好悪判断の決め手である。

 私は古楽系のアーティストをほとんど聴かないので、モダン・オケのディスクが中心。なので、やはり好きな指揮者を中心に選んでしまう。スタイルとしては旧世代の重厚なものより、フットワークの軽いモダンなタイプが好きなので、ご紹介しているディスクもカラヤンやジュリーニを除いて、そういった演奏が多いように思う。お薦めはケルテス盤、C・デイヴィス盤、バレンボイム盤。

*紹介ディスク一覧

65年 ケルテス/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

75年 カラヤン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

85年 バレンボイム/パリ管弦楽団   

86年 カラヤン/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

87年 ムーティ/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

89年 ジュリーニ/フィルハーモニア管弦楽団

91年 C・デイヴィス/バイエルン放送交響楽団

97年 アバド/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

03年 アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

06年 ティーレマン/ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

11年 ヤンソンス/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

16年 メータ/ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 (抜粋盤) 

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“躍動的なリズムで全体を支えつつ、合唱を前面に押し出した熱演”

イシュトヴァン・ケルテス指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 ウィーン国立歌劇場合唱団

 エリー・アメリング(S)、マリリン・ホーン(Ms)

 ウーゴ・ベネッリ(T)、ツゴミール・フランク(Bs)

(録音:1965年  レーベル:デッカ)

 当コンビはモーツァルトの交響曲を数曲録音していますが、宗教曲はこれが唯一(ロンドン響とは《フリーメイソンのための音楽》を録音)で、後は歌劇《後宮からの逃走》全曲盤があります。モーツァルトをこよなく愛したケルテスの録音の中でも特に評価の高い一枚で、発売当初は「触ると火傷しそうに熱いレクイエム」と評された熱演を展開。

 全体として流動性の強いテンポが採択され、リズム感の良さが構成を支えている印象。響きが明晰なのもケルテスらしいですが、合唱団の力強い表現力が群を抜いていて、音響全体も合唱の迫力で聴かせるようなバランスになっています。ピリオド系の演奏を知る今のリスナーの耳にも全く重さを感じさせない、生き生きとした描写力が持ち味ながら、山場では壮麗なスケール感で圧倒する所、モダン・オケのディスク中でもなかなか得難い名盤です。

 《レクイエム》は造形が明確で、フレーズがくっきりと浮き彫りにされるような印象。弦の艶やかな光沢も美しく、細部の繊細な表現が光る一方、スケールの大きさも十二分に表出されています。《キリエ》もディティールを緻密に処理。コーラスが加わっても、響きの立体性が失われません。《ディエス・イレ》はアタックを抑えてソフトなタッチを追求しながら、音圧は下げずに力感を確保。表情豊かな合唱のパフォーマンスを第一に聴かせる感じです。

 《トゥバ・ミルム》は豊かな残響を伴ったトロンボーン・ソロが絶品。必要に応じて前に出たり、柔らかいオブリガートに徹して要所でのみアクセントを加えたり、バランスのわきまえ方が心憎いほど見事です。独唱陣も豪華で、やや癖の強いホーンの声を緩和する格好で、トップノートにアメリングの美声が乗る辺り、よく練られたキャスティングと言えそうです。

 《レックス・トレメンデ》は遅いテンポを採りますが、序奏部の澄んだ音色が魅力的。続くコーラスにも、並々ならぬ力が漲ります。同じく遅いテンポの《コンフタティス》は、響きの見通しが良く、遠近法やダイナミクスがよく計算されています。とりわけ音色、音量における対比の効果は、緻密に演出されていて、一本調子に陥る事がありません。

“壮大で曖昧模糊とした音の海。あまりにも重厚なカラヤン流には抵抗も”

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 ウィーン楽友協会合唱団

 アンナ・トモワ=シントウ(S)、アグネス・バルツァ(Ct)

 ヴェルナー・クレン(T)、ヨセ・ファン・ダム(Bs)

(録音:1975年  レーベル:ドイツ・グラモフォン)

