『マッドマックス/怒りのデス・ロード』から、さらに9年を経て実現したシリーズ5作目、というよりスピン・オフ。『怒りのデス・ロード』の前日譚に当たり、シャーリーズ・セロンが演じた大隊長フュリオサの来歴を描いている。 『マッドマックス/怒りのデス・ロード』が直線的なノンストップ・アクション映画だったのと較べると、本作は細かく章立てされた、複雑な構成と多彩なテイストが特色。前作は3日間の出来事を描いていたのに対し、本作は16年に渡る物語だからそれも当然である。セリフも多く、交渉や思想の独り語りが多い所は演劇的でもあるが、驚異的な映像センスやド派手なアクションも満載。 セリフが多いとはいってもあくまで前作と較べての話で、小悪党じみたディメンタスがよく喋るのを除けば、どのキャラクターもみな寡黙である。その分、主演のテイラー=ジョイを筆頭に目の演技合戦が凄まじく、ほとんど目力と目力の凄絶な戦いみたいな場面がたくさんある。物理的なアクションの凄さで評価されているシリーズだが、俳優の目力の凄さは初期から一貫している。 世界観の豊穣さも相変わらずで、本作にも何やらいわくがありそうな奇抜なディティールがそこここに溢れているが、そのほとんどは説明として触れられる事がない。ちなみに原作は、『怒りのデス・ロード』の前にすでに出来上がっている。観客もまた、緑の地がもはや存在しない事は分かっているし、本作の後のフュリオサの活躍ぶりも知っているわけだから、その意味ではユニークな鑑賞体験である。 メイキングを見ると、本作でも俳優、スタッフの垣根を越えて事前に皆で会議を行っており、テイラー=ジョイは「リハというより討論会みたい。大学にいるみたいで楽しい、と親に話した。あらゆる事には理由がある。その事にすごく気を配ってる」と語っている。 つまり、限られた物資でやりくりしている厳しい世界を舞台にしているので、一瞬しか画面に映らないアイテムにも全て必要性や来歴がある、そのコンセプトを本作も継承している訳だ。量産されている劣悪なコピー映画群がみな薄っぺらな二番煎じにしかならず、ミラー作品のみが深い奥行きと堅固な迫真性を獲得している理由がここにある。 復讐者である点で、フュリオサは第2のマックスとも言える。そして古今東西どの物語においても、復讐者は大抵、寡黙かつ冷徹に描かれる。復讐者がとりわけドラマティックに見えるのは、生きる目的の第一義を「復讐」にしている時点で非常に感情的な人物であるにも関わらず、その目的を完遂するためには感情を押し殺し、冷静沈着である必要があるというジレンマを抱えているせいもある。だからこそ、目的を遂げた後に堰を切って溢れ出る感情も描く事ができるわけだ。 ミラーは情感の表現にはドライな距離を保つ傾向のある監督だが、そんなフュリオサが情動に突き動かされる場面が、本作には大きく3つある。1つは捕まった母親の元に戻ってしまう場面で、もう1つはジャックを助けに戻ってしまう場面。この2つは対のように置かれていて、フュリオサが結局、愛する者のためには破滅的で間違った行動を取ってしまう、つまりいかなる厳しい状況でも愛を切り捨てる事ができない人物である事を示している。 もう1つは勿論、ディメンタスとの対決場面だが、ここは当初の案から大きく変わったという。ミラーの方法論では、俳優の提案も積極的に反映される。テイラー=ジョイは「ジョージは天才よ。信じられないほど寛大だった」、ミラーも「あの過程は有益だった。アニャもクリスもキャラクターを深く理解できた。あのシーンはより良い物に変わった。アニャとクリスのおかげだ」と振り返っている。正に、討論型映画製作の賜物だ。 このシリーズのファンなら既にやっているかもしれないが、本作を観た後にそのまま『怒りのデス・ロード』を観ると、世界観の構築のみならず、色々な事柄が有機的に繋がってより深く物語を理解できる感覚がある。一度お試し頂きたい。 |