ブレードランナー

Blade Runner

1982年、アメリカ オリジナル劇場版 (117分)

           インターナショナル劇場版/完全版 (114分)

1992年、ディレクターズ・カット/最終版 (117分)

2007年、ファイナル・カット (117分)

 監督:リドリー・スコット

 製作総指揮:ブライアン・ケリー、ハンプトン・ファンチャー

 製作:マイケル・ディーリー

 共同製作:アイヴァー・パウエル

 脚本:ハンプトン・ファンチャー、デヴィッド・ピープルズ

 (原作:フィリップ・K・ディック)

 撮影監督:ジョーダン・クローネンウェス

 プロダクション・デザイナー:ローレンス・G・ポール

 衣装デザイナー:チャールズ・ノード、マイケル・カプラン

 編集:テリー・ローリングス

 音楽:ヴァンゲリス

 追加撮影:スティーヴン・ポスター、ブライアン・トゥファーノ

 セット・デザイナー:トム・ダッフィールド

 セット・デコレイター:リンダ・デシーナ

 特殊撮影効果監修:ダグラス・トランブル

 ヴィジュアル・フューチャリスト:シド・ミード

 出演:ハリソン・フォード  ショーン・ヤング

    ルトガー・ハウアー  ダリル・ハンナ

    ブライオン・ジェームズ  ジョアンナ・キャシディ

    エドワード・ジェームズ・オルモス  ジョー・ターケル

    M・エメット・ウォルシュ  ウィリアム・サンダーソン

* ストーリー

 植民惑星から4体の人造人間=レプリカントが脱走した。彼らの捕獲を依頼された“ブレードランナー”デッカードは、地球に潜入したレプリカントたちを追うが…。

* コメント

 公開当初はヒットしなかったものの、映像ソフト発売以降に伝説的な名作となったSF映画。絢爛たる映像美は多くの模倣と後続作品を生みましたが、そのメガトン級の影響力だけでなく、ディレクターズ・カットの風習を映画界に定着させた映画としても記念碑的な作品です。謎めいたシンボリズム故、様々な解釈が映画ファンの間で取り沙汰されているのも、『エイリアン』シリーズ同様に本作のユニークな点。アンドロイドの叛乱というテーマにおいては、この2作は姉妹篇と言えるかもしれません。

 本作で示されたのは、無機的な未来のイメージとは真逆の、酸性雨が振り、雑然として薄汚れた未来のヴィジョンでした。スコットは日本や上海の活気溢れる下町の雑踏を参考にし、そこに、巨大スクリーンを載せた飛行船や、高層ビルが乱立する様を対比させています。じめじめとして散らかった街角の情景と、未来都市そのもののビルの屋内。そんな光景をバックに描かれるのは、刑事デッカードとアンドロイド(本作ではレプリカントという造語で代用)の追跡劇です。

 それだけなら、殺伐としたハード・アクションで終ってしまいそうですが、本作を特別にしているのは詩情の豊かさ。名撮影監督ジョーダン・クローネンウェスが作り出した陰影の芸術は素晴らしく、ピアノの前で髪をかき上げるショーン・ヤングの横顔は当時、「映画における美の極致」と賞賛されました。或いは、写真を口にくわえて上半身裸で作業に臨むハリソン・フォードの姿や、白い鳩を手にポーズを取るルトガー・ハウアーの美しさといったらどうでしょう。こういう映像が、ヴァンゲリスによるサックスのメロディに乗せて紡がれてゆきます。

 ハウアー演じるパティの最後の行動は、原作とは違うテーマと方向性を示すもので賛否もありますが、情感の面からも私は好きです。ハウアー自身の即興を取り入れたダイアローグと、鳩を使った象徴的な表現が素晴らしい。「思い出もやがて消える。時がくれば、雨の中の涙のように」というセリフは詩的で美しいですが、ハウアー自身は「脚本家ピープルズが書いたイメージもとても好きだ。無視されているのはよくない」と謙虚に語っています(「タンホイザー・ゲートの近くに輝くCビーム、オリオン座の近くで燃える攻撃用宇宙船」のくだり)。

