シャマランが初めてフィラデルフィア以外でロケーション撮影をした、ユニークなタイム・スリラー。原作物である点でも『エアベンダー』と並んで稀少な作品ですが、そのためか、舞台のビーチに到着するまでのリゾート感は、あまりシャマラン作品らしくない雰囲気です。 ビーチの場面以降も、広々としたオープン・エアのシチュエーションは不慣れだったのか、最初はやや緊張度が不足しがちですが、ハプニングの同時進行でエントロピーが増大しはじめると、正に彼の本領発揮。壮大な浜辺の風景がまるで密室のように息苦しく感じられてくる辺り、シャマラン節が見事に功を奏しています。 彼は、黒澤明の映画にヒントを得て、広大な野外の風景にキャメラワークによる構造と様式を導入したと語っていますが、その手法は、ビーチを舞台のように見立てるのにひと役買っています。そのため、奇妙なカットや移動撮影、何でこんな場面が、このカットはどういう意味?という映像が頻出しますが、そこはシャマラン、伏線はきっちり回収していきます。ただ、どんでん返しというのではなく、真相は早い段階で分かってきますので、過度な期待は禁物。 私が素晴らしいと思うのは主人公家族、特に父親ガイがたどり着く精神的な境地です。このストーリーで大切なことは、この場所で起こっている現象は、スピードこそ極端であれ、基本的には誰の人生にも起こるもので、結局は受け取り方次第なのだという事。不幸な終わりを迎える登場人物が多い中、ガイが夫婦の不和を乗り越えた上である種の満足と達観に至るこの物語は、人生の滋味をしみじみと感じさせて秀逸です。私は泣いてしまいました。 主題歌を提供している監督の娘サレカは、「これは誇張された現実であって、SFではない」と指摘していますが、私も同感です。これは正に人生のメタファー。メイキング・ドキュメンタリーを観ていると、シャマランもこの作品(に限らず過去の作品も)のテーマを、自分の人生や家族との関係性の中で捉えている事がよく分かります。 彼は、自身が言うように、人間の闇や負の面からも目を背けないので、恐ろしい場面もたくさんある。それは正に東洋的な考え方だし、シャマラン作品の本質が誤解されやすい理由がそこにもあります。彼は観念的な、とりわけ東洋的な思想を仕掛けに用いる事も多いし、多面的な感受性の在り方を前提に、五感と想像力が必要な描写をよく盛り込むので、それもロジック一辺倒の人々(映画マニアや批評家には結構多い)に理解されない一因と言えるでしょう。 本作においても、シャマランは非常に大事なメッセージを発していると思うのですが、彼はあまりインタビューでそういう側面に言及しないし、それは仕掛けとその整合性(辻褄が合うか合わないか)しか見ない頭でっかちの理論武装派には、なかなか理解されないだろうと思います。もっと言えば、ダイアローグや人物描写にしばしば示される彼の心優しさ、繊細なリリシズムやヒューマンな暖かみも、ほとんど伝わっていないと思います。 もちろん、例えば前半での伏線の散りばめ方や、各シーンの振付とデザイン、緻密を極めた音の演出、終盤近くの海面の空撮ショットに見られるおびただしい魚影など、論理的な側面に関してもシャマランは周到な配慮を見せますが、それが逆に、理屈組への挑戦状になってしまう現状は残念という他ありません。試みに、本作とジャウム・コレット=セラ監督の『ロスト・バケーション』を比較してみれば、シャマランが一体何を、どこまで見つめているかは歴然でしょう。 |