前作『オールド』に続き、再び原作物のサスペンス。終末物かつ聖書をモティーフにした物語で、小屋の炎上や犠牲のテーマなど、アンドレイ・タルコフスキー監督の『サクリファイス』を彷彿させる所もあれば、『ハプニング』をより発展させた雰囲気もある。個人的には、かなり問題の多い映画と感じた。 シャマラン作品らしく、終始緊張感があって身体を固くしながら観る事にはなる。展開が読めない訳ではなく、比較的想定内の着地。むやみに意外性を追求する作劇ではない。しかし直接的な描写こそ避けてはいるものの、展開はすこぶる苛烈で、精神面に衝撃を食らわずにはいられない。ユーモアもなく、ひたすら暗く重い映画である。 『ハプニング』と同様、世界各地で起こる厄災の映像は凄惨で、大津波はともかく、飛行機が次々に垂直落下してくる即物的な描写は、劇映画としてあまりにもショッキング。正に悪夢のようで、事故や災害の被災者ではない観客であっても、平静な心持ちでは観ていられないかもしれない(私も一度ソフトの再生を止めて休憩した)。 訪問者である4人の男女は、背景に示唆されている「ヨハネの黙示録」でいう4人の騎士。ノックも7回、それぞれに自作の武器を所持している。彼らは時間の経過と共に、自らに課せられた残酷なミッションを淡々と実行し、家族はどんどん問題の本質へと追い込まれてゆく。身の毛のよだつようなプロットである。 この家族が、ゲイの男性カップルにアジア人の養子というマイノリティ一家になっていて、実際にオープンリー・ゲイの俳優たちをキャスティングしている。これが、処女受胎した聖母マリアの家族構成を意識したものなのかどうか。一方の訪問者側も、人種構成に多様性がある。 事態が進行する合間に、男性カップルの回想シーンが挟み込まれる。描かれるのは、同性愛者を取り巻く厳しい状況。日本よりは理解があるとはいえ、アメリカにおいても彼らはやはり無理解や差別の視線にさらされる。その意味において、本作は普遍性よりも特定の状況、特定の人物像を描く映画で、シャマランらしい抽象化とは無縁である。 ただ、カップル2人の性格は対照的である。現実主義者で、話を聞く余地も無いアンドリューに対し、柔軟で物事を多角的に見るエリック。事態が明らかになるにつれ、アンドリューの強硬姿勢は矛盾をはらみ出し、主張にも無理が出てくる。実は幼いウェンが誰よりも冷静に、鋭い本能と洞察力で現実を正確に把握している。 原作はベストセラーだし、脚本もブラックリストに入るほど話題を呼んだものだが、シャマランはこれをリライトし、中盤以降の展開を変更する。偶発的な出来事が結果に介在する分、原作の方が一般的なシャマラン作品のイメージに近いが、彼自身が敢えて、より自然な展開に書き換えている事に意味がある。それは、人工的に操作された展開より、物語自体が求める流れと必然性を重視する姿勢だからだ。 とはいえその事とは別に、完成作は矛盾が多い。訪問者たちがなぜ決められた時間ごとに犠牲にならなければならないのか、その根拠は曖昧である。地球規模の不可解な災厄を、その後世界はどう解釈するのかも含め、重大な疑問は全て投げっぱなし。アンドリューがなぜか銃を車に保管しているなど、サスペンスを生むための無理な展開も随所にある。 何より居心地が悪いのは、本作全体が聖書から発想されていて、それを当然の事として映画内現実が進行してゆく点である。結局これは、数ある宗教の中からキリスト教の教義だけが現実化する世界の話なのだ。大手サイトのレビューで「日本人に押し付けるな!」と怒っている輩がいたが、言説こそお粗末なものの(別に日本人に向けて作られた映画ではない)、気持ちは理解できる。本作の違和感は、観客が全員キリスト教徒だと決めつけられたような違和感なのだ。 シャマラン自身は親がヒンドゥー教徒で、カトリック系の学校に10年通ったが、特定の信仰は持たないと言っている。「壮大な聖書物語を、現代を舞台に描きたいという衝動が強くあった」そうだが、過去作を観る限り、彼は本質的に東洋的価値観の人だ。『サイン』の主人公は聖職者ではあったが、作品自体のメッセージは「全ての出来事に意味がある」という、特定の宗教に捉われない普遍的なものだった。 それに彼はもっと、緻密に物事を組み立てる人である。本作の粗雑な設定は、ロジカルなストーリー設計を持ち味とするシャマランの性質と齟齬を来している。個人の選択と犠牲で終末を防げるというゲーム性もそうだ(ゆえに私は『サクリファイス』にも違和感がある)。このような事を強いる存在がもしあるとすれば、それは断じて神などではない。 『アンブレイカブル』や『エアベンダー』がフィクションなりに(少なくとも理屈の上では)しっくり来るのは、ベースに東洋的なパワーバランスの概念があるからだ。それは物理の法則と一致する。『ハプニング』の、「地球環境のバランスの崩れを自然界が元に戻そうとする力が人間にとって厄災になる」というロジックなら、まだ受け入れられる。 キリスト教の世界観は、科学や物理の全否定である。全ては神の意志であり、科学的に起こりえない事が起こってこそ「奇蹟」なのだから、リアルに描こうとすればするほど、当然映画は荒唐無稽になる。意外に思う人もいるかもしれないが、それはシャマラン作品の流儀に反する。彼の映画は、超自然的な存在や異星人を描いてさえ、物語はあくまで論理的に展開する。 ユーモアのセンスだけでなく、シャマランらしいしみじみとした感動を呼ぶ場面も、残念ながら本作には無い。とはいえエンディングは恐らく多くの観客にとって納得のゆくもので、車を発進させる場面のBGMをめぐるやりとりは、シャマラン流の心優しい人間観察と詩的な描写力が素晴らしい。 |