 暴力描写が苛烈なのはスコット作品らしく、ヴァージョンによって残酷度は異なりますが、極めてショッキングで硬質なタッチを感じさせる点は変わりません。又、当初は車輛のデザイナーとして雇われ、創造性を買われてヴィジュアル・フューチャリストの肩書きを得たシド・ミードによる未来イメージも、男の子チックメカマニアやSFファンを喜ばせました。高解像度の写真を拡大して解析する場面もあり、このようなガジェットはその後のデジタル化社会を予見してもいます。

 多くのヴァージョンが存在するので、いちいちどこが違うのか検証する気も失せてしまいますが、劇場公開版とディレクターズ・カットの大きな違いは、全編に流れるデッカードのヴォイス・オーバー(ナレーション)の有無、デッカードとレイチェルが山道を逃避行するラストシーンの有無、ユニコーン(一角獣)の白昼夢シーンの有無、この三点に尽きます。どれも映画全体の印象を変えてしまうほどの違いですが、私はやはり映画は監督のものだと思っていますので、ファイナル・カット版を尊重したいです。

 欧米の人には、特にハードボイルド調の語りが古臭く聞こえるそうですが、実はギレルモ・デル・トロ監督など映画人やファンの間でも、あのナレーションは捨て難いという人が多くいたりします。ただ、人物の行動をそのままなぞって説明する所が画面の力を阻害していて、ナレーション抜きだとフォードの演技も生き生きとして見えると、もっぱらの評判です。

 スコット自身はヴォイス・オーバーの挿入に当初から積極的で、初期の脚本にも存在しています。ディレクターズ・カット版で真っ先に削除したのは、これが脚本家と一緒に作り上げたものではなく、試写会の失敗を受けてスタジオが勝手に付けたものだったからでした。なんとワーナーは、ディーリーとスコットがロンドンで編集している間に、ナレーション収録を内密に強行したのです。ハリソン・フォードによれば、ひたすらタイプを打つ無愛想な男だけがいて、「やはりこの男がナレーション作家だった。彼は経緯を何も知らないようだった」と述懐しています。

 ハッピーエンディングについてもスコットは一応承諾し、自ら編集に組み込んでいます。スコットは贔屓にしていたスタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』のオープニングを思い出し、「彼ならきっと、優秀なスタッフと操縦士を雇って大量の素材を撮っている筈だ」と考えました。製作のパウエルがかつて『2001年宇宙の旅』に関わっていたので、そのつてでキューブリックに連絡を取ると、本当に未使用テイクがたくさん残っていて、『エイリアン』が好きでスコットを高く買っていた彼から、快く協力を取り付けました。

 よく言及される「デッカードはレプリカントなのか?」という疑問に関しては、スコット自身も製作中から曖昧な態度を取り続け、スタッフ達も「真相は分からない」とコメントしています。少なくともハリソン・フォードはこの解釈を嫌い、真っ向から否定。監督の方は、デッカードの目が赤く光る場面を入れた上、一角獣の場面を入れないならディレクターズ・カットとして認めないと強硬に言い張るなど、デッカードがレプリカントにも見えるよう、明らかに誘導しているように見えます。

 恐らくは、『エイリアン』シリーズを鑑みても、スコットは敢えて潜在的なミスリードを志向していて、どうも答えを出さずに謎めいた表現を提示し、疑問を残したままにするのが好きなようです。きっと、キューブリック作品への憧れも影響しているのでしょう。後にスコットは、「自分の中では、デッカードは完全にレプリカントだ。ただ映画の中でそれを断定したくない」と発言しています。

