番外編も含めて多くの続編が作られた、伝説的SFホラーの1作目。クリーチャーの造形や特殊効果に重きをおいたモンスター・パニック物の一種ですが、このシリーズがユニークなのは、若手監督の青田買い的な側面もある事。ジェームズ・キャメロン、デヴィッド・フィンチャー、ジャン=ピエール・ジュネと個性の異なる才人を排出し、母国に戻って『アメリ』を大ヒットさせたジュネの他、後の3人も今やハリウッドの重鎮です。 ストーリーの構造もB級スプラッターの定石を踏襲していますが、ヒロインを強くて魅力的なキャラクターに設定した事と、SF映画としてのクオリティを追求した事、さらに、緻密を極めたディティールのこだわりと、CM業界で培われた映像美を加えた事で、後世に残る付加価値を持ったアクション・ホラーとなりました。ちなみにノストロモという船名は『デュエリスト/決闘者』の原作者で、スコットが崇拝するジョセフ・コンラッドの小説名から採用しています。 スコット自身も「基本的には出来のいいB級ホラーだ」と言っていますが、準備期間に製作者パウエルから見せられた様々な参考映画の中で、唯一反応したのがトビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』だったそうです。B級ホラーならヒロインが女性なのは定番と思えますが、実は製作陣もスコットもアクション・スリラーの主人公は男性という意識で、実は「女性にしろ」と指示したのは20世紀フォックスの責任者アラン・ラッド・ジュニア。 クリーチャーに弱点がない事も、逃げ場のない閉鎖空間ホラーの強度を上げています。体液が強い酸で宇宙船の壁や床に穴を開けてしまうので、船外に排出するか、自分達が脱出するしか方法がない訳です(イヤな設定を考えつくものですね)。スイスの画家H・R・ギーガーのデザインをそのまま使った、エイリアンやその母船の造形の異様さも圧倒的で、それが本作の特殊性を決定的にしています。 普通、映画に出て来るクリーチャーにはどうしたって想像力の限界が見えるもので、美術や特殊効果のデザイナーが色々な生物を組み合わせたりして、どこか人間っぽい邪悪な目付きで、鋭い牙を剥いて、「どうです、怖いでしょう?」という漫画チックなモンスターになってしまうものです。 ギーガーは芸術家ですから、観客を怖がらせたり驚かせたりする事を目的にする映画畑のアーティストとは、発想が根本的に違います。どこか異世界からやってきたような雰囲気が不安を掻き立てる上、性的なメタファーにも見えるし、機械と生命体の混合のようでもあり、人類から進化したものにも見えるし、悪夢や潜在意識から具現化した幻想にも見える。元になったギーガーの絵では、発掘中の恐竜の化石にも見えます。 とにもかくにも映画的ではなく、異形のものとしか言いようがありません。エイリアンの宇宙船(ではない事が前日譚で判明するのですが)や有名なスペースジョッキー(ミイラ化した異星人が座っている巨大な操縦席)も、近付くだけで何かが起りそうな強い不安感を覚えるのは、ギーガーの異様なデザイン・センスゆえでしょう。当シリーズには、現実世界とギーガーが幻視した異世界の衝突という裏の図式もあるように思いますが、その対立構造に最も意識的なのが本作ではないでしょうか。 新しい価値を生み出すのは大変な事で、本作も脚本の時点ではB級ホラーの変形版だったでしょうから、売れっ子の監督達から軒並み断られたというのも分かる話です。紆余曲折の末、カンヌで賞を取ったスコットに白羽の矢が立ちますが、彼はシナリオを読んで26時間後にすんなり快諾した事で、逆に驚かれたといいます。しかし彼には明確なヴィジョンがありました。夢中でストーリーボードを書いてスタジオに提示した所、なんと当初の2倍の予算が付きます。具体的なヴィジョンがいかに力を持つかという、お手本のようなエピソードですね。 スコットは原案を書いたオバノンに会った際、ギーガーの画集『ネクロノミコン』を渡されますが、それを見て一点の絵に惹き付けられます。『ネクロノモス4』というその絵を指差すと、オバノンは「やっぱりね」と納得。スコットはもうそれ以外の造形など考えられず、製作陣に「いくら難しくても権利を取ってくれ」と主張し続けます。ギーガー自身からも「映画用に新しいデザインを」と提案されましたが、それすらも却下。この頑固さはとても新人監督の態度とは思えませんが、それでこそこういうモニュメンタルな映画が誕生する訳です。 スモークや逆光を多用し、光と闇、水、蒸気、炎を駆使して、限られた空間を多彩に見せる映像センスは独特ですが、ブレットと猫の場面で水滴が降っているのは不思議だし、精密機器だらけの船内に猫がいるのも不自然。これは大惨事を招きかねないし、貴重な食料や水をペットの飼育に使うのは、科学的にも企業の論理としても非現実的。そもそも長期睡眠装置にネコが一緒に入って大丈夫なんでしょうか。『プロメテウス』『エイリアン:コヴェナント』にも顕著なそういうツッコミ所は結構あり、『ブレードランナー』の美術監督に言ったという「合理的に考えるな」というスコットの言葉も思い出されます。 前半40分がスロー・ペースで退屈と言われる本作ですが、どう見ても必要なシーンばかりで、私が編集者ならどこも切れません。むしろ、後半がアクション中心になってゆく事を考えると、SF映画としての魅力や監督の個性は前半の方によく出ています。緊迫感も維持されているし、惑星の場面も全て前半。全体を大きく掴んでみると、セリフを排除した映像コラージュで開始し、緻密な会話劇からショッキングなホラーへ移行、整然と秩序立った世界にエントロピーが増大し、再びセリフが消失するクライマックスにおいて雑音の嵐が勝利するという、一点非の打ち所のない構成です。 ヴィジュアルが鮮烈なために視点が逸らされがちですが、素晴らしいのが役者のアンサンブル。改めて観ると、脚本も乗組員一人一人に個性とドラマの重みを付与しています。最初からすこぶる自然に見える演技は見事という他ありませんが、それは俳優に5割、6割くらいの抑えた声量で喋らせ、声を荒げた時との落差を強調する演出にもよっています。抑揚のない喋り方をさせる事でリアリティを獲得し、表情や身体の動きに表現のウェイトを分散させる効果もあり、これらは本作に限らず、スコット作品に共通する演出法でもあります。 演技派を集めているのも勝因の一つで、セリフは多くないにも関わらずキャラクターに奥行きを感じさせるのは、戦略的な演出と俳優陣の実力ゆえでしょう。アドリブの演技も、既に本作から取り入れています。クルーの間の微妙な対立感情や立場の相違も微細に表現されていて、その点もB級スプラッターとは一線を画す所。ただ、当時のスコットはまだ俳優とのディスカッションに苦手意識もあり、本人も「200本のCMを撮って映像の繋ぎ方は熟知していたが、俳優の扱い方は本作の頃に学んだ」と語っています。 ご多分に漏れず「人物の描写が浅い」と紋切型の批判もされやすい作品ですが、スコット曰く「人物の描写はあまりないが、それは良い脚本の条件だ。話にも役にも無駄な部分が全然ない。役者も凝縮した演技が課題になる。ただ、評論家に役の描写が乏しいと言われるのは腹が立つ。ご冗談を、ってね」。出演者のハリー・ディーン・スタントンも回想します。「こんな監督は初めてだった。役柄ごとにノートを作っていて、経歴や家族についてまで細かく設定してある。普通は役者がやる事だよ」 |