デヴィッド・フィンチャー

David Fincher

* プロフィール

 1962年、米コロラド生まれ。高校時代から地方のテレビ局でニュース・ショーの仕事に携わり、17歳の時『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』に触発されて映画界を目指す。卒業後、ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』製作のために立ち上げた特撮工房、ILM(インダストリアル・ライト&マジック)に入社し、『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』のマット・ペインティングや『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』のゴー・モーション撮影等を担当。

 退社後の86年、24歳でプロパガンダ・フィルムズを共同設立。革新的なヴィジュアル・スタイルで業界に新たなスタンダードを確立し、4年間で50万ドルも稼ぐ売れっ子となる。ナイキ、シャネル、コカ・コーラ、リーバイス、バドワイザーなどのCMの他、マドンナの“Vogue”やエアロスミスの“Janie's Got a Gun”、ローリング・ストーンズの“Love is Strong”などは彼の代表作で、MTVアワード他各賞を総ナメにしている。

 92年、『エイリアン』シリーズ第3作の監督として僅か27歳の彼に白羽の矢が立つ。ハリウッドが予算5000万ドルの大作を20代の若者にまかせた前例はなく、大きな話題を呼んだが、95年作『セブン』ではその世紀末的映像が一躍注目を集め、映画界でも特異なポジションを占めるに至る。その後も、アメリカ社会の病巣に焦点を当てた独特のほの暗い作風で映画を撮り続ける。

* 監督作品リスト (作品名をクリックすると詳しい情報がご覧になれます。)

 1992年 『エイリアン3

 1995年 『セブン

 1997年 『ゲーム

 1999年 『ファイト・クラブ

 2002年 『パニック・ルーム

 2007年 『ゾディアック

 2008年 『ベンジャミン・バトン/数奇な人生

 2010年 『ソーシャル・ネットワーク 

 2011年 『ドラゴン・タトゥーの女  

 2013年 『ハウス・オブ・カード/野望の階段(シーズン1)〜第1章、第2章(TV)

 2014年 『ゴーン・ガール』  

 2017年 『マインドハンター』(シーズン1)〜 (Netflix)

 2019年 『マインドハンター』(シーズン2) (Netflix)

 2020年 『Mank/マンク』 (Netflix)

 2022年 『ラブ、デス&ロボット』(シリーズ3)〜 (アニメーション)(Netflix)

 2023年 『ザ・キラ−

* スタッフ/キャスト

 デヴィッド・フィンチャーの映画を支えるスタッフ、キャスト達   

* 概観

 CM/MTV業界に革命を起こした事や、若干27歳でハリウッド超大作の監督に抜擢された事など、フィンチャーには何かと人目を引くコピーが付いて回りますが、本人は至ってもの静かな、落ちついた感じの人で、作品も内向的というのか、派手なアクションよりもミニマルな世界を描くタイプの監督に見えます。

 ハリウッド随一の革新的な映画作家と目されているようですが、決して鬼面人を驚かすような派手な挙には出ず、むしろ、題材を選び抜き、徹底した完璧主義で作品を作り上げる点において、目下の所、彼はスタンリー・キューブリックの衣鉢を継ぐ数少ない映画作家の一人ではないかと思います。ただ、彼の場合はキューブリックと違って、作品の題材が一貫した統一性を帯びていて、その意味では、彼の守備範囲は決して広くはありません。

 映画を構成するあらゆるカットが完璧に作り込まれているという点で、フィンチャーは、彼自身が敬愛するリドリー・スコットとの共通点を多く持っていますが、そのスコットにさえ、ここまで徹底したこだわりと題材の一貫性はないのではないでしょうか。フィンチャーの映画では、どのカットにも驚くべき量のメッセージと意味が込められていて、時に戸惑いすら覚えます。ワン・カットの情報量があまりに多いので消化しきれず、私などはフィンチャーの作品というと、少なくとも三回はみないと、一応の理解に達した気がしません。

 『セブン』のイメージが強いので、荒廃した現代社会や絶望ばかり描いているように思われがちですが、私はそうではないと思います。『セブン』の内容は確かに厭世的ですが、彼はただ、自分達がいま置かれている状況や、社会に対して漠然と抱いている不安感を、一つのメタファーとして具現化しているのではないでしょうか。

 私は彼の作品を、社会批判を叫んだり、現代文明に警鐘を鳴らすタイプの映画とは別物だと考えています。彼の映画には、外野から物を言う人間に特有の説教臭さや、教訓じみたメッセージみたいなものはありません。彼は問題のまっただ中にいて、自らもその一員である社会に対し「本当にうまくいっているのだろうか?」と問い直します。

