『めぐり逢えたら』から5年、再びメグ・ライアンとトム・ハンクスを起用してエフロンが仕掛けた、得意のロマンティック・コメディ。名匠エルンスト・ルビッチ監督『桃色(ピンク)の店』のリメイクで、舞台のハンガリーはニューヨークに、香水ショップは児童書店に、手紙はEメールに、失業する男性は女性に入れ替えられています。エフロンが『めぐり逢えたら』の姉妹篇だという通り、ニューヨークでロケーションをしている点や、全体のシックなトーンなど、共通した雰囲気があります。 人間関係を丹念に描くエフロンらしく、(それぞれのパートナーといる時を除いて)ジョーは常に仕事仲間のケヴィンといるし、キャスリーンは同僚のクリスティーナ、ジョージ、バーディーと行動を共にしています。そして、彼らのダイアローグを聞いているだけで、お互いが単なる仕事仲間を越えて、気の置けない友人である事が分かる。ジョーの場合も同様で、周辺人物との「関係性」で人物像が見えてくるというのが、エフロン作品の描き方です。 監督自身、その点についてコメントしています。「キャスリーンは実の家族がこの世にいないので、従業員と家族同然の親しい付き合いをしている。従業員との関係を通して、彼女の人物像がより明確に浮かび上がるの。一方ジョーは裕福な家の出で、身内は優雅だけど極端にひねくれた連中ばかり。これらの人物を通したジョーの生活から、彼がなかなか愛を信じられない状況が充分に理解できる」 チャットで恋をする相手が、実は身近な商売敵というのは、映画の中では強引なご都合主義に思えますが、エフロン作品の世界観で言えば、これこそが「縁」です。姿は見えないけれどキャスリーンが恋をしている男性と、現実にいがみ合っている男性、実際にはそれが同じ相手で、別々に認識していた人格が一致し、等価で結ばれた時に恋愛は成就する。これは、エフロンが常に描いている「相対的価値観」です。 エフロンらしさは随所にあって、例えば、映画『ゴッドファーザー』やジョニ・ミッチェルの歌、オースティンの『高慢と偏見』を介在するやり取りが伏線になる辺りは、サブカルチャーがストーリーに絡んでくるエフロン作品ならでは。キャスリーンもジョーも自分の性格の一部である攻撃性を自覚していて、それが発動すると後悔に結びつく事を、(ここが大切な所ですが)恋心を通して反省する点も、『ジュリー&ジュリア』で描かれるジュリーの微笑ましい反省コメントを想起させます。 前作『マイケル』とはタッチを変えて、『めぐり逢えたら』の世界にも繋がる美しい映像を紡いだジョン・リンドレーの撮影は素晴らしく、他の作品では俗っぽさが気になる事もあるジョージ・フェントンの音楽も、ここでは映像にマッチしています。クライマックスに“Over the Rainbow”が流れるのは、『めぐり逢えたら』の姉妹篇という事で意図的な選曲でしょう。もっとも、歌手はレイ・チャールズからニルソンに代わっています。 キャロル・キングの主題歌は、キャロル・ベイヤー・セイガーとの共作。暖かい歌声と切ないメロディが胸を締め付ける珠玉のバラードです。ランディ・ニューマンの既成曲も流れ、『恋する惑星』でフェイ・ウォンがカヴァーしたクランベリーズ、先の“Over the Rainbow”を始め複数の曲を歌っているニルソンなど、サントラもエフロン作品らしいクオリティ。 『めぐり逢えたら』もそうですが、観客の自然な欲求にちゃんと応えてくれるラストが素敵。予想を「覆されない」事がこんなにも嬉しい映画を撮れるのは、ノーラ・エフロンくらいでしょう。それでも、最後はどうやって回収するんだろうと心配になりますが、このキャスリーンのリアクションを見てしまったら、確かにこれ以外のダイアローグ、これ以外の着地点なんてあり得ない、という気持ちになってしまいます。 エフロン曰く、「私がロマンティック・コメディを好きなのは理由がある。人間の生活をそのまま描き出す事ができるからよ。食事したり、電話したり、コンピュータを使う日常をね。カーチェイスや銃撃戦は非日常でしょ? 例えばジョーがスターバックスについて1分くらい喋る場面があるわよね。ああいう所は自分の考察を盛り込むチャンスね」。キャスリーンの店を児童書店にしたのは、エフロン姉妹が児童書を好きだから。そうやって、個性を盛り込んでゆくわけです。 |