シャマラン初の時代物という事で話題を呼んだスリラー。この作品にも幾つかのひねりがありますが、後半に出て来る町の場面は、オチやひねりというより一種のファン・サービスというか、おまけみたいなもので、大袈裟に取り沙汰するものではない気もします。タブーの設定そのものが寓話の色彩を濃くしていますが、中盤あたりからはより直線的なスリラーの様相を呈してきます。 森の住人として恐れられている《語ってはならぬ者》は、かなり早い段階で姿を現し、その人工的な風貌ともども意表を衝きますが、その理由は後に明らかになります。彼らが村の中に侵入してくるくだりは、シャマランの才気が縦横無尽に発揮された、傑出した場面。《語ってはならぬ者》が外を徘徊する中、地下に避難する家族を尻目に、ルシアスが助けに来る事を信じてアイヴィーが戸口に手を差し出す所、もっとも恐ろしく、緊迫した場面が、同時に最もロマンティックな愛の場面に転換する、こんな映画はちょっと観た事がありません。 アイヴィーの身を案じ、真夜中に彼女の家のポーチで見張りを続けるルシアス。ロジャー・ディーキンズが二人をほぼシルエットで撮影したこの繊細な場面も、全く素晴らしいです。「なぜ思っている事を口に出さないの?」と問いかけるアイヴィーに、「なぜ黙っていられないんだい?」と返すルシアス。僕が一番嫌なのは君が危険な目にあう事だから、黙ってポーチに座っているのだと。ここで、アイヴィーの頬を涙が伝うのが、かすかに見て取れます。とても詩的で、美しい場面です。 映画は中盤に至って急展開し、悲劇の色合いを濃くしてゆきます。村の人々は、悲しみから逃げるため、このユートピア的な共同体を作り、タブーを設定する事で外からの干渉を避けようとする。でも、それはやっぱり不自然な行為だから、村の生活にも、結局はどこか歪みが生じてくる。そしてその歪みは、知的障害を持ち、精神的に最も純粋なノアに一番大きな影響を及ぼしてしまう。 ノアの行動は次第に常軌を逸してきますが、村の人々や私達観客にとっては当然、彼を責める事には抵抗があります。それは、彼が社会的に弱い立場にあるからだし、その社会を作ったのは彼らだからです。でも、アイヴィーにとってはそうではない。恋人の命が奪われかけていて、そもそも彼女だって視覚障害者なのです。これは何ともやりきれない、正に悲劇です。 村の人々はノアを責めず、今までの生活を続けるチャンスをくれたノアに、感謝の気持ちを表します。直接に手を下したのはノアでも、彼に取り憑いた怪物を作り上げたのは彼らです。正にこの事、つまりノアやアイヴィーのような、社会で最も弱い立場にある人間が、社会の歪みの最も大きな犠牲者になってしまう事、これは私達が暮らす現実社会そのものなのです。 この映画は、村人達が悲しみから立ち直り、再生してゆくという点で、今までのシャマラン作品を継承しています。ブレンダン・グリーソンが演じるオーガストのセリフに、作品の主題がよく出ています。「いくら悲しみから逃げても、必ず追ってくる。悲しみも人生の一部なんだ」 長回しや固定キャメラを多用し、物事をじっくりと描いてゆく手法はシャラマンの面目躍如たる所。それを、筆舌に尽くし難いほど美しいディーキンズの撮影が、格調高く仕上げています。黄金色と赤を象徴的に配置した、シャマランらしい色彩設計は全く見事。個人的には、シャマラン作品の中でというだけでなく、映画史全体においても、非常に重要で価値の高い傑作だと思います。 |