 カラヤン二度目のモツレク録音。オケは手兵、壮年期の録音でもあり、豪華歌唱陣を揃えた正にカラヤンの決定盤。演奏も全くカラヤン流という他なく、古楽系ディスクの市民権獲得を経た現代の耳には、賛否両論のある表現かもしれません。その意味では、音の透明度やリズムの機動力が高い、後のウィーン録音に軍配が上がるように思います。コーラスはなぜか、ウィーン楽友協会の合唱団が担当。

 第1曲から超スロー・テンポで、角の取れたレガート奏法を徹底。リズムも輪郭もみんな音の海に飲み込まれてしまって、合唱とオケの境界線すら曖昧模糊としているくらいです。《キリエ》も分厚い音で重々しく、ひたすら遅いテンポ。対位法の立体感やリズムの躍動はほとんどなく、まるでストコフスキーが編曲したバッハみたい。

 《ディエス・イレ》はベルリン・フィルが緊密なアンサンブルを繰り広げますが、合唱の腰が重く、アインザッツもズレる箇所があります。《トゥバ・ミルム》のトロンボーン・ソロは、2本で吹いている様子。歌唱陣は重量級で、テノールにやや癖あり。逆に《レコルダーレ》や《ベネディクトゥス》では歌唱の美しさがよく出て、オケも弱音主体で威圧感がなく、聴きやすいです。

 《コンフタティス》は弦の威力に迫力がありますが、やはり合唱のアインザッツが乱れます。対比される弱音部は、はかなげで美しい表現。《ラクリモサ》は平均か少し速めのテンポながら、全てが茫漠としてフォーカスの甘いサウンド。大柄な造形ですが、荘厳ではあります。《ドミネ・イエズ》はきびきびしたテンポながら、残響の長い録音が細部をぼかしてしまう印象。《サンクトゥス》の壮大さも、カラヤンらしい表現。 

“枚挙に暇がないほど素晴らしい瞬間が連続する隠れた名盤。合唱団も特筆もの”

ダニエル・バレンボイム指揮 パリ管弦楽団・合唱団

 キャスリーン・バトル(S)、アン・マレイ(Ms)

 デヴィッド・レンダル(T)、マッティ・サルミネン(Bs)

(録音:1985年  レーベル:EMIクラシックス)

 当コンビのEMIへの録音群はなぜかほとんど忘れ去られた印象があり、当盤の存在もあまり世に知られていないように思います。オケ専属の合唱団を起用していて合奏に一体感があるのと、独唱陣が豪華な点、パリ管の同曲録音が珍しい点など、様々なアドヴァンテージのあるディスクなので、国内盤でも復活が待たれます。

 冒頭こそスロー・テンポの荘厳な調子で始まりますが、必ずしも重々しい足取りで一貫する訳ではなく、多彩な表現を展開。ティンパニの粒立ちが良いのと、オケの音彩が明るい点は、演奏に独特の色合いを与えています。ルバートの呼吸や緻密な強弱のコントロールなど、指揮の見事さにも目を見張るものがあり、全体に満ちる熱気と引き締まった造形感覚、各部の適切な表情、豊かな情感にも心を打たれます。

 例えば《キリエ》終結部のリタルダンドの呼吸、《ディエス・イレ》の推進力と動感の強さ、熱情の発露、細かく変化を付けたディナーミク、《トゥバ・ミルム》の深々とした叙情の美しさ、《レックス・トレメンデ》のひたすら優美なタッチと雄弁なニュアンスなど、挙げていけばきりがないほどに素晴らしいパフォーマンスが続きます。加えて、重唱もソロも美しい独唱陣の好演が当盤の価値を大きく上げる一方、特筆大書したいのが合唱の表現力。

 パリ管の合唱団は演技面での没入度も高く、オペラの舞台では時に暴走して演出家が止めに入るほどだと聞いた事がありますが、当盤でもコーラスの積極性が抜きん出ています。明るい響きがオケとマッチしているのも美点ですが、例えば《ディエス・イレ》や《コンフタティス》の旺盛な表現意欲はどうでしょう。変化に富んだ指揮者のアゴーギク、デュナーミクに食らいついてゆく、その気迫と表現の振り幅には圧倒されます。

