文豪フィッツジェラルドの短編小説を、独自の視点で長編大作に発展させたこの作品は、2008年度のアカデミー賞に最多13部門でノミネートされながら、結局受賞は美術、メイク、視覚効果の3部門だけで、作品賞も監督賞もダニー・ボイルの『スラムドッグ$ミリオネア』が圧勝で持っていきました。この作品がなければ、およそ賞レースのイメージの薄かったデヴィッド・フィンチャーが初オスカーに輝いていたかもしれませんね。 本作は、これまでのフィンチャー作品の硬質なタッチとは少し違っていて、私などは、彼がこんな言葉で世界を語り出す日が来るなんて、かつては思ってもみませんでした。しかし、勿論フィンチャーのことだから、ハリウッド風のウェルメイドな作劇とは一線を画し、過剰な演技や感情に訴えかけるウェットな演出は慎重に抑制し、暖かさや優しさはあるけれどもどこか奇妙なテイストの映画になりました。各場面が優美といえるほど繊細に作り込まれ、作品全体が緻密に磨き上げられた工芸品のような趣を感じさせるのもフィンチャーらしい所です。 摑みにされてしまって、銃弾に倒れた兵士達が起き上がってゆく、逆回しの戦場シーンのイメージが頭にこびりついて離れませんでしたが、これは意図的に狙ったものでしょう。ベンジャミンの死後、この時計がデジタル時計に付け替えられる事によって、物語が象徴的にサンドイッチされているからです。 この映画にどこか寓話的な雰囲気があるのは、外見は老人で中身は子供という主人公の存在の特異性を、周囲の人々がごく自然に受入れてゆくからでしょうか。映画自体も、キャラクターの特殊性にはあまり拘泥せず、それによって普通の(つまり子供から老人になってゆく)人生というのがどういうものか見えてくるという図式に軸足を置いているようです。 デイジーが事故に遭うまでの様々な偶然の重なりを克明に描写する場面、漁船で潜水艦に立ち向かうアクション・シークエンス、雪の舞い落ちるロシアの街角、夜の東屋でデイジーが踊るバレエをシルエットで捉えた映像など、忘れ難い場面は多々ありますが、そのどれもが過去のフィンチャー作品とイメージ的に大きな隔たりがあるのは興味深い所です。 圧巻はやはり、赤ん坊(奇しくも老人として最初に産まれた時とほぼ同じ姿になっています)の姿になったベンジャミンが老婆となったデイジーの腕の中で息を引き取る場面でしょうか。実際の年齢はほぼ同じである二人の姿を対比させた事で、人生というのは結局どちらも同じなのだということを、この美しく、物悲しい映像は象徴しています。 初期のフィンチャーは、世の中を斜に構えて見ているような印象があって、『セブン』の絶望と厭世はその最たる物でしたが、『ゲーム』には乱暴ながらも生の実感を掴もうという気配があり、『ファイト・クラブ』では、これも過激ながらより積極的に社会の解体・再構築の運動を描き、『パニック・ルーム』で犯罪者の心に潜む善良な性向のひとかけをフィーチャーしていったん小休止。 そこだけ時が止まったかのように、過去と現在を不思議な手法で繋いだ『ゾディアック』を経て、彼がこのような方向に進んだとしても驚くには当たらないのかもしれません。面白い事に、ひところの彼が強迫観念に憑かれたかのように強調していた宗教的な視覚モティーフも、前作辺りから目立たなくなっています。 |