公開当初はヒットしなかったものの、映像ソフト発売以降に伝説的な名作となったSF映画。絢爛たる映像美は多くの模倣と後続作品を生みましたが、そのメガトン級の影響力だけでなく、ディレクターズ・カットの風習を映画界に定着させた映画としても記念碑的な作品です。謎めいたシンボリズム故、様々な解釈が映画ファンの間で取り沙汰されているのも、『エイリアン』シリーズ同様に本作のユニークな点。アンドロイドの叛乱というテーマにおいては、この2作は姉妹篇と言えるかもしれません。 本作で示されたのは、無機的な未来のイメージとは真逆の、酸性雨が振り、雑然として薄汚れた未来のヴィジョンでした。スコットは日本や上海の活気溢れる下町の雑踏を参考にし、そこに、巨大スクリーンを載せた飛行船や、高層ビルが乱立する様を対比させています。じめじめとして散らかった街角の情景と、未来都市そのもののビルの屋内。そんな光景をバックに描かれるのは、刑事デッカードとアンドロイド(本作ではレプリカントという造語で代用)の追跡劇です。 それだけなら、殺伐としたハード・アクションで終ってしまいそうですが、本作を特別にしているのは詩情の豊かさ。名撮影監督ジョーダン・クローネンウェスが作り出した陰影の芸術は素晴らしく、ピアノの前で髪をかき上げるショーン・ヤングの横顔は当時、「映画における美の極致」と賞賛されました。或いは、写真を口にくわえて上半身裸で作業に臨むハリソン・フォードの姿や、白い鳩を手にポーズを取るルトガー・ハウアーの美しさといったらどうでしょう。こういう映像が、ヴァンゲリスによるサックスのメロディに乗せて紡がれてゆきます。 ハウアー演じるパティの最後の行動は、原作とは違うテーマと方向性を示すもので賛否もありますが、情感の面からも私は好きです。ハウアー自身の即興を取り入れたダイアローグと、鳩を使った象徴的な表現が素晴らしい。「思い出もやがて消える。時がくれば、雨の中の涙のように」というセリフは詩的で美しいですが、ハウアー自身は「脚本家ピープルズが書いたイメージもとても好きだ。無視されているのはよくない」と謙虚に語っています(「タンホイザー・ゲートの近くに輝くCビーム、オリオン座の近くで燃える攻撃用宇宙船」のくだり)。 暴力描写が苛烈なのはスコット作品らしく、ヴァージョンによって残酷度は異なりますが、極めてショッキングで硬質なタッチを感じさせる点は変わりません。又、当初は車輛のデザイナーとして雇われ、創造性を買われてヴィジュアル・フューチャリストの肩書きを得たシド・ミードによる未来イメージも、男の子チックメカマニアやSFファンを喜ばせました。高解像度の写真を拡大して解析する場面もあり、このようなガジェットはその後のデジタル化社会を予見してもいます。 多くのヴァージョンが存在するので、いちいちどこが違うのか検証する気も失せてしまいますが、劇場公開版とディレクターズ・カットの大きな違いは、全編に流れるデッカードのヴォイス・オーバー(ナレーション)の有無、デッカードとレイチェルが山道を逃避行するラストシーンの有無、ユニコーン(一角獣)の白昼夢シーンの有無、この三点に尽きます。どれも映画全体の印象を変えてしまうほどの違いですが、私はやはり映画は監督のものだと思っていますので、ファイナル・カット版を尊重したいです。 欧米の人には、特にハードボイルド調の語りが古臭く聞こえるそうですが、実はギレルモ・デル・トロ監督など映画人やファンの間でも、あのナレーションは捨て難いという人が多くいたりします。ただ、人物の行動をそのままなぞって説明する所が画面の力を阻害していて、ナレーション抜きだとフォードの演技も生き生きとして見えると、もっぱらの評判です。 スコット自身はヴォイス・オーバーの挿入に当初から積極的で、初期の脚本にも存在しています。ディレクターズ・カット版で真っ先に削除したのは、これが脚本家と一緒に作り上げたものではなく、試写会の失敗を受けてスタジオが勝手に付けたものだったからでした。なんとワーナーは、ディーリーとスコットがロンドンで編集している間に、ナレーション収録を内密に強行したのです。ハリソン・フォードによれば、ひたすらタイプを打つ無愛想な男だけがいて、「やはりこの男がナレーション作家だった。