“響きの透明度と輪郭が改善されたカラヤン再録音。合唱が特に優秀”

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 ウィーン楽友協会合唱団

 アンナ・トモワ=シントウ(S)、ヘルガ・ミュラー=モリナーリ(A)

 ヴィンソン・コール(T)、パータ・ブルチュラーゼ(Bs)

(録音:1986年  レーベル:ドイツ・グラモフォン)

 カラヤン三度目の録音で、初めてウィーン・フィルを起用。オケの艶やかな響き、とりわけヴァイオリン群の光沢は美しいが、特筆すべきは合唱とのブレンド。よほどピッチが正確なのか、コーラスの確かな和声感と透明な響きのおかげで、オケのディティールも常にクリア。対位法の立体感が最大限に発揮されている。適度な残響を伴いつつ、ソフトな手触りとまろやかな音色で繰り広げられる当盤には、独自の魅力あり。

 第1曲は気の遠くなるほど遅いテンポ。耽美性に傾いた晩年のカラヤンらしいが、響きを織りなす各レイヤーの美しさはきっちり出ている。《キリエ》も輪郭が明瞭に出た印象。《ディエス・イレ》《ドミネ・イエズ》は語尾の切れの良い合唱を筆頭に、きびきびとしたリズム感で旧盤より軽快さや躍動感が増した。やや重厚ながら、《レックス・トレメンデ》の豊かな情感と熱い感興も胸を打つ。《サンクトゥス》冒頭のティンパニのアクセントも、カラヤンらしい演出。

 楽友協会の合唱団は好演しているが、同じウィーン録音でもケルテス盤のオペラ座合唱団とは対照的に、柔らかなタッチ。前述のようにリズム感の良さを感じさせる箇所が多いのは好印象。ベルリン盤でも歌っているトモワ=シントウやブルチュラーゼを起用した重量級の歌唱陣は、個々の声質の癖が立ってしまい、重唱の場面などまとまりが悪いのは残念。特にコールはややフライング気味に入ってきたり、テンポ・キープで前のめりになる個所あり。

“スロー・テンポで大きく構え、旋律と和声を流麗に聴かせるムーティ”

リッカルド・ムーティ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 スウェーデン放送合唱団、ストックホルム室内合唱団

 パトリシア・パーチェ(S)、ヴァルトラウト・マイヤー(Ms)

 フランク・ロパード(T)、ジェイムズ・モリス(Bs)

(録音:1987年  レーベル:EMIクラシックス)

 この顔合わせの録音がぽつぽつ出はじめた頃のディスクで、エリック・エリクソン率いる2団体をコーラスに起用しているのもポイント。オペラ歌手を揃えた独唱陣も豪華。オケの本拠地フィルハーモニーでの収録だが、間接音がたっぷりと取り入れられ、教会録音を想起させる。

 冒頭からスロー・テンポで粘性が強く、格調の高いムードを醸し出す所はいかにもカラヤン・チルドレン。ただ、音色が明るく艶やかな上、曲線が非常にしなやかで、優美な造形性を前面に出しているのはムーティらしい。リズムを強調せず、流麗な横のラインを追ってゆく趣。コーラスとオケ、独唱のバランスには格別な配慮が窺える。《キリエ》も角が立たずソフトなタッチで、動感やメリハリを目立たせない行き方。

 ダ・ポンテ・オペラを颯爽としたテンポで一気に聴かせるムーティにしては、意外な表現。スケールは大きく、宗教曲の色彩は濃厚に出ているが、モーツァルト演奏としては古いスタイルに感じられるかもしれない。もっとも、《ディエス・イレ》や《コンフタティス》、《ドミネ・イエズ》では適度な推進力と力強さを維持し、フットワークにも軽さが感じられてひと安心。オケが優秀で、有機的なアンサンブルや豊麗なソノリティは聴き所。