 『ファイト・クラブ』は過激な映画に見えますが、これは、ジェネレーションXと呼ばれてきた世代による世界の見方、感じ方が、ある方向に暴走していったらどうなるかという“もしもの世界”を描いた作品で、根底にはやはり、恵まれた人生を送っているかに見える主人公にとっての本当の幸福、充足感とは何なのかを問い直す視点が存在します。この“問い直す”という特質は、アメリカ映画、わけてもハリウッド映画においては稀有なものだと言えるでしょう。。

 彼の作品は、誰からも愛される類いのものではありませんし、私だって個人的な好みのレヴェルでもフィンチャー作品の大ファンかというと、かなり微妙な所です。それでも彼の新作が公開されると、非常に気になる。一つは、彼の作品にある、なにか物を言いたげな所に惹かれるというのでしょうか。これほど真剣に、細心の注意を払って喋っている人の話には、とにかく耳を傾けてみるものだ、という感覚ですね。

 それに映画というものは、監督のワンマンな表現ではなく、様々な分野の芸術家達による、総合的な作品であるわけです。それはストーリーが気に入ったかどうかというのとはまた別の次元で、キャメラ・ワークや美術デザインや脚本や音楽や俳優達の芝居合戦、そういう、個性的な才能を持つアーティスト達のコラボレーションとしての楽しみ方も、映画の醍醐味なのです。

 彼はジョージ・ルーカス率いるILM出身、つまり特撮マンだった人ですが、彼の作品には、技術畑出身の人が映画監督をした時にみられる、どこか視点が偏っていて何かが足りないという感じは全くありません。彼は、技術的な領域は勿論、映画の情緒的・文化的な側面に至まで、あらゆる部分に目を光らせ、コントロールを行き届かせる。

 俳優達からの信望も、大変に厚いものがあります。ヘレナ・ボナム・カーターは言います「彼の手抜きは普通の人の完璧に相当するわ。でも予想していたのとは全く違う人だった。自分の力を証明しようと常に張り切っている訳でもない。そんな事に構うには、余りにも大人過ぎるのよ」。マイケル・ダグラスも「どんな微妙な違いも見逃さない目と聞き逃さない耳を持った監督」と讃えています。

 ある時期までのフィンチャー作品のソフトは、メイキング映像をあまり熱心に収録していない印象でしたが、方針が変わったのか『ベンジャミン・バトン』以降はロケ・ハンからポスト・プロダクションに至るまで大量の舞台裏映像を収録し、それによって、フィンチャーの仕事ぶりが明らかになってきました。驚くのは、映画を構成する要素に関しては何一つ見逃さない、人並み外れた注意力。

 現場での彼は、画面の一部の明るさや色がどうだとか、右から何番目のテーブルが少し傾いているとか、奥のベンチを右に15センチ動かしてくれとか、信じられないほど細かい事ばかり矢継ぎ早に指摘しており、こんな監督はちょっと、他にいないんじゃないかと思います。女優ジュリア・オーモンドが指摘しているように、彼の場合は映像や技術一辺倒ではなく、役者の芝居に関しても指示がすこぶる細かいのが特徴で、特に、同じセリフでも抑揚やアクセントの置き方で意味合いが変わる点に、徹底的にこだわっているように見受けられます。

 彼が異常なほどのテイク数を重ねる監督である事は有名ですね。マーク・ラファロは『ゾディアック』で74個のバーガーをかじり、クリステン・スチュワートは『パニック・ルーム』で45回も顔に水をかけられ、『ソーシャル・ネットワーク』の冒頭の会話に至っては99回のテイクが撮られました。

 しかし、役者にはこれが好評で、ジェシー・アイゼンバーグは「キャラクターを幾通りもの方法で演じるチャンス。90回目のテイクにも意味がある」とこれを擁護。特にデジタル撮影になってからは、リハーサルの延長のように自然に芝居ができる、と好評です。フィンチャーも完璧さの追求だけではなく、「役者が疲れてきてオーバーな演技をしなくなる」メリットも指摘しています。

 優れた映画では全ての部門が作品の為に機能していて、それが観客を作品世界に没頭させる。彼がそれに気付いたのはわずか八歳、『明日に向かって撃て!』を観た時だといいます。この映画をもう二百回も観たという彼曰く「自分が作り上げた世界に観客が浸って欲しいと思うんだ。僕は映画を映像や音楽は勿論、微かな物音、人物の服装や仕草、外の天気、全てを使って作っている。それら全てが物語を伝えるんだ。だから細部にも異常にこだわる。そうじゃないと世界は作れないからね」。それでもフィンチャーによれば、「撮影の98%は妥協」だそうですが。

 

Home  Top