『エイリアン』の前日譚で、『プロメテウス』の後日譚。監督自身が第1作のテイストに立ち返ったSFホラーだと語っているので、まずその点がどうかと言えば、怖さの点では少々劣ります。これは私達観客が恐怖に慣れてしまったのかもしれませんが、私にはどうも、H.R.ギーガーによる不穏な悪夢の世界から離れてしまったせいという気がします。スコット自身、「観客にショックを与える事は以前よりずっと難しくなった」と認めており、モンスターの正体がもう未知ではない当シリーズの場合、それはなおさらでしょう。 彼の「追いかけっこをいつまでも続ければ観客は飽きてしまうし、異常さではなく怖さを追求するなら、暴力の描写にも限度がある」という言葉は、このジャンルの難しさを象徴しています。ここではゼノモーフ(第1作のエイリアン)と新登場のネオモーフが、特殊技術と凝集度の高い演出によって凄惨な場面を作り出しますが、これらの場面自体にどこか既視感がある点は否めません。 オラムが犠牲になるくだりは、ファンへのサービスなのでしょうか。第1作をそのままなぞってゆくので、最後は違う展開があるのかと思いましたが、結果はそのまんまでした(ただし生育がダイジェストみたいに速いのと、飛び出すのがチェストバスターではありません)。『プロメテウス』もそうでしたが、こういう箇所がほとんどパロディに見えてしまうのは残念です。 一方、『プロメテウス』と同様に別々の場所で2人のクルーにエイリアンを寄生させ、パニックを同時進行で描く辺りは、畳み掛けるように観客へ襲いかかろうという工夫と迫力を感じます。磁気嵐という環境面での悪条件をプラスして、より混乱と不安を高める手法も『プロメテウス』を踏襲。鼻や耳から異物が侵入する描写は、このシリーズの根底にある、ウィルスや寄生虫への生理的嫌悪感を巧みに利用したものと言えます(『エイリアン』『プロメテウス』では口から摂取)。 密室で展開した第1作と、広大な自然が印象的だった『プロメテウス』の両方の要素を入れながら、ニュージーランド・ロケで新しいルックを求めた点は、目覚ましい効果を挙げています(前作はアイスランド)。プロダクション・デザイナーも交替し、スコットの斬新なヴィジュアル・センスには磨きがかかっていると言えるでしょう。ただ、アンドロイドが一人二役のため、二人が揃う場面ではどちらがウォルターでどちらがデヴィッドなのかよく分からないのは問題です(それを利用したストーリー展開でもありますけど)。 そもそも『プロメテウス』、そして本作と、俳優のアンサンブルを重視する側面は作品ごとに弱くなっていて、本作では個々のキャラクター描写がほとんど行われません。そのため、誰が誰なのかよく分からないまま舞台から消えてしまう印象も受けます。観客にショックを与えたいなら、まず犠牲者のキャラクターを掘り下げるのが鉄則ではないでしょうか。 では、物語の設定はどうでしょう。本作はクルー達(人間)というより、アンドロイドが主人公になっている点で過去作と大きく違っています。生み出されたばかりのデヴィッドと、生みの親であるウェイランドによるオープニングは、最初は何やら勿体ぶったシーンに見えますが、映画を最後まで観て振り返ると、本編のストーリーに関するヒントが、全て二人のセリフの中に示されている事に気付きます。 ワーグナーの楽劇《ニーベルングの指環》(人間と神々の没落を描いた連作オペラ)の引用は衒学的な駄目押しでしかなく、プロメテウスの神話も然りです。作劇の型としては親殺し、神殺しのテーマをなぞったもので、『フランケンシュタイン』に代表されるいかにも古典的なモティーフ。AI(人工知能)が人間に叛乱を起こす展開は、スコット自身の『ブレードランナー』、スコットが敬愛するスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』にも存在します。 繫いでみせた脚本によって、前日譚製作の意義は保たれたといえるでしょう。劇中でパーシー・シェリーの詩が引用されますが、『フランケンシュタイン』を書いたのが実はその妻メアリー。『エイリアン』シリーズの主人公は全て女性ですが、こうなるとその物語の原型を作ったのも女性だった事になります。 本作では、『プロメテウス』で謎だったデヴィッドの真意はほぼ説明されましたが、結局まだ分からない点もある上、新しい謎も生まれています。ショウ博士とデヴィッドが、ジャガーノートでエンジニアの母星(本作の舞台)にやって来た事が分かりますが、目的が何だったのかはよく分かりません(1体のエンジニアですらあれほどの脅威なのに、その母星に行くなんて無謀です)。時間軸が分かりにくいですが、ショウはその前にもう死んでいたのでしょうか。 又、第1作の惑星(『プロメテウス』とは別の惑星)でノストロモ号が発見したジャガーノートとスペースジョッキーがなぜあそこにあの状態であったのかは、本作でもまだ分かりません。さらに、ウェイランドが自らの延命だけを追求する利己的な人物だったとすると、この事業全体のグランドデザインも目的と性格が曖昧になってきます(社長亡き後も事業が存続しているせい?)。ストーリー全体としても、アンドロイドの意志が大きく介在するため、過去作に顕著だった生存闘争の側面と、「人間世界に対するギーガー的幻想世界」の構図は背景へと押しやられてしまいました。 相変わらず不合理な描写も目立ちます。クルーが皆、プロとして余りに頼りないのは彼らが入植者でもあるという事実を差し引いても、現実的ではありません。これほど大規模な計画において、現場のクルーが目的地を軽々しく変更できるとは思えないです。そして、又もやマスクなしの軽装備で未知の惑星に降り立ち、植物を口に入れるわ、排泄をするわ、タバコを吸うわ(そして捨てるわ)、案の定、黒い粒子を吸い込んで大惨事になった上、感染者を安易に船内へ入れています。 そもそも、入植のためにクルーがカップルで構成されているのはいいですが、そのせいで数々の弊害が生まれるのは事前に予測されうる事です。一つ面白いのは、開巻早々に船長が事故死し、オラムが新船長として危なげな責務を負う設定は、能力のない者に権力が移ったせいで悲劇が起こるという、スコット作品にしばしば適用される物語の型になっている事。これは意図的なものなのか偶然なのか、監督本人に訊いてみたいものです。 尚、映像ソフトにはウェイランド社による新型アンドロイドのCMや、入植者の適性検査の映像などが収録され、時代を反映したマルチメディア的展開になっていますが、これらが皆、遊び心で製作された別作品なのか、本編から削除されたシーンなのかはよく分かりません(エンド・クレジットには閲覧できるサイトのアドレスが表示されているようです)。個人的にはインタラクティヴな楽しさよりも、肝心の本編が説明不足にならないよう、映画単体での完成度を優先させて欲しいと感じます。 |