おとぎ話の語り口で展開しながら、舞台は現代、アメリカの郊外住宅地に対する風刺も効いた奇抜なファンタジー映画。その年のクリスマス・シーズンに、『ホーム・アローン』と並んで二大ヒットを記録し、今でも愛され続ける珠玉の作品です。バートン作品のイメージに、繊細な傷つきやすさを加えた最初の映画とも言えますが、彼自身、今までの作品では自分の感情を完全に表現する機会を与えられなかったとも語っています。ちなみに本作は、今までバートン作品を手掛けてきたワーナー・ブラザースが興味を示さなかった為、20世紀フォックスで製作されています。 しばしば指摘されるのが、主人公エドワードの「触る物を全て傷つけてしまう男」という比喩的な存在です。彼はそのせいで、人里離れて孤独に暮らしている。そこには、内向的で人付き合いが苦手だった、少年の頃のバートン自身が投影されているようです。そう考えるとこの作品、全くどこまでも寓話として語られているようですね。 冒頭、博士が死んでしまう場面から、映画の絶望的な悲しさは既に始まっています。ところが、ペグがエドワードを街へ連れて帰った瞬間、映画は、絶え間なく漂う物悲しさとコミカルな調子、寓話風のキャラクターと現代世界という、一見それぞれ相反する要素が奇妙でユニークな融合を始めるのです。これは、まるでアクロバットのごとき離れ業。バートンにとっては過去の作品でもやってきた事ですが、おとぎの世界と現実世界のバランスを取るのがいかに難しいか、小説や脚本を書いた事のある人ならよくご存知でしょう。 エドワードが遭遇する人々は、ある種、バートンが育った郊外の住宅地(バーバンク)に住む人々のカリカチュアで、町並みもパステル・カラーで塗り分ける事でデフォルメされています。そして、この閉鎖的な社会に異物として入ってくるエドワードの存在を象徴するように、エモーショナルな場面になると、カリフォルニアにはおよそ似つかわしくない雪や氷のイメージが画面を彩ります。バートンが言うには、カリフォルニアはおよそ季節感の感じられない街で、クリスマスというのは完全にイメージの世界なのだそうです。ちなみに彼は、本作から三作続けてクリスマスが出てくる映画を撮っています。 何が本当に正しくて、何が間違っているのか。『バットマン・リターンズ』に繋がるモラル混乱の萌芽は、既にこの映画に見られます。道徳観念を教えようとするビルに、エドワードが間違った答えを返す場面です。彼の答えは、社会的通念としては確かに間違っていますが、あまりに純粋で、人の心の真実を衝いてもいます。この時、無言でエドワードに向けられるキムの視線は、バートン自身の視線ではないでしょうか。 そしてバートンの映画には、どこかでバランスが崩れている、明らかにやりすぎと感じられる箇所も時々見られます。ラスト近くでキムのボーイフレンドが殺される所は、多くの観客がショックを受け、「映画のトーンが根本的に変わってしまう」と指摘されたシーンですが、バートン自身、奥深い所にハイスクール的な復讐幻想があって、鬱憤を晴らそうとしたかもしれないと認めています。それが彼の作品の魅力だと感じる人もいるのでしょうが、私にとってもこのシーンはやはり、何かが決定的に行き過ぎてしまった、と感じる瞬間です。 |