 撮影現場は、スコット自身が過去最悪の経験と語るほどに険悪なもので、その後のキャリアに大きな影を落とすほどスコットを自信喪失させました。まず撮影3日目にスコットと撮影監督が、レイチェルの感情反応テストの場面で照明が暗すぎる(事実、真っ暗だったそうです)と喧嘩になり、後日の撮り直しで何とか決着。しかしスコットがキャメラを自分で操作しようとしたために、撮影クルーと対立します。

 フォードとヤングの人間関係にも亀裂が生まれ、フォードは「俳優の演技よりセットにばかり時間と手間を掛けている」と監督を非難。本作は組合の関係で現地アメリカのスタッフしか使えず、彼らの多くはスコットの目指す物を理解できませんでした。製作のディーリーによると、「みな低賃金で一生懸命、迅速に働いていたが、リドリーはそれを評価せず、対立が起きた」

 この件では、後のインタビューにおいて監督、プロデューサー、フォードの見解が概ね一致しています。スコットがアメリカ式の撮影スタイルを理解していなかった事、当時はコミュニケーションの得意な人間ではなかった事、スタッフがスコットのやり方や過去の実績を知らず、疑念に駆られて逐一つまらない質問を浴びせた事、それゆえスコットが短気に怒鳴り散らすようになった事を、本人も含めて認めています。後のスコットがリラックスして撮影を楽しみ、現場に良い影響を与える監督になったのは、こういう経験が契機だったのでしょう。

 ディーリー曰く、「ハリソンは人気俳優だった。俳優達に馴染んでいない監督と仕事をするのは初めてだった。リドリーは後にずっと積極的な性格になったが、この頃は人々と感情を交える事を望まなかった。ハリソンは指示を望んでいたのに、彼が目にしたリドリーは、全てが自分の責任におい支障なく行くよう気を配っている姿だったんだ」。実際、他の俳優が誰も監督への不満を口にしていない点をみると、これはフォードの性質と、仕事の取組み方の問題とも言えそうです。

 スポンサーやスタジオはスコットを必死で急かしましたが、彼は最後まで一歩も譲歩せず、自分の思うように作品を完成させました。スコット曰く、「2500本のCMを撮ったからこそ、部屋の配置を3秒で決められる。話し合いは嫌いだ。監督はスタッフの相談役じゃない。自分の考えを現場に伝えるのが仕事だ。監督という言葉は、指図するという意味だ。予算を無視した訳でも無駄遣いした訳でもない。予算の事を考えるのは苦手なだけで、早めに忠告してくれれば、約束した事は守る主義だ」

 各ヴァージョンについて

 本作には、公開時にアメリカ国内版とインターナショナル版の2種類があっただけでなく、偶然発見された試写会用のワークプリントも公開されたため、当初から混乱はありました。画質や編集が粗く、その場しのぎの仮音楽も付いたままのワークプリントが「ディレクターズ・カット」として上映されている事を懸念したスコットは、公開10周年に自身で監修したディレクターズ・カットを製作。しかしこの時は、スコットがこだわった一角獣のシーンのオリジナル・ネガが見つからず、ボツにしたフィルムで補完して完成したため、前後の場面と画質も一致していませんでした。

 さらに公開25周年には、追加撮影とセリフの補正で物語上の矛盾を解決し、デジタル補正で画質を向上させたファイナル・カットが公開されます。この時、当時のスタッフ、キャストに取材した『デンジャラス・デイズ』という長編ドキュメンタリーも製作されました。各ヴァージョンの違いはあまりに細かく、ここで全てを比較する事はできません。ポール・M・サモン著の『メイキング・オブ・ブレードランナー』に細かい比較もありますが、最新のファイナル・カット版までフォローするには、後から出版された改訂追加版の本を入手する必要があります。

