本作は、『ゲーム』の骨子に少し違った角度から光を当てた作品に思えます。非日常に囚われて身を持ち崩してゆくエリートの姿を描いている所は共通。「違った角度から」というのは、硬派一辺倒のフィンチャーには珍しく、ユーモアのテイストが盛り込まれているからで、特に前半部には、どこか世の中を斜めから見ている様な、ブラック・コメディ風の皮肉っぽい調子があります。監督は本作を「去勢と狂気に関する考察」と呼び、ブラッド・ピット曰く「我々の文化への愚弄と、虫酸が走る程嫌いなのに無理矢理押し付けられた物への応答だ」 エドワード・ノートンも雄弁です「一言で言えばメタファーだ。誰も見た事のない映画だよ。ここには世代のエネルギー、抗議のエネルギーがある。僕達の世代を象徴する物は、ほとんどがベビーブームの世代によって既に行われてきた。だから彼等は僕達に目もくれず、尻込みとか消極主義と片付けてしまう。僕達は怠けているのではなく、情報と技術の洪水の中でシニカルに構えてしまい、絶望感や麻痺を感じてるんだ。脚本を読んだ友人達は口を揃えて“そう!正にこれこそ俺達だよ!”と共感してくれた」 主人公は若きエリート会社員で、生活の点では満たされている男です。通販で北欧製の家具を買い揃え、一人暮らしのマンションにお気に入りの空間、自分の城を築きあげる。一方で彼は、その生活に空虚さも感じていて、毎晩不眠症に悩まされている。部屋が全焼したのをきっかけに、“物”に従属する生活に疑問を持ち始める主人公。 彼らよりもっと上の世代なら、ここで大自然の中での生活やヒッピー文化に向かったりした訳ですが、ノートン達の世代(そしてもう少し若い私の世代も)では、それが時として破壊衝動とリンクする。ノートン言う所の「戦闘態勢に入ったジェネレーションX」です。勿論この映画は、破壊行為による革命を勧めている訳ではありませんが、それがある種の方法論、あるいは可能性の一つとして提示されていて、メタファーとはいえ、すこぶるショッキングです。 この作品が、暴力的だ、過激だと批判される事は充分考えられますが、私は無意味だと思います。大切なのは作品が、ある世代や、ある文化に属する人々の物の感じ方(インプット)と、その現れ方(アウトプット)の可能性を独自の視点から描いていて、それが人間というものの本質を生き生きと表現している事です。「暴力を描いた映画=暴力を奨励する映画」という考えはあまりに短絡的ですし、そういう態度は芸術の精神にも著しく反します(筒井康隆がなぜ断筆したのかを思い出してみるといいですね)。 ピット曰く「作品が公開されれば道徳云々という論争に巻き込まれるだろう。さぞかしコテンパンに叩かれるだろうね。でも我々はもうあどけない時代に生きている訳じゃない。教師は必ずしも学問を教える訳ではなく、弁護士が皆正義を守っているとは限らない事を僕達は知っている」。ノートンもこれに近い見解です「45歳以上の人にこの作品が理解できないとまでは言わないけど、多くの人が“はあ?”という反応を示しても不思議じゃない」 フィンチャーの作品は、確かに現代社会の病巣を描いているし、現代にしか生まれえない作品でもありますが、それをただ批判するだけの作品とは何かが決定的に違います。凄絶なラスト・シーンは、多くの観客の目に絶望的と映るかもしれません。しかし現代(あるいは私達の世代)において、これはある種のハッピーエンドかもしれないのです。画面に希望の光が走るのを見逃してはなりません。ここにははっきりと、“再生”の予感があります。 |