こういう作品ではよく、現実と非現実の境界が曖昧になり、体よくごまかされた感じで終わるケースも多いですが、本作は信憑性を失わない範囲でプロットが綿密に組み立てられていて、感心しました。ここでもフィンチャーは、凝りに凝った構成と編集、映像設計によって、私たちを囚われの身にしてしまう。彼は観客を切迫した状況の中に放り込み、ラストまで一時も解放してはくれませんが、そういう映画は、監督によほどパワフルな牽引力と才能がなければ、たちまち失敗してしまいます。 本作は、日常の中に滑り込んでくるシュールな非日常のバランスが絶妙なんです。突然主人公に喋りかけてくるTVの中のアナウンサー、なぜか開かなくなるブリーフケース、ホームビデオの映像でフラッシュバックする父親の自殺場面。そういった事象の一つ一つが、主人公と観客を、現実世界と紙一重の所に存在する、悪夢の様な裏の世界へと誘い込んでゆく。 主人公は、やはり現代人のメタファーだと感じられます。彼は物質社会の申し子で、どんなトラブルも金で解決出来ると思っている男。最初から彼に共感出来る人は、そう多くないかもしれません。しかし中盤、彼が衣服をはぎ取られ、無一文の状態でメキシコの墓地に打ち捨てられる場面は、おそろしく残酷で力強く、観る者の心を荒々しく掻き乱します。 このシーンにこれほど不安を掻き立てられるのは、私たちも又、主人公ニコラスと同じ社会に属しているからじゃないかと思います。金品やパスポートを剥奪されて異国に放置されたら、もう為す術もない人間。物に囚われた現代人。これはフィンチャーが、次作『ファイト・クラブ』で更に掘り下げているテーマでもありますね。 今回もまた聖書からの引用があり、「私は盲目であったが、今は見える」というヨハネ福音書の言葉が象徴的に引かれています。これはフィンチャー自身が脚本に付け加えたそうですが、映像的にも、何でもないような移動シーンで聖堂風の建物にキャメラの目が止まる事数回、これが先のテーマに対して、精神性の部分でパンチを与えている所はユニークです。 物質社会の中で宗教の価値観はどう捉えられるべきか、フィンチャーなりの視点と思われるものが、それとなく示唆されているような、そういうフリをしているだけのような。ネタ明かしになるので詳しい言及は避けますが、やや冗長なラスト・シーンにどことなく空虚なムードを漂わせた辺り、どうも本質が見え隠れしているようです。 |