閉鎖的な空間を基調にしてきたシャマラン作品が、ここでオープンエアの野外空間を舞台に物語を展開。しかし物事をじっくりと丹念に描く彼の手法に変わりはなく、ヒッチコックの『鳥』を踏襲したようなプロットも、いかにもシャマランらしいです。徹底して“恐怖”を追求した、この恐ろしい映画は、その意味ではやや緊張感を欠いた前作『レディ・イン・ザ・ウォーター』よりも、私はずっと素直に受入れる事が出来ました。 彼の作品では初のR指定という事ですが、普通に生活していた人々が様々な方法で自殺をし始める場面は、どれもすこぶるショッキングで、淡々としてドキュメンタリックなタッチには、一種の凄みすら漂います。マーク・ウォールバーグの言にはシャマラン流創作術の一端が垣間見えます。「僕は大勢の監督と組んでいるが、誰もナイトのような撮り方をする人はいない。彼は何でもない事のように撮るけれど、実は事前に入念な準備を整えているんだ」 それにしても、これらの場面の独創的な事といったら! 一つとして同じようなアイデアを使わない場面構成も凄いですが、その斬新なアイデアを映像化してゆく手腕も並大抵ではありません。ある場面は地面スレスレのロー・アングルで長回しのワンカット、ある場面は客観的なロング・ショット、ある場面は望遠レンズを使用した主観ショット、ある場面は携帯電話の動画、またある場面では遠く銃声だけが聴こえてくる状況で惨事を暗示。 路上に落ちたピストルが次々と犠牲者の手に渡ってゆく演出にしても、車が木に激突する描写にしても、異変の伝播を伝える駅の場面にしても、同じ脚本を渡されたとして、他にこんな風に撮る事が出来る監督はいません。それら凄惨な自殺シーンは、それぞれ独特のルックを保ちながら、それでもどこか美しい詩情を漂わせ、観る者を不穏な世界へといざないます。 もう一つ素晴らしいのは、主人公夫婦のキャラクター描写。ウォールバーグ演じる夫の、妻や子供を思いやるさりげない優しさには、劇中何度も心を打たれますし、この夫にしてこの妻ありという、不思議な愛嬌があってマイペースな奥さん。職場の男性とデートしてしまった事をずっと気に病み、別に浮気したわけでもないのにやたらビクついたり落ち込んだりしている彼女は、何とも健気です。アメリカ映画定番のタフで押しの強い女性像とは全く違う、正にシャマランならではの人物造形。 異変の原因は直接明かされませんが、シャマランは環境破壊に対する自然淘汰として植物の毒素排出が始まったという筋書きを仄めかしていて、朝日新聞のインタビューでは、ダーウィンの進化論に言及した上で、「傲慢な人間に対する警告」が込められていると認めています。しかしこれは、人間にとっては見えざる世界からの攻撃と見えても、あくまで世界が均衡を保とうとするために起った現象に過ぎないという、シャマラン作品に通底する東洋的な世界観でもあります。 |