「全く新しいシャマランと出会える」などと鳴り物入りで宣伝された作品ですが、観客にはあまり好かれなかったようです。フィラデルフィア・ロケを行なわず、集合住宅のセットからキャメラが出ない事や、おとぎ話をテーマにしている事、ディズニーからワーナーへ移籍した事と関係あるのか、確かにどことなく生気を欠き、研ぎすまされた感覚や緊張感に乏しい印象は否めません。いつもは周到と感じられる伏線の数々も、どこか無理の多いような、くどいような感じがして残念。 技術的な面から見れば、今回はカットバックを多用した代わりに長回しのショットが少なく、シャマラン作品にしては少し動的で、テンポが速い印象を受けます。又、ロックを使ったパーティの場面があったり、クリーチャーがたくさん出て来たり、コマ落としや特殊処理など流行を取り入れた映像処理など、平均的なアメリカ映画のルックに近づいているせいで、シャマラン特有の個性が希薄になっているとも指摘できるでしょう。 私がこの映画に同調できる部分があるとすれば、人にはみな与えられた“役割”があり、一人の存在は必ず他の人達に影響を及ぼしているという主題です。主人公が心の奥に秘めた悲しみと真正面から向き合う事で、自分と他人の双方を癒し、再生してゆくという物語も、シャマラン作品に底流するテーマ。無力感に打ちひしがれて日々を過ごしてきたクリーヴランドが、「女王になんかなりたくない」と怯えるストーリーを「大丈夫。君は人を導く力を持っている」と元気づける場面は感動的です。 残念なのは、評論家ファーバーがスクラントに襲われるシーン。映画評論家に対するシャマランの復讐という意味合いも含んだ、もしかするとブラックユーモアなのかもしれませんが、現実世界なら当然事件となってしまうわけで、物語の信憑性がここで格段に落ちます。おとぎ話と現実のバランスが崩壊してしまう。この作品では、登場人物は誰も死んではいけなかったと思います。シャマランはそういう事に敏感な映画作家だっただけに、ここは返す返すも残念。 壁画風の絵で物語の背景を説明するオープニングもムード満点ですが、無用なこけ脅しや虚飾を加えず、ストレートに物語を完結させたラストシーンは、センスの良い絵本の最後のページを読み終わったみたいな、何とも言えない静かな余韻を残して素敵。うるさ方の映画ファンにはこれではシンプルすぎて論外なのでしょうが、シャマランという人の優しさ、気宇の大きさが、ここによく出ていると思います。 |