 大きな違いは下記の通りで、公開時にはアメリカ版とインターナショナル版で暴力描写に差があり、ディレクターズ・カットでアメリカ版に合わせて緩和した表現を、ファイナル・カットで再びインターナショナル版同様に戻している点は注目されます。この辺り、頭の回転が速く、次々にアイデアが浮かぶというスコットの、常に変転してゆく試行錯誤の跡が見られて興味深い所。一方ナレーションとハッピー・エンディングの削除、一角獣の場面の追加に関しては、終始態度が一貫しています。

 『ワークプリント』(1982年) デンバーとダラスでマーケティング試写会に掛けられたプリント

・ロイの死の場面以外にナレーションはなく、ラストはエレベーターの扉が閉まる所で終る。

・部分的にヴァンゲリスの音楽が使われず、ジェリー・ゴールドスミスの既存曲で代用されている。

・タイトル・ロゴの後、架空の辞書を引用したレプリカントの説明が映る。

・このヴァージョンのみ、冒頭のLA俯瞰ショットの後に挿入される瞳のアップ映像がない。

・ゾーラの潜伏先の店で、ホッケー・マスクの女性2人が踊っている。

・デッカードが注文した料理が、グロテスクな魚の丼だと分かる。

 『オリジナル劇場版』(1982年) アメリカで最初に上映されたヴァージョン

・試写会での評判が悪かったワークプリントに、デッカードのナレーションとハッピー・エンディングを追加。

 『インターナショナル劇場版/完全版』(1982年) 日本、ヨーロッパで公開されたヴァージョン

・ナレーション、ハッピー・エンディングはオリジナル劇場版と同じ。

・タイレルの両目にロイの指が食い込む映像、ブリスとデッカードの格闘場面にデッカードの鼻が引っ張られる場面を追加、ブリスへのとどめの銃撃が2発に、ロイが手に釘を刺す場面が長くなっている。

 『ディレクターズ・カット/最終版』(1992年)

・ナレーションとハッピー・エンディングを削除。

・新たにデジタル・リミックスしたサウンドトラックを制作。

・インターナショナル版に見られた過剰な暴力描写を削除。

・デッカードがピアノの前で一角獣の白昼夢を見る、12秒間のショットを追加。

 『ファイナル・カット』(2007年)

・音声トラックがマルチ・トラックでリミックスされ、音質、画質が著しく改善。

・デッカードの上司が言う「(レプリカントが)1匹死んだ」というセリフの矛盾を、「2匹」に修正。

・ワークプリントのみに存在した、デッカードが調査を行うシーンの幾つかを追加(ホッケー・マスクの女性ダンサーの場面も含む)。

・人工ヘビのディーラーと話すデッカードの口元を、セリフに合わせて修正(ハリソンの息子ベンジャミン・フォードの協力で撮り直し、口元のみ合成)。

・男性スタントマンだとはっきり分かる映像だった、ゾーラがガラスに突っ込む場面を、ジョアンナ・キャシディ本人の顔で再撮影し、合成で差し替え。なんと彼女は衣装の透明なレインコートをまだ所有しており、撮影に持ってきてスタッフを感激させた。体型も当時と変わっていなかったという。

・オリジナル・ネガから発見された一角獣のショットをさらに追加。一角獣の映像は2箇所になり、ディレクターズ・カットで復活させたショットは2回目に使用されたが、双方の画質に差があるため不一致を調整。

・ディレクターズ・カットで削除した暴力描写を復活。

・鳩が飛び立つ場面で、前後の繋がりが合っていなかった青空を、煙突がそびえ立ち、酸性雨が降りしきる雨空にCG修正。

* スタッフ

 製作は『ディア・ハンター』『コンボイ』のマイケル・ディーリー、スコット組のアイヴァー・パウエル、かつてTVドラマ『わんぱくフリッパー』の主人公を演じたブライアン・ケリー、初稿のライターで元MGM専属俳優、TVタレントのハンプトン・ファンチャーが担当。ファンチャーは執筆中にスコットと意見がこじれ、後に『許されざる者』『12モンキーズ』を担当するデヴィッド・ピープルズがリライトに雇われますが、『エイリアン』のダン・オバノンと同様、ファンチャーも「めちゃくちゃにされた」とあちこちで文句をぶちまけています。

