シャマラン監督は、『シックス・センス』の大ヒットによって時の人となり、作品が発表される度に世間の注目を集める一方、こういうタイプのアーティストによくあるように、出世作のイメージが先行して誤解されやすい傾向にもある。 彼もまた、一面的な見方をされがちな映画作家だ。シャマランについての評価と言えば、そのほとんどが物語に仕掛けられた意表を衝くトリックと、SFやホラー、ヒーロー物、ファンタジーなどジャンル映画を踏襲する特質にばかりに言及されていて、あまりに一面的かつ短絡的である。 最初の頃、彼の作品に共通する主題は“喪失と再生”、それから“内の世界と外の世界”のように思えた。初期のシャマラン作品は、深い悲しみのさなかにある主人公が、人智を越えた体験によって癒され、再生してゆく姿を描いている。 根底にあるのは、この世の出来事には全て意味があり、人にはみな役割があるという考え方。キリスト教的な善と悪の二項対立ではなく、全ての要素は世界に均等に存在し、人間にとって善や悪と見えるものは世界が均衡を保つために顕在化するという、東洋的なパワーバランスの概念に立っている。 又、シャマラン作品の多くは外の世界、例えば霊界や外宇宙、妖精の世界、閉鎖された村の外など、今まで主人公達に見えていなかった“外の世界”が認識される所から始まる。外の世界の住人が迷い込んできたり、攻撃を仕掛けてきたり、外の世界を認識できる特殊な能力を持った人間が現れたりときっかけは様々だが、いずれにしろこの“内と外”の感覚と互いの緊張関係は保たれている。 シャマランは、すこぶる独創的で鋭いセンスを持った才人だと思う。彼はこの、スピードが求められる時代に敢えて逆行するかのごとく、極度にスローなテンポで物語を展開する。しかもその語り口は、ハリウッドでは希少とも言えるほどスタティックだ。音楽で言えば、ピアニッシモを基準に置いた静謐な演奏である。 彼は常に、“静”のトーンを基調にシーンを演出する。大きな動きは封じ込まれ、登場人物の多くはほとんど笑みすら浮かべない。その結果、キャメラのちょっとした動きや、俳優のさりげない所作に大きな意味が加わり、観客の目はスクリーンに釘付けになってしまう(そうならない人も多いようなのは残念。注意力の問題だと思うのだが)。 あるドキュメンタリー番組で、ロシアのアニメ作家ユーリ・ノルシュテインが日本のコンテストの作品を見て嘆き、憤りをあらわにしていた。世界を創造する立場にあるクリエイター達が、世界をよく観察しておらず、作品がどんどん貧粗に、空虚になってきていると。 それら若手作家達の作品はCGアニメや人形アニメと手法こそ様々だが、どれもデッサンが極度に簡略化されていて、背景に奥行きや空気感が全くない上、動きもロボットのようにぎこちなく、まるで子供が作ったようなものになっていた。恐らく意図的とはいえ、これは多くの作品に共通した傾向で、ノルシュテインならずとも危機感を覚えずにはいられないような状況だった。 実写映画でも似た事が起こりつつある。エリック・ロメール監督は50年以上も前に指摘しているが、映画ばかりを見て育った人が映画監督になり、映画の中にしか存在しないような人物や状況を借用して映画を作るようになってしまった。 映画が映画の影響を受け、借り物の使い回しで映画を作っている。映画は本来、他の芸術分野、例えば絵画や音楽、文学、演劇、そして何よりも現実世界から影響を受けるべきなのに。そして、それには“観察する”行為が何より重要なのだ。 シャマランは現代の映画界、とりわけハリウッドにおいては誠に稀有な事に、徹底して“観察”の人である。彼の映画が借り物ではなく、既視感に毒されていないのはそのためだ。脚本だけではなく撮影段階でも、俳優の芝居や、小道具やキャメラの動きや光の加減や、時には空気感の変化までもじっと観察し、それを丹念に写し取ってゆく。 だから当然観客にも、スクリーンと音に集中し、じっくり観察する事を要求する(今やそういう集中力を持つ観客は激減したが)。彼の映画はトリックやどんでん返しが全てのように言われるが、実際には、ラストまで観てしまっても作品の価値はいささかも減じる事がない。それどころかむしろ、繰り返しの鑑賞を促すほどだ。 彼がインド人、或いは東洋人であるという事は、作品に大きな影響を及ぼしているように思う。思想的なバックボーンや映像センスは勿論だが、登場人物の人種的多様性も独特だ。また、彼が自作の多くを地元フィラデルフィアで撮影しながら、初期作品ではアメリカ人のキャメラマンを起用していない点は特筆に値する。 『シックス・センス』『サイン』『ハプニング』のタク・フジモトは日本人、『アンブレイカブル』のエドゥアルド・セラはフランス人、『ヴィレッジ』のロジャー・ディーキンズはイギリス人、『レディ・イン・ザ・ウォーター』のクリストファー・ドイルはアジアで活躍するオーストラリア人。これは、外国人の目で捉え直す事で、自分がよく知る街を“再発見”しようという意図のようにも思える。 シャマランは又、CGや爆薬などの特殊効果にほとんど頼らない人で、特に私が素晴らしいと思うのは、映画の白眉とも言えるテンションの漲ったクライマックスが、いつも役者の芝居だけで成り立っている事。 例えば『シックス・センス』で映画の秘密が明かされるシーン、『アンブレイカブル』で少年が父親に銃を向けるシーン、『サイン』の食卓のシーンや少年の蘇生のくだり、『ヴィレッジ』で長老達がぶつかり合うシーン。シャマラン作品の登場人物が、一見静かな表情の奥に秘めている感情は、相当に深く、激しいものである。しかし、悲劇性が濃いように見えて、彼の作品のラストは、常に明るい希望に向かう。 ハリウッドでは、自ら執筆したオリジナル脚本で映画を撮り続けている人は少ないし、過去にどの監督も撮った事がないような斬新なショットの数々について誰一人言及しない、評価しないという今日の状況は、一映画ファンとして看過できないものだ(私の知る限り、シャマラン作品に対する明確な賞賛の意を最初から表明している人は、作家のよしもとばななだけのようである)。 個人的には、『ヴィジット』のヒットで再び注目されはじめて以降のシャマラン作品には、あまり親近感が湧かない。スタッフも一新しているし、初期作品に共通する特徴があまり当てはまらなくなってきた事もある。それとは逆に、世間のシャマランに対する評価が少しずつ改善してきているのは、私にとっては少々不思議な事だ。 ちなみにシャマラン作品の上映時間、『シックス・センス』から『ヴィレッジ』まで全て107分となっているが、これは全くの偶然との事。それと、第1作の『Playing With Anger』は日本未公開でディスク化もされていないが、アメリカ出身の交換留学生がインドに里帰りし、故郷で異邦人となるという物語だそう。 |