スコットお得意のスペクタクル史劇。ロビン・フッドの伝説に新解釈を施し、リチャード王の時代(『キングダム・オブ・ヘブン』を引き継ぐ時代です)に設定を移して、政争や民主主義の問題も絡めています。タイトルは『ロビン・フッド』ですが、物語は民衆のヒーローとなった主人公がロビン・フッドと名乗ってシャーウッドの森に入るまでの前日譚。その点は主演二人のキャスティング(特に年齢)と共に賛否両論あるようですが、一本の活劇映画として観れば、迫真のリアリズムと雄大なスケールでドラマを描ききるパワフルな手腕に脱帽です。 私は、ロビン・フッド物と言えばケヴィン・コスナーが演じた映画しか知らないので、あくまで12世紀イングランドの歴史活劇として観ました。脚本は実に盛りだくさんで、まず、瀕死のロクスリーに頼まれて剣を親元に届けるという前半の大筋があり、リチャード王の逝去とジョン王の戴冠、新王の横暴に対する民衆の不満の爆発と、攻めて来るフランス軍、さらにマリアンとのロマンスも平行して描かれます。 これだけでも結構な分量のシナリオですが、味付けとして、お供の仲間達やタック修道士との軽妙なやり取り、フランス王のスパイであるゴドフリー(架空の人物)の暗躍、マリアンと悪代官の攻防、村を襲う少年盗賊達など、様々な要素が投入されて、とにかく雑然とした雰囲気。良く言えば、視点を切り替えて飽きさせないので、その雑多さが映画に荒々しいエネルギーを与えてもいます。ストーリー展開のテンポも速く、緊張感を維持したままぐいぐいと見せてしまう演出は見事です。 劇中に登場するキャラクターは、悪役ゴドフリーを除けば多くが実在の人物ですが、肝心のロビン・フッドは架空の人物と言われています。しかしスコットは「彼は実在したと思う」という解釈でドラマを構築。彼は『グラディエーター』の時も『エクソダス:神と王』の時も、過去にそのジャンルの傑作があるとは思えないと発言していますが、本作でも、ロビン・フッド物の優れた作品はほとんどなく、あまり好きなジャンルではなかったと語っています。「だからこそ、どういう映画を撮りたいかがはっきりしている」といい、そういう視点が映画作りに明確な方向性とモチベーションを与えています。 絵画的でダイナミックな画作りは健在で、思わず息を飲むような場面も頻出。海岸や山の稜線、船団の配置など、通常スクリーン上ではコントロール出来ないものまで映像設計に含めてしまう描写力は、とにもかくにも尋常ではありません。キャメラが海上すれすれを浮遊する船団のショットも、ドローンがまだ無かったと思しき時代にどうやって撮ったのかという映像です。薄暗い照明を好むスコットですが、本作は極端なロー・キーで撮影されていて、『ゴッドファーザー』に匹敵するくらいほぼ何も映っていない場面も多々あり。これは、ブルーレイなど高画質のメディアで見ないと、階調の豊かさや陰影に富む詩情の美しさが伝わらないかもしれません。 圧倒的なのがディティールのリアリズム。綿密な歴史考証で再現された衣装や美術、武器や船体は勿論の事、例えばマリアンが馬で畑を耕すシーンで、実際に掘り起こされて畝が形作られる様子のただならぬリアリティ、或いは、この映画には獣を火に炙って食べるシーンがよく出てきますが、森から戻ってきた男達がぶら下げている獣の生々しさ。そこには、彼らは平素こうやって獲物をとり、こうして生きているという、有無を言わせぬリアルな感触があります。だからこそ、規模の大きな戦の場面も真に迫る。全体は細部の集積であるという、愚直なまでに丹念な描写の磨き上げ方は、芸術家として誠実な態度と言えるでしょう。 最後の合戦は、『プライベート・ライアン』の高度なパロディとなっていて、明らさまに同じショットを踏襲している箇所もあります。海岸を埋め尽くす船団、浅瀬に降り立った兵士達に浴びせられる雨のような矢、水底の兵士達を容赦なく矢が貫く水中ショット、真っ赤に染まる海面。意図的に『プライベート・ライアン』とショットを対比させる事で、現代に通じる問題意識を感じさせるのも興味深い所。何しろ、海から攻めてくるのはフランス軍で、陸から迎え撃つ側がイングランド軍ですから、そこに皮肉を読み取る人がいてもおかしくありません。 政治的な結末は極めて苦いもので、それはしかし現実とリンクしてもいます。人徳も才覚も無い者が王座を継ぐというのは、スコット史劇が何度も描いてきた図式。ラストは、さあロビン・フッド伝説の始まり始まり、という感じの冴えた語り口ですが、むしろエンディング・タイトルのアニメーションが映画的です。スコット・フリーのロゴがそのまま劇中の世界へ動きだしたような内容で、かなり残酷な描写も含みますが、タッチが実にアーティスティック。勇ましい音楽にも高揚感と切迫感があり、こちらをオープニング・タイトルにした方が良かったのではないでしょうか。 |