目下スコットによる唯一のファンタジー映画。アメリカでは5分短いヴァージョンが公開され、ジェリー・ゴルドスミスの壮大な音楽を、タンジェリン・ドリームのシンセ・ロックに差し替えられた事も話題を呼びました。製作のアーノン・ミルチャンは、翌年テリー・ギリアム監督と『未来世紀ブラジル』の編集をめぐって対立したプロデューサーで、本作の再編集に同意したスコットは一時期、自分の作品にこだわりのない監督というイメージで語られました。その時点では後に彼が、ディレクターズ・カット・ブームの先鞭を付ける事になるとは誰も想像していなかったでしょう。 私が観たのは国際版とディレクターズ・カット版ですが、今までのスコット作品と較べると随分緩い印象。脚本にも問題がありますが、全体としては映画というより、エンターティメント・ショーの体裁です。ストーリー中に大袈裟な芝居や歌が組み込まれ、象徴的にキャラクタライズされた衣装とメイクを適用。人物はコマに過ぎず、性格的な厚みも奥行きもありません。セリフには哲学的な含みも多少あるものの、結局は光と闇の闘いになってしまうのが、西洋ファンタジーの限界。私にはM・ナイト・シャマラン監督の『エアベンダー』や『アフターアース』など、東洋的な思想に基づくファンタジーの方が、遥かにリアルで大人っぽく感じられます。 絢爛たる映像美はスコットの面目躍如で、雨、雪、シャボン玉、花びら、綿毛など、常に何かが降っている画面作りは彼のトレード・マーク。『ブレードランナー』に続き、真っ白な一角獣も登場します。スコットは、妖精物語のイラストで有名なイギリスの画家アーサー・ラッカムの作品を丁寧に観察し、製作の初期段階に『フェアリー』という本の画家、アラン・リーとブライアン・フラウドを映像コンセプトのために雇っています。 クライマックスには、『デュエリスト/決闘者』の剣闘にジャッキー・チェンのテイストを加えたアクションもあったりして、スコット作品としてはユニークなルックも持ち合わせますが、怪物達の造形や演技のデフォルメに既視感があり、どうにもアニメチックな仕上がり。エイリアンやレプリカントに徹底してリアリティを追求したスコットが、ファンタジーだとここまで常套的になってしまうのかと、がっかりしてしまいます。 サタンの姿形をイメージした魔王は独創的な造形ですが、『エイリアン』の手法を継承してか、なかなか全貌を現しません。怪優ティム・カリーの隠れファンも多いと思いますが、全身メイクで誰だか全く分からないのも残念。同じ事は、沼の化け物を演じたロバート・ピカルドにも言えます。 コミカルなサブ・キャラクターがヘマをして計画が失敗し、主人公が窮地に陥るのも典型的なハリウッド流の作劇。それなりにユーモアもありますが、ニール・ジョーダン監督の『ブランケット城への招待状』を思い出し、英国の才人がコメディを志向すると失敗するのは、任に合わないからかもと思ったりします。ヴィジュアル面はともかくとして、脚本はスコット向きでない印象。クライマックスやエンディングも、どういう訳かカタルシスに欠けます。 本作の不運は、撮影中にセットが全焼した事よりも、試写会の制度にありました。スコットは当初から30分も短くしたヴァージョンをロスの映画監督協会初のアメリカ試写に掛けましたが、この試写会を「とんでもない厄災だった」と回想しています。「僕が作ってきたような作品の場合、映画会社は幼稚な連中を試写室に入れる事がある。400人の客の中から、マリファナの匂いが漂ってきた。その内、誰かがクスクス笑い出し、そいつが映画に嫌味な文句を付けはじめて、客全体がそれに同調しだした。問題のクソ野郎は麻薬でラリっていた仲間達と大笑いをはじめ、映画にとって最も重要なイベントを台無しにした。映画会社の重役は、映画がかなりセンチメンタルに感じたといい、とてもまずい状況になった」 そうしてスコットは、アメリカ版とヨーロッパ版の2種類の編集ヴァージョンを作成する事になります。アメリカ公開版ではジェリー・ゴールドスミスのクラシカルな音楽を全て取り払い、不器用に再編集されたフィルムに、大慌てでシンセサイザーとフルートのニュー・エイジ風音楽を付けました。後になって彼は、ユニヴァーサルが偏執的な調子で「音楽がセンチメンタル」だと言ってきたせいで、音楽が甘すぎるような気がしてきたと認め、ゴールドスミスの音楽は格調の高い大傑作だと思っている、と語っています。彼は又、前作のトラブルを引きずっていて、様々な事に自信が持てなかったようです。 曰く、「結局僕らは貴重な要素を削り落とし、無くなってしまったものを悔しがるはめになった。正直な話、工夫に富む妖精物語の感動よりも、映画の成否の方が気になってならなかった。忘れちゃならないのは、私が『ブレードランナー』の後で精神的に不安定だった点だ。自信を失った中で、もう一度ヒットを生む成功者に戻りたいという精神状態に追いつめられてしまった。私がハリウッド的考えに染まってしまった末の出来事だった訳だ。ヨーロッパでの反響は、アメリカほどひどくはなかった。つまり、再編集と音楽の入れ替えは無意味だったんだ」 スコット自身が言うように、本作はビデオ化以降に売上げを伸ばし、専用サイトも幾つか生まれるなど、再評価が進んでいると言われます。しかし、ディレクターズ・カット版も見られるようになった今、私個人の考えでは、監督が当初イメージした通りの状態ですら、本作は他のスコット作品の芸術的水準に到底達していないように感じられます。 ちなみにアメリカ版はセリフが陳腐で、魔王の全身も早くから映されるとの事。編集も随分違っていて、ヨーロッパ版の方が全てにおいて上品らしいですが、私はディレクターズ・カットのダイアローグもさほど優れていると思わないし、日本の評論家にはアメリカ版が正解だと言う人もいます。ヒョーツバーグの脚本には当初、王女がレイプされる場面もあったそうで(結局、影とのダンスで暗示的に描写)、常套的な映画になってしまったのは、編集の是非以前の問題のようです。 |