 原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の著者フィリップ・K・ディックは、自分が企画に関わっていない事と、ファンチャーの脚本のひどさについて当初メディアに怒りを表明していましたが、ピープルズのリライトを読んだ途端に打って変わって絶賛。当のピープルズは謙虚そのもので、「自分の手柄ではない。リドリーのヴィジョンとアイデアに従って書き直していっただけ」と繰り返しています。

 ディックは後にスコットと会見し、見解の相違を認めつつも和やかに剣を収めますが、映画の公開を子供のように楽しみにしながら、完成版を観る事なく病気で急死。実に残念な事ですが、原作者が映画化に納得するケースも少ないもので、公開版を観たディックはどう感じただろうと想像すると、逆に観なくて良かったのかもしれないと思ったりします。

 アメリカのユニオンでは監督がキャメラの操作をする事が禁じられていますが、スコットはいつも通りに自らキャメラを回し、撮影監督のジョーダン・クローネンウェス及び彼のクルーと対立。スコットも、「次第に態度を軟化させたとはいえ、最初はジョーダンのスタッフとアメリカ撮影者組合がこちらを邪魔者扱いし、実に厳しい態度をとった」と回想しています。クローネンウェスは長年パーキンソン病を患っていた事もあり、助手をしていた息子のジェフによると、「父は病気のため、リドリーと一緒に歩き回れずイライラしていた」といいます。

 しかし本作の映像美は今や伝説。ヴィジュアルにおいては、スコット作品随一と言えるでしょう。クローネンウェスは業界でも名高い名手で、スコットが長い間説得してやっと参加してもらったアーティストでした。デヴィッド・フィンチャー監督も彼のファンで、デビュー作『エイリアン3』の撮影を当初彼に依頼しましたが、この時も病状が持たず、すぐに途中降板してしまいました。追加撮影には、後に『誰かに見られてる』を担当するスティーヴン・ポスターと、『トレインスポッティング』『普通じゃない』などダニー・ボイル作品の撮影を務めるブライアン・トゥファーノがクレジットされています。

 プロダクション・デザイナーは、後に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も手掛けるローレンス・G・ポール。セットの装飾は、後にティム・バートン作品の美術を手がけるトム・ダッフィールドや、スピルバーグ関連作に関わるリンダ・デシーナ。衣装デザインは後のスコット作品でも組んでいるチャールズ・ノードとマイケル・カプラン。しかし、実質的な創造性は細部に至るまでスコットが発揮したとの事。ディーリーによれば、「美術部門は立場が弱いどころじゃない。進行も含めて全てリドリーが主導権を握り、チェックする。彼はデザイン畑出身だし、どうしたいかが常に明確だ。彼自身が最高の美術監督でもあるのさ」。

 ヴィジュアル・フューチャリストとクレジットされているシド・ミードは工業デザイナーで、当初は車輛のデザインのために採用されましたが、スケッチ画に書き込まれた背景にスコットが着目し、急遽セットのデザインや背景まで手掛ける事になりました。『エイリアン』もそうでしたが、「とにかく次々にアイデアを出す。論理は後付けだ」と語るスコットには、論理より美的感覚を重視する面もあります。建築科出身の美術監督デヴィッド・スナイダーが、「ブラッドベリ・ビルの廊下を歩いていて、突然柱が現れるのはおかしい」と指摘すると、スコットは「合理的に考えるな」と返したそうです。

