RCA在学中の61年に制作された、16ミリのモノクロ短篇。数回上映された後、RCAの倉庫に保管されていましたが、イギリス映画協会(BFI)から派遣された講師ピーター・ニューイントンが本作を観て、劣悪だった音響を修正して作品を完成させる事を提案。BFIから資金提供されたスコットは、音響技師とナレーションを調整し、様々な音響効果を追加しました。完成作は65年に上映、フィルムはBFIが所蔵していたため長らく幻の映画でしたが、その後『デュエリスト/決闘者』の特典映像などDVDでも観られるようになりました。 本作は全て大学の2マイル以内で撮影され、主演は弟トニー、母エリザベスも登場し、父のフランシスが浜辺の浮浪者役で出演しています。家族が出演するアマチュアの自主映画みたいなものだし、劇場映画デビューの16年も前に撮られているので、スコット作品として取り上げるかどうか迷いましたが、作品の完成度があまりに高いため、フィルモグラフィーに入れるべきと判断しました。 特徴的なのが、思索的で文学性の高いナレーション。当時ジョイスやヘンリー・ミラーなどの文学にかぶれていたスコットは、「意識の流れを描く」映画にしたかったと回想しています。このナレーションが意外に美しくて画にはまっている上、ヌーヴェルバーグの諸作と同じ時代に、似た手法を使っている点は注目されます。手持ちキャメラを使った即興的な屋外撮影、日常スケッチのような自然主義的スタイルはその典型で、腐敗した犬の死骸も偶然見つけて画面に取り込んだものだといいます。 同時に初期フェリーニ作品や、本作よりもずっと後に撮られるタルコフスキーの諸作品を思わせる雰囲気も画面に漂っているのが凄い所。スコット自身は当時憧れていた黒澤明の影響を認めていて、その意味では、映画言語に共通のものがあるのかもしれません。学生映画とはいえ、画面の構成や編集の繋ぎ方がおそろしく成熟しており、私などは、『デュエリスト/決闘者』や娘と共同監督した短篇『ジョナサン』よりも、本作の方がずっと出来が良く、スコットの個性が出ているように感じます。 例えば冒頭シーン、平原を奥へと伸びる道、手前の柱と遠くの家屋の構図は、名匠のヨーロッパ映画を思わせるクオリティだし、続くクマのぬいぐるみのアップも凄い繋ぎ方。目を覚ましたトニーの一人称でキャメラが動き、鏡に彼の顔が映る所で客観視点に移行する手法も非凡です。自転車で町を走る少年を正面からの移動撮影で捉えたり、浜辺の場面を海の側から撮影したり、高所の俯瞰ショットから少年の横顔、タイヤの接地面の極端なクローズアップへと様々なサイズにショットを切り替えるなど、とにかく映像と編集のセンスが卓抜。 日常の中に美を見出すスコットの性質も全面的に発揮されていて、逆光で撮影された水面に落ちる指の影、パターン模様のような道路の情景、自転車のスポークに反射する太陽光など、自身が美しいと感じたものを画面に取り込んだショットが既に本作から満載。広大な工場の遠景などは、後の『ブラック・レイン』や『テルマ&ルイーズ』に登場するイメージにも繋がります。 お菓子のショー・ウィンドウをのぞく場面は店の中からガラス越しに撮っているし、砂浜にトニーが寝転ぶ遠景は風に揺れる手前の茂み越しに撮影。斬新なアングルを多用する点は、映画青年らしい若さと気負いを感じさせますが、遠近法と構図のセンスは図抜けていて、これは年季の入ったプロの作品にもそう簡単にはみられないほどの映像です。廃墟で見つけた写真から母の面影が連想され、実際の母の映像(後年のリドリーにそっくりです)がカットバックで挿入される辺りも、素人離れした編集センス。 ちなみに、007のテーマで知られるジョン・バリーがテーマ曲にクレジットされているのには、以下の経緯があります。本作が一般公開されると思っていなかったスコットは、挿入曲としてバリーの“Onward Christian Spaceman”を無断使用していました。 彼は公開に当たってバリーに連絡を取り、無料での楽曲使用許可を嘆願しますが、そこで信じられないような返事が返ってきます。ちょうどその曲をロンドン・フィルハーモニックと新録音する予定なので、セッションの後で君のためにもう1回演奏してあげよう、というのです。こうして本作には、売れっ子作曲家が名門オーケストラと演奏した新録音が収録されました。ただ、スコットが凄いのは、このラッキーな出来事に浮かれる事なく、バリーの音楽をごく効果的に、必要な箇所にだけ流している所でしょう。 |