 《トゥバ・ミルム》や《レックス・トレメンデ》もテンポが遅く、大きな構えで恰幅の良い演奏。輪郭の明快さはムーティの演奏の特徴だが、いつもほどには峻厳なフォルムの形成が聴かれず、旋律線と和声の美しさに重点を置いている。独唱のスタンド・プレイを許さず、マスの響きへ溶け込ませているのもムーティらしい所。合唱は、長い残響に包まれて細部は不明瞭だが、強弱やバランスを含め、繊細かつ雄弁な表現力が圧倒的。《ラクリモサ》はその意味でハイライト。

“重厚なスタイルながら、流麗な美しさを追求。細部には色々と問題も”

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団・合唱団

 リン・ドーソン(S)、ヤルド・ヴァン・ネス(Ms)

 キース・ルイス(T)、サイモン・エステス(Bs)

(録音:1989年  レーベル:ソニー・クラシカル)  

 ジュリーニは78年にもこの曲を録音していて、それも同じオケだった。出来れば変えて欲しかった所。テヌートを多用したソフトな語り口で、長い曲だけに、やや変化に乏しく感じられるかもしれない。第1曲から実に遅いテンポ。凹凸は慣らされ、全てが柔らかなヴェールに包まれる。躍動感を付与する筈の付点リズムの繰り返しも、テヌートによって埋没。ティンパニの打音は粒立ちが良く、明瞭。

 《キリエ》も柔らかなアタックで、ゆったりした足取り。各声部の独立より響きのブレンドが勝る音作りで、対位法の効果も表に出ないが、格調の高い音楽性はある。《ディエス・イレ》も実に遅い。ティンパニや金管のアクセントを必要以上に強調せず、コーラスと弦中心に音楽を構成。《トゥバ・ミルム》は、ルイスとエステスの声に独特の強さと艶あり。ネスも個性が強く、ドーソンが一番自然体で聴きやすい。トロンボーン・ソロには今一つ表現力が欲しく、ピッチの正確さもさらに求めたい。

 《レックス・トレメンデ》は音価が長く、リズムの覇気や決然とした感じはあまり出ない。ただ、重厚タイプの演奏としては流麗で、美しい仕上がり。《レコルダーレ》も当初心配したよりバランスの良い重唱で、指揮者の温和な穏やかさが生きる音楽。やや無骨ながら丹念に造形された《コンフタティス》を経て、ゆっくりしたテンポで慈しみを込めて《ラクリモサ》を歌うが、感傷には浸らない所がいかにもジュリーニ。

 《ドミネ・イエズ》以降は、各パートの細かい動きが埋もれがちで、動感が不足。テンポも遅く、合唱と独唱の強弱の対比も、あまり出ない。一方で《サンクトゥス》は編成の大きさが生きて、スケール感あり。《ベネディクトゥス》は歌い出しのドーソンが安定し、重唱もよくまとまっている。間奏のオケも美しい。《アニュス・デイ》《ルクス・エテルナ》は、量感があって全体で迫る合唱が好みを分つというか、精細なアンサンブル表現を重視する人には物足りないかも。 

“すっきりと端正な響き、正確なリズム。明快な造形の中に、豊かな内容を盛った名演”

コリン・デイヴィス指揮 バイエルン放送交響楽団・合唱団

 アンジェラ・マリア・ブラシ(S)、マリアナ・リポヴシェク(Ct)

 ウヴェ・ハイルマン(T)、ヤンーヘンドリック・ロータリング(Bs)

(録音:1991年  レーベル:RCA)

 当コンビのモーツァルト録音は同レーベルとノヴァリスに、セレナードや協奏曲が数点ありますが、宗教曲はこれが唯一。他に、歌劇《フィガロの結婚》があります。デイヴィスの棒は丁寧なタッチで、デリケート。リズムの正確さが全体を支えます。響きも必要以上に重厚にならず、すっきりとしてクリア。オケと合唱のバランスも良く、スケールを拡大しすぎません。明晰で知的な造形性を確保しつつも、情感豊かで潤いがあって、オケとデイヴィスの良さが出た実に美しい演奏です。