 本作ではセットやミニチュアの他、デッカードの自宅外観にフランク・ロイド・ライト設計のエニス・ブラウン邸、セバスチャンの住居にロスのダウンタウンにあるブラッドベリ・ビルと、実際の建物も使用。後者についてはファンチャーが危惧し、「あなたは英国からはるばるやってきてあそこが良いと思っているが、映画やテレビで余りにも使われすぎている。アメリカ人は見慣れているんだ」と断固反対しましたが、スコットは「自分なら大丈夫だ」と一蹴。ファンチャー曰く、「なんて傲慢な奴だと思ったが、完成した映画を観てびっくりしたよ。リドリーの言った通りだ、こんなブラッドベリ・ビルは誰も見た事がないってね」

 音楽のヴァンゲリスはギリシャのミュージシャンで、シンセサイザーを駆使した独自のスタイルで一躍有名になりました。スコット曰く、「彼は熱狂的な映画ファンで、作品を細かく鑑賞する。俳優の瞬きのタイミングまで覚えているんだ。録音中も監督の方を見ながら演奏する姿に、進化した音楽の姿を見ているようで、彼の芸術性を学んだ瞬間だった」

 当初発売されたサントラは、ニュー・アメリカン・オーケストラなる団体によるカバー演奏で、内容もたったの33分でした。トム・スコットによるサックス・ソロだけが取り柄の当盤はファンをがっかりさせましたが、その中の“Memories of green”は『誰かに見られてる』に使用されています。全58分の正規盤サントラは94年に発売。ヴァンゲリスのコメントでは、「今やっとこれらの録音を発表できる訳だが、当時それができなかっただけに喜びもひとしおである」とするにとどめ、その理由は明かされませんでした。 

* キャスト

 主演のハリソン・フォードは現場で不満げな態度を示し、「君は極端すぎる、何をやっているのか分からない」と監督に食ってかかる場面もあったそうですが、公開後も本作についてのコメントは一貫して否定的でした。しかし後年には「この作品とは和解したんだ」と態度を軟化。『デンジャラス・デイズ』にも出演し、「確かに緊迫したムードはあったが、大作には付き物だ」と語っています。ナレーション収録の経緯についても詳しく回想し、「リドリー抜きで作業が行われた事は残念だった」と表明。

 フォードは又、演じられる役がなかったために辞退したものの、スコットから『マッチスティック・メン』への出演依頼を受けていた事も明かしています。彼はハン・ソロ、インディ・ジョーンズなど過去に演じたキャラクターに再び取組んでいて、35年ぶりにスコットが製作した続編『ブレードランナー2049』にも、デッカード役で出演しました。書籍『メイキング・オブ・ブレードランナー』のインタビューにも、ものすごく知的と言われる彼の人柄とプロ意識が非常に良く出ています(俳優というより作家が話しているみたい)。

 レイチェルを演じたショーン・ヤングは本作で知名度を上げ、その後も『砂の惑星』『追いつめられて』『ウォール街』などに出演。しかし怪我で『バットマン』を降板した辺りから奇行が目立ち、ジェームズ・ウッズにストーカー行為で訴えられ、『ディック・トレイシー』を1週間でクビになり、キャット・ウーマンのコスプレでティム・バートンに出演交渉したりと、ゴシップが続きました。

 本作ではハリソン・フォードとの不和が伝えられましたが、相性が良くなかった事はお互い認めながらも、『デンジャラス・デイズ』で彼女は、「ハリソンは私が泣いていると側にいてくれて、おどけて笑わせてくれた。彼は照明や演技の専門家で、私は多くを学んだわ。よくからかわれたけど、ミスをちゃんと指摘してくれた」と回想。暴力的なラブ・シーンは色々な憶測を呼びましたが、フォードはあくまでもプロの俳優で、シーンのアイデアは監督のものだったとスタッフ達も語っています。

 ロイを演じたルトガー・ハウアーは、オランダ時代のポール・ヴァーホーヴェン作品に数作出ていた人。強面ながら美しい風貌と体躯、アーティスティックで演劇的なキャラクター造形は、本作のハイライトとも言えます。彼が「子供のような面やセクシーさ、詩やジョークを言う所などを入れたい」と言うと、監督は「全部入れてくれ。色々なシーンで出せるように考えてみる」と返したそうです。

