シャマラン作品初の原作物、初の本格ファンタジー、現代アメリカ以外の舞台設定も初という事で、実は私も作品を観るまで、きっと失敗しているか、よしんば上手くいってもシャマランらしい映画ではないだろうと予測していたのですが、全くの杞憂でした。ただ映画会社にとっては、知名度の高い俳優が出ていない上、シャマラン作品らしいサスペンスでもないとあって、宣伝しにくかっただろうと予想されます。チラシや広告にも、監督や役者の名前はほとんど出ませんでした。 私はファンタジー映画が苦手で、ナンセンス・コメディ風だったロブ・ライナー監督の『プリンセス・ブライド・ストーリー』を除けば、体質的にほとんど馴染めないのですが、本作は、固唾を飲んで画面に釘付けになっている内に、あっという間に終わってしまったほどのめり込めた作品です。 まず、物語の世界観。善と悪の二項対立が主軸となる西欧型の価値観と違い、世界には善も悪もあらゆる要素が等しく存在しており、その調和を保つ事こそが平和であるという東洋的な思想に基づいている点、既存のファンタジーと全く異なります。これは、『アンブレイカブル』にも底流していたテーマで、『ハプニング』で人類に襲いかかった脅威にも、その原因として世界の調和が仄めかされていた以上、本作はシャマラン的な映画という他ありません。 又、水の国の王女が示す自己犠牲、それが自分の運命であり、そのためにこそ自分は生まれてきたのだという死生観も、過去のシャマラン作品を彷彿させます。単純な善悪の概念に当てはめられない、内面的に複雑なキャラクターが多く登場するのも特徴。シャマランは、「哀しみがパワーになり、強さになる。全ての言葉が家族に繋がり、家族に関する2つの考え方を描いている。家族を軽んじて他を優先するか、家族こそ力だと伝えるか」と語っています。 この主題を描くにあたり、シャマランは世界中の様々な民族を登場させ、アジアに偏るわけでも無国籍風でもない、強いていえば多国籍、多血質的な、実にマジカルな世界を作り上げています。美術デザインもユニークですが、シャマランが役者の“顔”で多くの場面を造形している点は要注目。無名ながら個性溢れるキャスト達の顔と演技が各場面のトーンを決定づけていて、一瞬しか映らない兵士にも目を惹かれる美しさがあります。 シャマラン監督の演出には、テコンドーや太極拳、少林寺拳法など、東洋武術に対するこれみよがしな構えが全くありません。そういったアクションが画面に入ってきた時に、いかにも「やってます」という誇張がなく、常に自然体。それは彼が、I.L.Mによるヴィジュアル・エフェクツ(過去のシャマラン作品ではあまり使われなかった要素です)に対しても、ごく自然体で接しているのと同様です。 瞠目すべきは、アクション・シークエンス。常に短いカットの積み重ねでスピードと迫力を追求するハリウッドにあって、この、あくまでワンカットの長回しで現象を追いかけようという“意志”の強靭さはどうでしょう。例えば、捕われた主人公達をめぐって、火の国、水の国、土の国の民が入り乱れる前半の戦闘場面。ステディカム・キャメラで各グループに食らい付き、360度あらゆる方角にフォーカスしてゆくドキュメンタリックな手法。 複雑なアクションとCG合成を盛り込みながらも、現場の状況を正確な時間軸と位置関係に従って一気に見せようという斬新さ。このリズム、この臨場感は、ハリウッド製アクション映画ではまず見る事のないものです。アクション・チームも、「これまでで最高の仕事が出来た。こんな事が出来るとは思わなかった」と語っています。 後半にも、主人公が戦いながら前進してゆく様子を、延々と続く平行移動で横から捉え続ける場面がありますが、そこにも細かく演出されたアクションとVFXがふんだんに挿入されています。クローズアップしたい箇所ではズーム・イン、ズーム・アウトを挟み込み、意地でもカットを割らないその頑固さ。出来上がったシークエンスは、まさしく「観察の人」であるシャマラン以外の誰にも撮る事ができない仕上がりになっています。 原作は、アメリカの子供向けケーブルテレビで05年から08年まで放映された『アバター/伝説の少年アン』というアニメ・シリーズで、本作の公開時点では世界120カ国以上で放映。東洋的な世界観は原作にもあるそうで、少年がアバターに選ばれるシーンは、マーティン・スコセッシ監督の『クンドゥン』でダライ・ラマの後継ぎを試すシーンを彷彿させます。映画のラストは、三部作の続編に期待を持たせるよう構成されていますが、興行的に失敗したせいか1作でストップしてしまいました。 |