 《レクイエム》は遅めのテンポながら推進力あり。音楽の流れが停滞しません。最初の山場へ持ってゆく呼吸は絶妙。《キリエ》は躍動感があり、造形が明快です。《ディエス・イレ》は弾みのある軽快なリズム処理が見事。きびきびと音楽を運ぶが、角が立ちすぎないのは美点です。独唱陣は端正かつ美しい声質で、素直な歌唱が聴きやすいもの。

 《コンフタティス》は強弱の対比が明瞭で、弱音部の女声コーラスなど、はっとさせられるような美しさ。《ラクリモサ》の、淡々としたテンポの中に、深い味わいを湛えた表現も秀逸です。三拍子のリズム感が明瞭に打ち出されている所はいかにもデイヴィス。《ベネディクティス》は快適な推進力と柔和な表情を両立。丹念なディティールの描写に、真情が込められています。

“バロック・アンサンブルのように軽やかな機動力を達成した、カラヤン追悼演奏会ライヴ”

クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 スウェーデン放送合唱団

 カリタ・マッティラ(S)、サラ・ミンガルド(A)

 ミヒャエル・シャーデ(T)、ブリン・ターフェル(Bs)

(録音:1997年  レーベル:ドイツ・グラモフォン)

 ザルツブルグでのカラヤン没後10周年記念コンサートのライヴ録音で、クリスティーネ・シェーファーをソロに迎えた、ベルリン録音の《エクスクルターテ・ユビラーテ》をカップリング。録音データには「ザルツブルグ」としかありませんが、ジャケット写真を見る限り、教会のような場所で演奏されているようです。非常に長い残響音を伴う録音ですが、直接音を明瞭にキャッチした絶妙なミックスで、すこぶる美しい音響イメージ。

 冒頭から流麗なフレージングの妙とリズムの鋭敏さが際立ち、造形に指揮者の個性を発揮。声楽の扱いもうまく、コーラスの抑揚の付け方やバランスに明確な主張があります。《キリエ》は響きとフットワークが軽く、リズミカルに躍動する表現。編成もコンパクトなようで、合唱とオケの一体感も強く、当コンビがソニーに行った交響曲録音のシリーズとも、スタイルに一貫性があります。《ディエス・イレ》《コンフタティス》も音量を抑え、軽快に仕上げた印象。

 《レックス・トレメンデ》はスタッカートを多用し、バロック・アンサンブルのようにきびきびと軽い弦楽合奏が見事。《ラクリモサ》も速めのテンポで、流れるような優美さが前面を出しています。推進力の強い《ドミネ・イエズ》以降も、強弱の表情が豊かで軽量級の演奏。カラヤンの追悼コンサートですが、カラヤンのスタイルでは演奏せず、そこから出発して独自のコンセプトに行き着いた自身の解釈を徹底している所がアバドらしいです。

 優秀な合唱団を起用していて、コーラスの表現力は圧倒的です。独唱も、スター級のキャスティングですが、豊麗な残響のせいか歌い癖が出過ぎず、重唱もまろやかにまとまっている印象。オケも含め、軽妙で動的なパフォーマンスながら、アタックが優しくて刺々しくならないので、全体に温和で優美な性格に聴こえます。

“シャープなエッジと雄弁な表情を保持しつつ、指揮者の円熟も感じさせるライヴ盤”

ニコラウス・アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

 アルノルト・シェーンベルク合唱団

 クリスティーネ・シェーファー(S)、ベルナルダ・フィンク(A)

 クルト・シュトライト(T)、ジェラルド・フィンリー(Bs)

(録音:2003年  レーベル:ドイツ・ハルモニア・ムンディ)

 ムジークフェライン・ザールにおける、コンツェントゥス・ムジクスの創立50周年記念コンサートのライヴ。81年録音の旧盤は激烈な表現で世界に衝撃を与えましたが、当盤はアーノンクール自身が「これまでの自分の録音の中で、恐らく最高の一つ」と明言するほどの自信作です。