彼は経緯を何も知らないようだった」と述懐しています。 ハッピーエンディングについてもスコットは一応承諾し、自ら編集に組み込んでいます。スコットは贔屓にしていたスタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』のオープニングを思い出し、「彼ならきっと、優秀なスタッフと操縦士を雇って大量の素材を撮っている筈だ」と考えました。製作のパウエルがかつて『2001年宇宙の旅』に関わっていたので、そのつてでキューブリックに連絡を取ると、本当に未使用テイクがたくさん残っていて、『エイリアン』が好きでスコットを高く買っていた彼から、快く協力を取り付けました。 よく言及される「デッカードはレプリカントなのか?」という疑問に関しては、スコット自身も製作中から曖昧な態度を取り続け、スタッフ達も「真相は分からない」とコメントしています。少なくともハリソン・フォードはこの解釈を嫌い、真っ向から否定。監督の方は、デッカードの目が赤く光る場面を入れた上、一角獣の場面を入れないならディレクターズ・カットとして認めないと強硬に言い張るなど、デッカードがレプリカントにも見えるよう、明らかに誘導しているように見えます。 恐らくは、『エイリアン』シリーズを鑑みても、スコットは敢えて潜在的なミスリードを志向していて、どうも答えを出さずに謎めいた表現を提示し、疑問を残したままにするのが好きなようです。きっと、キューブリック作品への憧れも影響しているのでしょう。後にスコットは、「自分の中では、デッカードは完全にレプリカントだ。ただ映画の中でそれを断定したくない」と発言しています。 撮影現場は、スコット自身が過去最悪の経験と語るほどに険悪なもので、その後のキャリアに大きな影を落とすほどスコットを自信喪失させました。まず撮影3日目にスコットと撮影監督が、レイチェルの感情反応テストの場面で照明が暗すぎる(事実、真っ暗だったそうです)と喧嘩になり、後日の撮り直しで何とか決着。しかしスコットがキャメラを自分で操作しようとしたために、撮影クルーと対立します。 フォードとヤングの人間関係にも亀裂が生まれ、フォードは「俳優の演技よりセットにばかり時間と手間を掛けている」と監督を非難。本作は組合の関係で現地アメリカのスタッフしか使えず、彼らの多くはスコットの目指す物を理解できませんでした。製作のディーリーによると、「みな低賃金で一生懸命、迅速に働いていたが、リドリーはそれを評価せず、対立が起きた」 この件では、後のインタビューにおいて監督、プロデューサー、フォードの見解が概ね一致しています。スコットがアメリカ式の撮影スタイルを理解していなかった事、当時はコミュニケーションの得意な人間ではなかった事、スタッフがスコットのやり方や過去の実績を知らず、疑念に駆られて逐一つまらない質問を浴びせた事、それゆえスコットが短気に怒鳴り散らすようになった事を、本人も含めて認めています。後のスコットがリラックスして撮影を楽しみ、現場に良い影響を与える監督になったのは、こういう経験が契機だったのでしょう。 ディーリー曰く、「ハリソンは人気俳優だった。俳優達に馴染んでいない監督と仕事をするのは初めてだった。リドリーは後にずっと積極的な性格になったが、この頃は人々と感情を交える事を望まなかった。ハリソンは指示を望んでいたのに、彼が目にしたリドリーは、全てが自分の責任におい支障なく行くよう気を配っている姿だったんだ」。実際、他の俳優が誰も監督への不満を口にしていない点をみると、これはフォードの性質と、仕事の取組み方の問題とも言えそうです。 スポンサーやスタジオはスコットを必死で急かしましたが、彼は最後まで一歩も譲歩せず、自分の思うように作品を完成させました。スコット曰く、「2500本のCMを撮ったからこそ、部屋の配置を3秒で決められる。話し合いは嫌いだ。監督はスタッフの相談役じゃない。自分の考えを現場に伝えるのが仕事だ。監督という言葉は、指図するという意味だ。予算を無視した訳でも無駄遣いした訳でもない。予算の事を考えるのは苦手なだけで、早めに忠告してくれれば、約束した事は守る主義だ」 |