ギリアン・フリンの小説を、原作者自らの脚本で映画化。衝撃的なサイコロジカル・スリラーという宣伝のされ方でしたが、果たして実際の作品はどうでしょうか? 少なくとも作り手はそういう撮り方をしていないような。私も既婚者ですので、やはり怖い映画だと思いました。殺人鬼や怪物が怖い(殺人場面もありますが)のではなく、いわゆる“人の心が怖い”というやつです。それも異常心理ではなく、普通の生活と隣り合わせの所。連れ合いが嫌になったというのであれば、普通なら離婚すれば済む話を、わざわざ周到な計画を練ってまで、相手を徹底的に痛めつけたいという、その気持ちが怖いです。 しかもその「怖い」嫁が、入念な復讐計画のTo Do リストとして、壁掛けカレンダーに付箋を貼っている。行動自体は新婚夫婦の日常みたいで一見キュートですが、その内容たるや・・・。フィンチャーお得意のブラック・ユーモアともとれる、このギャップがまた怖いです。一方で、夫の側は相当深刻な状況下にも関わらず、どこか飄々と生活を続けているようにも見え、それがどこかユーモラスでもある。 これら全ては、フィンチャーの専売特許でもある、ちり一つないような潔癖性的で透明度の高い映像と、特有のほの暗く陰影に富んだ色彩設計で、淡々と描かれてゆきます。この、フィンチャー一流の極度にクリアで精細な映像センスは、一作ごとにその度合いを増しているようにも見えるのですが、それと同時に、作品全体を貫く緊張感も、『セブン』の頃とは比較にならないくらい、強度を上げてきている。異常に速く消え去ってゆく、まるで読む事ができないオープニング・クレジットからして、早くも観客の心理をコントロール下に置かんとする勢いです。 本編に入っても、物語がどこへ向かおうとしているのか、一体どういう気持ちで観ればいいのか、何もかもが宙ぶらりんのまま据え置かれ、ラストまで全く予断を許さない。そこへ、ラスト・シーンです。エイミーが暴走したサイコ女なのか、ニックがダメ男の条件を満載したモラハラ夫なのか、どちらとも取れるような微妙な舵取りをしつつ、最後は「それが夫婦というものよ」と寓話的に一般化。それまでの展開と考え合わせると、ある意味では最も恐ろしい着地点を示してみせるわけです。ある時点ではほぼ、エイミーの異常心理を描いたサイコ・サスペンスのように見えるのに、いざ決着してみると、単にニックが自己中心的で、大人になりきれない甘えん坊だっただけではと思えてくる。 これは、いかにも『セブン』の監督らしい、安楽な解決やハリウッド的カタルシスを拒否した、絶望感漂うエンディングにも見えるけれど、観ようによっては、どこにでもいる夫婦の関係性を、少しばかり誇張しただけのブラック・コメディとも言える感じなのです。主演のパイクやアフレックは、この夫婦が当初いかに楽しい時間を過ごしてきたか、その描写が省略されている事を心配したと言っていますが、そこがもっと深く描かれていれば、作品の印象は少し違っていたかもしれません。ただ、そのせいで物事がより曖昧に、複雑になっている訳で、そこはフィンチャーの事ですから、確信犯的省略である可能性も否定できません。 彼ら夫婦が本当はどういう人間なのかは、周辺人物のキャラクターや描き方からも全く規定されておらず、むしろ彼ら、つまりニックの妹やエイミーの両親、刑事や弁護士、隣人といった人々は、観客の思惑をかく乱さし、解釈をミスリードさせるために存在しているかにも感じられます。そういう意味では、過去のハリウッド映画のイディオムや見せ方とは根本的に異なる、新しいタイプの作劇術と言えるかもしれません。でも、確かにそう言えば、『ファイト・クラブ』なんかもそういう映画でしたね。 瞠目すべきは、女優ロザムンド・パイクの表現力。演技力もさる事ながら、スクリーンの中での居方、存在のしかたが、途方もなくすごい。これは、普通の人々もなべて俳優である、常に本当の自分以外の誰かを演じているものだという、映画のテーマと密接に関わっている表現でもありますが、彼女は、清楚な美人にも見える一方、ノーメイクでポカンと口を開けていたりすると、(失礼ながら)フランシス・マクドーマンドを彷彿させる、やつれた(ともするとイカれた)中年女にも見える。その二面性を帯びたルックスの落差がまた、観る者を震撼させるのです。 |