 冒頭は、じれったいほどのスロー・テンポで開始。直後のフォルテでトランペットを鋭く強奏させ、2拍ごとにフレーズを分節しているのが、早くもアーノンクール流。バロック的な合奏の捉え方と、合唱とオケの一体的な機動力は、古楽系団体の特質をストレートに伝えるものです。旧盤で特徴的だと言われている(私は聴いていません)アグレッシヴな刺々しさ、烈しさは、より真摯な語り口に落ち着き、アクティヴな現在を伝える表現として、素直に耳に入ってくる印象。

 《ディエス・イレ》や《レックス・トレメンデ》、《コンフタティス》では鋭利なアクセントが際立っていますが、強い雑音性で耳を刺す感じではありません。むしろ、合奏の軽快さやフットワークの自在さが印象に残ります。さすがは手兵のアンサンブルとコーラスによる演奏だけあり、隅々まで指揮者の解釈を徹底させた、一糸乱れぬパフォーマンスが圧巻。メリハリを強調し、スコアの中にある対比や明暗をあぶりだすアーノンクールの手法は、ここでも絶大な効果を挙げています。

 一方、ルバートを盛り込んで自在な呼吸で歌われる《トゥバ・ミルム》はまるでオペラのようで、音を割って音量を上げてくるトロボーン・ソロも独特。声楽をドラマティックに扱っているので、ソロも各々の個性と表現力を打ち出していて、やはりアリアを聴くような趣があります。《ラクリモサ》の合唱も、フレーズごとに表情が変わるほど雄弁。迫り来るような求心力の強さに、思わず息を呑みます。コーラスもオケも、刺激的なアタックのみならず柔らかい弱音の効果が素晴らしく、それが振幅の大きさに結びついています。

“流麗さと雄渾さ、重さと軽さが同居。時に恣意的なルバートを盛り込むティーレマン”

クリスティアン・ティーレマン指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

 バイエルン放送合唱団

 シビラ・ルーベンス(S)、リオバ・ブラウン(Ms)

 スティーヴ・デイヴィスリム(T)、ゲオルグ・ツェッペンフェルド(Bs)

(録音:2006年  レーベル:ドイツ・グラモフォン)

 ティーレマン初のモーツァルト録音で、ガスタイク・ホールでのライヴ盤。残響をたっぷり収録しながら、直接音が明瞭で、ライヴによる声楽作品収録のハンディをほとんど感じさせない、ウェル・バランスな録音です。

 冒頭から、流れの良さと明確なアクセント、流麗さと雄渾さ、重さと軽さが同居する、不思議な造形。ティンパニを力強く打ち込むのと、テンポに安定感があるために、大きく構えた演奏に聴こえるのですが、旋律線はしなやかで響きも明るく、意外に風通しが良いです。《キリエ》も生き生きと躍動感を表出しますが、編成は縮小しておらず、古典寄りのスタイル。締めくくりの前に大きな間合いを挟むのも、ロマン派的な性格と言えます。

 しかし《ディエス・イレ》は、必要以上にドラマティックに感情移入せず、克明なリズム処理で淡々と処理。《トゥバ・ミルム》のトロンボーンは、スライド操作の際の音程の変化が少し耳に付きます。《レックス・トレメンデ》は遅めのテンポでたっぷりとした歌い口ですが、重々しさよりも、しなやかな粘性が前面に出るのがユニーク。強弱の演出も細やかで、コーラスも含めてよく統率されたパフォーマンスです。バランスも良好ですが、《キリエ》が回帰する最後の箇所は、間やフェルマータをデフォルメして、芝居がかったエンディングにしています。

