「千夜一夜物語(アラビアンナイト)」の「アラジンと魔法のランプ」のエピソードを現代と交錯させたユニークな恋愛ドラマで、原作は英国の短編小説。 満ち足りた生活を送る、物語論の研究者アリシア。物語のパターン上、3つの願いは不幸をもたらすと知る彼女は、3つの願い事を拒否する。ジンは瓶の呪縛から解放されたいがゆえ、自分の境遇を語って彼女を説得する。非常に優れたプロットである。 しかしハリウッドにおいては、およそどんな優れた脚本でも映画化の過程で通俗的になってゆくものだが、本作はセリフもナレーションも文学的で難解。老若男女誰でも楽しめるエンタメなど目指さず、知的な大人の映画に仕上がっている。 登場人物の行動原理も観念的な要因に根ざしていて、単純明快とはいかない。ジンの話を聞き終わったアリシアが口にする願い事は、誰もが共感できるものとは言えないだろう。また、それがなぜジンの力を損なう事になるのかも、観念的に解釈を掘り下げてゆかねばならず、説明もなされない。全てにおいて、一度観ただけで誰もが即座に理解できる映画ではない。 千夜一夜物語を題材にしているだけあって、本作は徹底して「語る事」についての映画である。主人公は物語の研究者だし、ジンはひたすら自分の身の上を語る。その中のエピソードにもまた、毎日面白い話を語る事で処刑を免れ続ける人物が登場する(シャリアール王とシェエラザードの物語の変形だ)。 そもそも本作は「昔々ある所に〜」とアリシアのナレーションで語られる枠構造で、ジンの回想の主要人物がみな女性。ゼフィールなどは学者である上に、貧乏ゆすりの癖がアリシアと同じである事を考えると、映画全体が彼女の作り話か妄想である可能性も高い。ジンが飛び出した小瓶(それも電動歯ブラシでこすったため)も、バザールの店主から近年の模造品だと説明されている。 イスタンブールでの幻想めいた描写、例えば空港で接触してくる小男や講演会の客席にいる老人は、後の展開とどう関連しているのか今一つよく分からない。ミラー作品の事だから、映像化されない膨大なバックストーリーが設定されているのかもしれないし、それこそ映画全体が現実ではない事を示唆するものとも考えられる。 憎悪と愛について言及し、「私は愛を語りたい」と言うアリシアの人物造型は、『マッドマックス』シリーズの監督には意外でもある。ジンの回想はどれも死や暴力が日常であった時代のものだが、ジン自身の行動の動機は愛であり、むしろそれゆえに瓶の呪縛から解放されない。 彼女によればこれは、「人間が金属の翼で大空を駆けめぐり、水かきのある足で海の中を歩き、手に持ったガラスの板で恋の歌を聴いていた」頃の話で、語り手が未来にいるとすれば時制は『マッドマックス』シリーズと近いかもしれない。ただし彼女は「本当の話だが、おとぎ話のように語ろう」と言っているので、敢えて現代を昔話のように語っているだけという可能性もある。 ジンの遍歴は、めくるめく映像美と奔放なイマジネーションで描かれる。そのパワフルで多彩な語り口はミラー監督の面目躍如。現代のホテルと古代のエピソードをスピーディに繋いでゆく語り口は流麗そのものだし、冒頭のシーン、着陸する飛行機の車輪をキャリーカートの車輪のカットに繋げるようなアイデアは、映画表現とはすなわちこういった発見の事なのだと素直に納得される。 ジンの回想場面の豪華絢爛たる美しさと、現代ロンドンの場面の詩的で日常的な美しさは一見対照的だが、「絵本のような幻想性」という点で根っこが繋がっている。撮影監督ジョン・シールの美学と、脚本が希求するものと、監督の内的イメージが有機的に結ばれているのだろう。概してミラーは、人跡未踏の大自然だろうと、都会の街角であろうと、常に絵本のような画を撮る。公園の芝生と空のショットでさえ、リアリズムでは表現しない。 監督によれば、3つの願い事だけでなく、映像にもあちこちに「3」の文字が散りばめられている。彼は自作は映画館で観て欲しいとしながらも、映像ソフトや配信を否定せず、近年は1コマ単位で細かく観る人のためにディティールにこだわっているという。この「3」のモティーフも、そういった発見の楽しみを意識したものだそうだ。 |