スコット作品としては、『ブラックホーク・ダウン』に先駆けて現代の戦場を描いた映画。もっとも、内容はフィクションだし、戦闘シーンは最後に少しだけで、映画自体はSEALE訓練を女性の視点から描いた、ある種のハウ・トゥー物と見る事もできます。『エイリアン』や『テルマ&ルイーズ』で女性の活躍を描いたために、スコットはフェミニズム的な観点から語られる事も多いですが、ジェシカ・チャスティンが語るように、スコットにはそもそも男性女性で物事を分けて考える感覚自体が希薄なようです。 本作はフェミニズム映画のように語られがちですが、作品を観て分かる通り、いじめや性差別を無闇に強調せず、SEALE訓練の厳しさや、それがどのようなものかを見せる事に軸足を置いていて、すかっと気持ちよく観られます。例えばジョーダンの夫は多少のゴダゴタこそありながらも彼女の味方であり続けますし、政治家のご都合主義を体現した女性議員も出てきます。ただ、主人公が男性のようになってしまう展開に賛否両論があり、特にフェミニストや女性の観客から「女性の男性化」という批判が噴出しました。 物語において大きな比重を締める特殊訓練の場面は、スコットが実際の訓練を見学した上で、フィクションも織り交ぜています。「面白い内容ではあったけど、単調な作業の連続で全く映画向きじゃなかった。なので、現実のものと誇張したフィクションを混ぜ合わせて作り出した。例えば、新入り達がゴムボートを頭上に掲げて長時間立ち尽くしたり、海に運んで引き上げたりする場面は実際に行われている。だが、実弾が炸裂する障害物コースを抜ける辺りはかなり誇張してある」 監督術としては、スピーディなカッティングで畳み掛けるオープニングから、全編に渡って短いカットをテンポ良く繋ぎ、持続的な音楽でシーンを連結。監督の弟トニーとジェリー・ブラッカイマー一派が得意とした、いわゆるMTV的なスタイルですが、あまりにスピーディなので予告編に見えるほどです。ただ、トレヴァー・ジョーンズの音楽が当時はいざ知らず、今の耳には相当にダサく聴こえます。リズミカルな律動や緊迫感の維持はスコット作品らしいものの、テクノ・ポップ風のシンセ・ドラムは興ざめ。一方で、プッチーニのアリアを流してテスト用紙を記入させるシーンなどもあります。 映像に関しては、その凝集度と美意識の高さが、今の目にも色褪せる事がありません。構図といい、色彩といい、全てにおいて他の追随を許さないクオリティで、緊密を極めた編集も見事。一つ面白いのは、戦闘シーンにおいてジッター・ズームという、急激に前後に揺れるズーム手法を使っている事。やや唐突にも感じられますが、こういう画はスコット作品も含めてあまり観た事がなく、映画にユニークなルックを与えています。戦闘の描写自体もシャープで無駄がなく、外面的な効果よりリアリズムを重視した『ブラックホーク・ダウン』に繋がるタッチ。 俳優達の演技も、わざとらしいスタンドプレーに走る事なく、抑制されたテイストで手堅いアンサンブルを構成しているのに驚かされます。わけても、議員を演じたアン・バンクロフトの老練な巧さはぴかイチ。肩の力は抜けているし、デフォルメも一切ないのに、観客の目を釘付けにする説得力の強い芝居は、すこぶる滋味豊かなもの。巧まずして滲み出る味というのは、正にスコット作品そのものに当てはまる魅力でもあります。 主人公がなぜこんな目に遭ってまで信念を貫くのか、その理由やモチベーションが分からないという意見は確かに理解できます。それは映画の中で描かれていないし、本作の弱点とも言えます。驚くのは、スコットが「デミ・ムーアのご機嫌取りに終始したのは明らか」という、素人のような見方をするプロのライターが我が国にいる事です。専門家なら映画がどうやって作られるかは知っている筈ですが、勿論、主演俳優の機嫌取りで映画を1本作り上げる事など不可能です。 フランソワ・トリュフォーは「監督とは、質問に答える人である」と語り、黒澤清も、監督はあらゆるスタッフの質問に一日中答えなくてはいけない、どうしたって「監督の癖や個性が反映されるシステムになっている」と言います。これがスコットのような、全場面のストーリーボードを描き、小道具や衣装まであらゆる細部をコントロールする監督であれば尚更です。先の、SEALE訓練の場面に関するスコットの言を持ち出すまでもなく、彼はゼロの状態から「一つの概念で統一された全体」を創り上げているのです。出来上がった画面がどれほど無作為に見えても、です。 |