ファイト・クラブ

Fight Club 

1999年、アメリカ (139分)

 監督:デヴィッド・フィンチャー

 製作総指揮: アーノン・ミルチャン

 製作 : アート・リンソン、シーアン・チャフィン、ロス・グレイソン・ベル

 共同製作:ジョン・S・ドーシー

 脚本:ジム・ウールス

 (原作:チャック・ポーラニック)

 撮影監督 : ジェフ・クローネンウェス

 プロダクション・デザイナー : アレックス・マクドウェル

 衣装デザイナー:マイケル・カプラン

 編集 : ジェームズ・ヘイグッド

 音楽 : ザ・ダスト・ブラザーズ

 キャメラ・オペレーター:コンラッド・W・ホール

 ガファー:クラウディオ・ミランダ

 編集コンサルタント:アンガス・ウォール

 特殊メイクアップ効果監修:ロブ・ボッティン

 出演:エドワード・ノートン  ブラッド・ピット

    ヘレナ・ボナム・カーター  ジャレッド・レト

    ザック・グレニア

* ストーリー

 名前は無く、ただナレーターとして登場する主人公。若きエグゼクティヴとして裕福な生活をしている彼は、不眠症に悩まされている。「本当の痛みを知るため」と医者に薦められ、重病患者達のセラピーに参加した彼は驚くほどよく眠れるようになるが、同じように各セラピーを渡り歩くマーラという女性の存在に気付く。

 ある日、彼が家に戻ると、ガス爆発で自宅が全焼していた。行くあてのない彼は、前に飛行機で知り会ったタイラーという男に会いにゆく。しかしタイラーは、しばらく滞在する代わり、自分を力一杯殴れと言う。最初は恐る恐る殴りはじめたナレーターだったが、やがて激しい殴り合いに発展する。これがいつの間にか多くの賛同者を得て、夜な夜な地下室で殴り合う秘密クラブが出来上がるが、組織の活動はナレーターの手を離れてどんどん過激さを増してゆく。

* コメント  

 本作は、『ゲーム』の骨子に少し違った角度から光を当てた作品に思えます。非日常に囚われて身を持ち崩してゆくエリートの姿を描いている所は共通。「違った角度から」というのは、硬派一辺倒のフィンチャーには珍しく、ユーモアのテイストが盛り込まれているからで、特に前半部には、どこか世の中を斜めから見ている様な、ブラック・コメディ風の皮肉っぽい調子があります。監督は本作を「去勢と狂気に関する考察」と呼び、ブラッド・ピット曰く「我々の文化への愚弄と、虫酸が走る程嫌いなのに無理矢理押し付けられた物への応答だ」

 エドワード・ノートンも雄弁です「一言で言えばメタファーだ。誰も見た事のない映画だよ。ここには世代のエネルギー、抗議のエネルギーがある。僕達の世代を象徴する物は、ほとんどがベビーブームの世代によって既に行われてきた。だから彼等は僕達に目もくれず、尻込みとか消極主義と片付けてしまう。僕達は怠けているのではなく、情報と技術の洪水の中でシニカルに構えてしまい、絶望感や麻痺を感じてるんだ。脚本を読んだ友人達は口を揃えて“そう!正にこれこそ俺達だよ!”と共感してくれた」

 主人公は若きエリート会社員で、生活の点では満たされている男です。通販で北欧製の家具を買い揃え、一人暮らしのマンションにお気に入りの空間、自分の城を築きあげる。一方で彼は、その生活に空虚さも感じていて、毎晩不眠症に悩まされている。部屋が全焼したのをきっかけに、“物”に従属する生活に疑問を持ち始める主人公。

 彼らよりもっと上の世代なら、ここで大自然の中での生活やヒッピー文化に向かったりした訳ですが、ノートン達の世代(そしてもう少し若い私の世代も)では、それが時として破壊衝動とリンクする。ノートン言う所の「戦闘態勢に入ったジェネレーションX」です。勿論この映画は、破壊行為による革命を勧めている訳ではありませんが、それがある種の方法論、あるいは可能性の一つとして提示されていて、メタファーとはいえ、すこぶるショッキングです。

 この作品が、暴力的だ、過激だと批判される事は充分考えられますが、私は無意味だと思います。大切なのは作品が、ある世代や、ある文化に属する人々の物の感じ方(インプット)と、その現れ方(アウトプット)の可能性を独自の視点から描いていて、それが人間というものの本質を生き生きと表現している事です。「暴力を描いた映画=暴力を奨励する映画」という考えはあまりに短絡的ですし、そういう態度は芸術の精神にも著しく反します(筒井康隆がなぜ断筆したのかを思い出してみるといいですね)。

 ピット曰く「作品が公開されれば道徳云々という論争に巻き込まれるだろう。さぞかしコテンパンに叩かれるだろうね。でも我々はもうあどけない時代に生きている訳じゃない。教師は必ずしも学問を教える訳ではなく、弁護士が皆正義を守っているとは限らない事を僕達は知っている」。ノートンもこれに近い見解です「45歳以上の人にこの作品が理解できないとまでは言わないけど、多くの人が“はあ?”という反応を示しても不思議じゃない」

 フィンチャーの作品は、確かに現代社会の病巣を描いているし、現代にしか生まれえない作品でもありますが、それをただ批判するだけの作品とは何かが決定的に違います。凄絶なラスト・シーンは、多くの観客の目に絶望的と映るかもしれません。しかし現代(あるいは私達の世代)において、これはある種のハッピーエンドかもしれないのです。画面に希望の光が走るのを見逃してはなりません。ここにははっきりと、“再生”の予感があります。

* スタッフ

 本作でも、オフィスを飛び出したキャメラがビルの壁面を這い下りるというようなトリッキーな映像があちこちに見られますが、撮影監督に起用されたのは、ほとんど無名だったジェフ・クローネンウェス。『エイリアン3』を途中降板したジョーダン・クローネンウェスの息子ですが、エッジの効いた映像はなかなか印象的。後のフィンチャー作品も多数担当しています。

 プロダクション・デザインは、『ラスベガスをやっつけろ』『マイノリティ・レポート』など荒廃した都会のヴィジョンに才を発揮するアレックス・マクドウェルが担当しています。それと音楽ですが、今回はフィンチャーには珍しくオーケストラを使わず、DJ/プロデューサーの2人組、ザ・ダスト・ブラザーズを迎えています。

* キャスト

 ブラッド・ピットは既に『セブン』でフィンチャー作品に参加した経緯がありますが、主人公のエドワード・ノートンはいかにも実力派の彼らしく、複雑な役柄を説得力豊かに演じています。彼の演技がなければ、本作はもっと近寄りがたい映画になっていたかもしれません。

 ヘレナ・ボナム・カーターは、英国の時代物における清楚なレディ役のイメージが強かった人ですが、本作辺りからアメリカで現代ドラマにも登場しはじめ、後の夫ティム・バートンやウディ・アレンの映画などでも活躍する様になりました。ここでは、従来のイメージを覆す強烈なキャラクターを演じましたが、後半部で見せるナイーヴな感情表現はさすが。

 金髪のエンジェル・を演じるのは、後になどでブレイクしたジャレッド・レト。彼は『パニック・ルーム』にも出演し、ドレッド・ヘアの粗野なキャラクターで全く印象の異なる役柄を演じ分けています。地域マネージャーの役で出ているザック・グレニアは、『ゾディアック』にも出演。

* アカデミー賞

 ◎ノミネート/音響効果編集賞

 

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