 極端に速いテンポを採る箇所はありませんが、曲想の対比はきっちり描写されているし、推進力が必要なナンバーでは適度なスピード感もあり。若手、中堅を中心に組んだ独唱のアンサンブルも収まりが良く、各自が癖のない美しい歌唱を展開。重唱もよくまとまっています。ペーター・ダイクストラが指揮する合唱も、雄弁な表現ながらオケとの一体感が見事。強弱のニュアンスが豊かだし、発音や語尾の処理も非常に美しいです。

“明確なアクセントを用い、コンパクトな音像できびきびとまとめた演奏”

マリス・ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

 オランダ放送合唱団

 ゲニア・キューマイヤー(S)、ベルナルダ・フィンク(Ct)

 マーク・パドモア(T)、ジェラルド・フィンリー(Bs)

(録音:2011年  レーベル:RCO LIVE)

 モーツァルトの録音にはあまり積極性がないヤンソンスの、珍しいライヴ盤。ヤンソンスの棒は冒頭から造形と句読点が非常に明瞭で、スケールを拡大せず、小じんまりと音像をまとめている所に、古典的な様式感を反映させています。テンポも流れがよく、リズムもバロック的にきびきびと処理。スタッカートの歯切れが良く、オケの編成も減らしている様子。《キリエ》も各声部の動きが明瞭で、躍動感も十全に表出。軽快でシャープな《ディエス・イレ》への繋がりも自然です。

 合唱もよく統率され、敏感なアクセントや急激な強弱変化が演出されるのは、ヤンソンスらしい所。《トゥバ・ミルム》のトロンボーンは、柔らかな音色で聴き手を魅了します。歌手の声よりもそちらに耳が行ってしまうくらいですが、歌唱陣もクセのない美声で好演。豊麗な残響を伴って、的確な遠近感でマスの響きに配置されています。重唱もバランス良好。

 《レックス・トレメンデ》も音価を短めにとり、リズムの機動性を確保して演奏全体のコンセプトを徹底。拡散よりも凝集を目指すような音作りは、この曲のディスクでは少数派かもしれません。トゥッティの響きのまろやかな美しさは、コンセルトヘボウならでは。《ラクリモサ》も表情こそ雄弁ですが、大袈裟に盛り上げる事がなく、あくまで自然体の表現です。柔らかく消える感じのエンディングは極美。《ドミネ・イエズ》は速めのテンポで疾走感が強く、《ラクリモサ》との対比が明確です。全編に渡ってティンパニの打音が力強く、アクセントが効いているのは当盤の特徴。

“端正な造形できびきびとした指揮ながら、《ラクリモサ》までの抜粋演奏”

ズービン・メータ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団・合唱団 (*抜粋盤)

 モニカ・エルドマン(S)、オッカ・フォン・デア・ダムラウ(Ms)

 ミヒャエル・シャーデ(T)、クリストフ・フィッシャー(Bs)

(録音:2016年  レーベル:ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団アーカイヴ)

 同オケ125周年記念セットに収録のライヴ音源で、グラン・パルティータ、アヴェ・ヴェルム・コルプスとカップリング。《ラクリモサ》までしか演奏しておらず、メータはベートーヴェンに喧嘩を売って、ジュースマイヤーの補筆を完全拒否する意図のようです。同顔合わせの録音は珍しく、他にはハイドンの《天地創造》のライヴ盤があるだけかもしれません。

 この時期くらいから、ほとんど何を振ってもスロー・テンポになってきているメータですが、当盤は意外にも速めのテンポでフォルムを重視。ただしタッチは柔らかく、響きもたっぷりとして豊麗です。《ディエス・イレ》はやや遅めのテンポながら、整然とした弦楽合奏を軸に、あくまでもきびきびと音楽を構築。細部の克明な処理や強弱の明快さも含め、端正な造形を追求していた時期のメータも彷彿させます。

 ソロ歌手たちは聴かせ所がぐっと減って可愛そうですが、柔らかな美声で好演。遠目の距離感で収録されていてソフトに響くコーラスともうまく調和します。重唱のまとまりも良好。合唱はそのためディティールがやや不明瞭ながら、音程の良さやニュアンスの細かさなどクオリティは高い様子です。

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