世界的ハイブランドのスキャンダラスな事件を元にした、実話ベースのドラマ。由緒ある家柄の息子が命を狙われる話という事で、『ゲティ家の身代金』と対をなす内容ですが、こちらには凝集された緊張度の高さや恐怖感はなく、各時代を象徴する音楽でリズミカルに繋いだ、華やかなエンタメ作品になっています。 スコット自身も、衣装や美術は自分でなくスタッフの手柄だとする一方、本作でのこだわりは選曲だったと述懐。「製作の早い段階から、この作品にはニードルドロップ(既成曲を映画に使う事)が必要だと感じていた。ドキュメンタリー、あるいはオペラのような作品に仕上げたかったんだ。歌劇《椿姫》の“乾杯の歌”からジョージ・マイケルの“Faith”へと繋ぐとか、ラストのパヴァロッティとトレイシー・チャップマンのデュエット曲とか、曲がシーンを説明する最高の組み合わせを表現した」。 実際に、これが本当にスコット作品かと思うほど、次から次にポップスやオペラが流れる、テンションの高い語り口になっています。舞台は70年代から90年代までのミラノとニューヨーク、ドナ・サマーやユーリズミックス、デヴィッド・ボウイからブロンディまで、さらに映画音楽でも知られるカンツォーネ歌手ピノ・ドナジオのシングル曲から、ヴェルディ、モーツァルト、プッチーニのアリアまで、サウンドトラックは既成曲で埋め尽くされ、劇伴はほとんど流れません。 監督が「作品自体を風刺寄りにした」というだけあり、映像美やサスペンスよりも、デフォルメされた過剰なタッチが勝る印象。その最たるものがジャレッド・レトが特殊メイクをして演じるパオロで、極端なイタリア訛りと甲高い声、漫画チックなオーバー・アクションは、いかにも演技派俳優が技巧に走っている図で違和感があります。その父アルドも、うさん臭いテレビ占い師ピーナも、そして何よりレディー・ガガが演じるパトリツィアも、自然主義とは言いがたい、かなり誇張された表現。 本作は、「実際の状況とは違う」とグッチ一族からクレームが付いているそうですが、冒頭の字幕にある通り、あくまでも実話にインスパイアされた娯楽映画だという事なのです。それを強調するためのデフォルメなのだ、という理屈なのでしょう。見方を変えれば、豪華俳優陣の趣向を凝らした演技合戦を、スコット一流の絢爛たる美術と映像で楽しむ映画と言えるかもしれません。 例えば、レディー・ガガの演技一つとってもどうでしょう。出会いの場面の、70年代のイタリア映画から抜け出してきたような素朴な雰囲気から、どんどん態度が横柄になるマダム期、ストーカー的な狂気を増す感情的な90年代。挙げ句にはやさぐれたジーパン姿で、報酬を釣り上げる殺し屋たちを一蹴し、「失敗したら許さないわよ」と凄んでみせるに至って、最初の田舎っぽい娘と同一人物とはとても思えません。 いわば家族の崩壊の物語ですから、その「滅びの美学」はスコットらしい主題と言えます。注目したいのは、「偉大なリーダーから愚かな後継者への権力移譲」というスコット作品の裏テーマを久々に踏襲しながら、先代(ロドルフォとアルドの兄弟)も問題(時代の変化とのズレ)を抱え、彼らの経営も既に斜陽の萌芽を含んでいる点。さらに、後継者がパオロとマウリツィオの二人で、彼らの間に亀裂がある上、マウリツィオ側もパトリツィアと対立して一枚岩ではないなど、先のテーマとしては複雑に分岐した変化球版となっています。 難を言えば、英語圏以外の物語が多いスコット作品ではいつも思う事ですが、美術や映像に桁外れのリアリティを追求しながら、セリフが英語というのは、日本人である私の目にも摩訶不思議に映ります。作品全体の建て付けも、スコット作品としてはユルい印象。シャープな緊張感に欠けるせいもあるのですが、その分、残酷な暴力描写がないのと、語り口が平易で分かりやすいのは美点と言えます。現実の話はもちろん悲劇ですが、映画としては、「陰」のトーンが多いスコット作品には珍しい、「陽」の性格。 |