 「人生が駄目になるほど疲れたが、本当に特別な体験だった」と語るハウアー、本作には前述の最後のセリフのみならず、彼のアイデアがたくさん取り入れられています。スコットは当初、終盤の対決シーンにブルース・リーのようなアクションを想定していましたが、「生死を賭けた人生ゲームのようにした方がいいのでは?」というハウアーの提案を受け、監督が新たにストーリー・ボードを書きました。鳩のアイデアも、彼が出したそうです。

 ブリスを演じたダリル・ハンナは、当時『フューリー』に少し出ていただけの新進で。本作の後『俺たちの明日』『スプラッシュ』でブレイクしました。身体能力の高さを生かして後に『キル・ビル Vol.2』でもアクションに挑んでいますが、ハリウッドでは菜食主義者として有名。子供の頃から器械体操をやっていたので取り入れたいと監督に提案し、それがキャラクターの基盤になっています。メイクとウィグも、オーディションの時に彼女がしていたものがほぼそのまま採用されているとの事。

 彼女は一貫して本作へのポジティヴな印象を口にしていて、『メイキング・オブ・ブレードランナー』でも「自分がその一部になれたと思った映画は『ブレードランナー』だけ。セットも衣装もプロダクション・デザインも、リドリーのヴィジョンの綿密さも、他の俳優達やスタッフのプロぶりとか、献身ぶりも、本当に信じられないくらいだった。今も私の一番好きな映画」と語っています。ちなみに、デッカードが車のテレビ電話で話すシーンの彼女のアップは、クローネンウェスが病気で休んでいる時、名撮影監督ハスケル・ウェクスラー(ハンナの叔父)が撮ったもの。

 ゾーラを演じたジョアンナ・キャシディは、監督が「出演者中で図抜けて運動神経が良かった」というほどのスポーツウーマン。スタント・シーンも代役を断り、自身で行っています。「ハリソンは実際、ストレスを吐き出す必要があった。私との格闘を楽しんでいたわ。私は空手をやった事があるし、戦う時はいつだって本気だわ。だからハリソンは変な気遣いしないで済んだのね」

 ただ、ゾーラの銃殺シーンは議論を呼び、フォードもこの場面があるために役柄を気に入っていなかったと噂されました。キャシディも多くの観客と同意見で、「40年代フィルム・ノワールの探偵だって、あんな事はしないはずよ。逃げる女を背中から撃つなんてフェアじゃないわ。これはいつものリドリーと違う選択だった。私は好きになれなかったけど、だからこそ観客に衝撃を与える事も分かっていたわ」と語っています。本作以後は『ロジャー・ラビット』『ゴースト・オブ・マーズ』『呪怨/パンデミック』など妙な所で顔を出している彼女、スコット・フリー製作のTVシリーズ『ザ・ハンガー』にも出演しています。

 ガフを演じたエドワード・ジェームズ・オルモスが喋るシティ・スピークは、ロスの語学学校に通って作り上げた彼のオリジナル言語。ハンガリー語をベースに、フランス語、ドイツ語を混合しているとの事です。「リドリーは、言葉については質問しなかったが、画面に字幕を入れた。私は要らないと思うがね」

 レオンを演じたブライオン・ジェームズは、スタンダップ・コメディアンから映画界へ進出。『ウディ・ガスリー/心のふるさと』『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『48時間』『XYZマーダーズ』と、悪役を中心に性格俳優として膨大な出演本数を誇り、99年に酒浸りの生活と麻薬の影響で急死するまで出演作が続きました。タイレル社長を演じるジョー・ターケルは、『現金に体を張れ』『突撃』『シャイニング』などスタンリー・キューブリック作品の常連俳優。

* アカデミー賞

◎ノミネート/美術・装置賞、視覚効果賞

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