最初に書いておきますが、作品鑑賞の大きな妨げになる場合もあるので、未見の方でネタバレを気にする人は、当欄を読まないようにご注意願います。スコット久々のSFとなった本作は、実は『エイリアン』の前日譚で、『エイリアン:コヴェナント』に続く前半部の物語でもありました。なので、作品の端々にファンへの目配せが効いており、それをサービス精神と取るか、うるさいと感じるかは評価の分かれる所です。 こじつけだろうが後付けだろうが、とにもかくにも第1作へ繋がりそうなラストシーンには有無を言わせぬ迫力があり、快哉を叫びたくなる所。エンド・クレジットには、ウェイランド社のロゴも登場します(第1作では日系のライバル企業と合併してウェイランド・ユタニ社となっています)。一方、様々な場面が第1作と呼応しあっているのが、見ようによってはパロディに見えてしまう弱点もあり。デヴィッドの真意など謎も回収されないまま終っていて、幾らシリーズ物とはいえ、単独で成立しているかどうか微妙な所です。 唯一の生存者となったエンジニアがなぜ宇宙船で脱出せず、長期冬眠していたのかも分かりませんし、第1作の舞台となった別の惑星に、なぜ彼らの宇宙船とスペースジョッキー(操縦席に座ったままの巨大なミイラ)があったのかも説明されません。冒頭のエピソードは、振り返って総合すると、エンジニアが人類の種を蒔く地球の場面という事になりそうですが、リアルタイムでは分かりにくいです。敢えてスコットが敬愛するスタンリー・キューブリックのような、謎めいた映画に仕上げようとしたのでしょうか。 技術的には、スコット一流の緻密な美的センスが光る、すこぶるクオリティの高いものです。冒頭近く、長期冬眠中のクルー達を管理しているデヴィッドの場面からして、圧倒的な描写力。静謐にアレンジされたショパンの曲が流れ(これもクラシック音楽を多用したキューブリックへのオマージュ?)、自転車に乗ってバスケットボールをシュートするデヴィッド、彼が観ている映画『アラビアのロレンス』(監督は、飽きずに楽しめる映画である所、主人公がアンドロイドっぽい所をチョイスの理由に挙げています)、シンメトリックなセット美術とキャメラ構図など。 構造としては第1作と同じパターン(宇宙空間で未知の生命体に襲撃され、一人を除いてクルーが全滅。背景に大企業の論理)で、「私は唯一の生存者〜」という同じセリフを意図的に踏襲していますが、中盤辺りまでほぼ何も分からないために、謎の力で興味を持続させる緊張感があるのは、さすがスコット作品。結局は生存闘争のお話ですから、人類、エンジニア、エイリアンの三つ巴の戦いは熾烈を極めます。探求が失望に変わり、後には悲劇だけが残る展開も、過去のスコット作品の衣鉢を受け継いでいます。 中盤で話が急転し、恐るべきパニックの様相を同時進行のカットバックで見せる演出力は冴え渡っていて、こういう、同時多発的で複雑なシーン構成はスコットの面目躍如。混乱した状況をそのまま提示し、息も付かせぬスペクタクルで見せる描写力に舌を巻きます。一方、ショウとヴィッカーズがそれぞれ別に走り始め、ジャガーノートがどこに墜落してくるかという、どこか、運命が意志をもって転がってくるような描写はスピルバーグ映画を彷彿させる所。 プロメテウス号の造形がやや男の子受けの漫画チックなデザインなので、もう少しシンプルな方がリアルではと感じますが、その後に登場するジャガーノートが正にH.R.ギーガー風のデザインで、その対比を明確にするための伏線だとしたら成功しています。このシリーズは地上的でリアルな物と、悪夢や潜在意識を幻想化したギーガー的なものとの衝突を描いていて、その側面に最も意識的なのが、スコットが監督した一連の作品ではないかと思います。 細かい部分につっこみ所が多いのは、スコットが矢継ぎ早にアイデアを放射する人であるせいか、それとも撮影のスピードが速いせいか。例えば、転がるジャガーノートから逃げる2人がなぜ横方向へ逃げず、縦に走るのか。車両の出入りのためとはいえ、プロメテウス号にはあんな広い開口部しかないのか(無防備に開けてしまって大惨事)。そもそもこの船のクルーは謎の物体や未知の生物にすぐ触ろうとしますが、3D効果のためだけの演出ではないのか、とか。 物語に無理があるのは、スペースジョッキーから発想したせいもあるでしょうか。シリーズを通じてこの謎には触れられなかったため、スコット自身が本作の着想をそこに求めたものですが、あの象のような顔や奇妙な座席は何かという、本作で明らかにされる真実について、スコットのアイデアに当初はスタッフ全員が反対したといいます。その気持ちは私も分かりますし、投稿レビューにも同意見が多いですが、謎なんて大抵はそういうものじゃないかという気もしますね。 |