実在の人物、しかも時の人を題材に取り上げた、実にタイムリーな映画。本作で描かれている人物、マーク・ザッカーバーグはSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)サイト、フェイスブックの創業者でCEO 。映画が製作された2010年は、彼が若干25歳にして米フォーブス誌の「世界で最も若い10人の億万長者」第1位にランクインした他、同年タイム誌のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選出、正に時代の波に乗った映画となりました。 まったく、フィンチャーという人は、題材の選び方が読めないというか、他の映画監督がまず取り上げないような、ジャンル分け不可能な作品ばかり撮っている、実に不思議なフィルム・メイカーですね。それにしても、凄い映画です。驚くのは2時間を一気に見せてしまう、その集中力とテンションの高さ。実在の人物ばかり登場する映画ですが、ドキュメンタリックなタッチではなく、フィンチャーはやはり、自分の映画を作っているのだと思います。 映画は、ザッカーバーグがどういうビジネスを立ち上げたかという事よりも、彼がどういう経緯でサイトを発展させ、他人を巻き込み、裏切り、どういう立場に立たされたかを描いています。深く沈んだシックな映像の色調は一目でそれと分かるフィンチャー流ですが、過去の作品のように、ディティールを偏執的に作り込んでゆく傾向は後退。早口のセリフが飛び交う会話劇で、編集のリズムも速く、アップ・テンポの明るい音楽が流れるこの映画は、今までのフィンチャーの映画とは随分と異なって見えるかもしれません。 過去のフィンチャー作品にはあまり見られなかった、ユーモアの要素も随所にあり。ウィンクルボス兄弟一派が身にまとう、得も言われぬ間抜けな雰囲気やドタバタ調の狼狽ぶり、「後の祭り」感が濃厚に漂う訴訟劇、さらにショーン・パーカーの突き抜けたマイペースぶりは、フィンチャー作品の新たな一面となりうる“笑えるキャラクター”として、その誕生を言祝ぎたい所。 そして映画は、成功者の孤独というよりも、成功する/しない以前にマーク・ザッカーバーグ自身につきまとう、他人から愛されにくい性格ゆえの孤独を、肺腑をえぐるがごとく画面に突き付けて終わります。映画が始まった瞬間から、彼は大学生として映画の中にいて、それ以前の、例えば生い立ちとか、幼少の頃のエピソードなどが入っていないのは象徴的です。彼の近親者や両親なども登場しません。 フィンチャーは最初から彼を、社会的に浮いた存在として登場させています。そして、自身述べているように、この主人公に自らの姿をも重ねて見ています。今の時代、観客の皆さんも、主人公マークに自己を投影して観る人は多いかもしれませんね。 しかし、勿論フィンチャーはこれを、主人公一人の問題には帰してはいない。「アイデアを盗用された」と訴えるウィンクルボス一派に同情できる観客は少ないでしょう。彼らに本物の才覚がない事は明らかだし、大学内で彼らが属するファイナルクラブの享楽的な世界と、ビジネスに対するザッカーバーグ達の求道的な没入ぶり(まあ、そうならざるを得ないのですが)は、映画の最初に辛辣な皮肉を込めて対比させられています。 性格的に甘い所があり、始終虚栄心をちらつかせているサベリンも、早晩このビジネスが大きくなってゆく過程で必要とされなくなくなるであろう事は、早くからほのめかされています。ザッカーバーグとサベリンの態度には最初から温度差があり、早い段階から微小ながらも明瞭な不協和音を響かせている。フィンチャーの言葉を借りれば彼は「想像力が欠如している」のであり、一見被害者に見える彼も又、「ザッカーバーグを傷つけている」事になるのです。 ちなみに当のザッカーバーグは、原作の取材も映画製作時の取材も全て拒否し、原作にも映画にもフェイスブック側は一切協力していません。しかし、彼は映画館を貸し切って社員と共に映画を鑑賞。その後スタンフォード大学で行われた講演で、映画について「社会的地位を得るためにフェイスブックを立ち上げたように描かれている点は事実と異なる」と指摘し、「俳優が着ているシャツやフリースは僕の着ているものと同じ」と認めたそうです。 実は、主役を演じたジェシー・アイゼンバーグのいとこはフェイスブックの社員。そのまた聞きでは、アイゼンバーグの演技について、ザッカーバーグ本人が「なかなか良かった」コメントしたとの事です。 |