特異なヴィジュアル・センスを発揮しながらヒット作を連発し、今や映画界の片隅に確固たる自分のポジションを得た感のあるティム・バートン。彼の成功は、業界でも驚きをもって迎えられている。 何しろ彼の映画は、どれもハリウッドのメジャー・スタジオの作品であり、製作には数え切れないほど多くの人々や会社が関わり、あらゆる段階で会議が繰り返され、多くの異なる立場とそれぞれの思惑によって作品の内容が決まってしまう。ところがバートンは自分の映画に、誰が見てもひと目で分かる明確な個性の刻印を押し、その上に何と大ヒットさせてしまう。これが奇跡でなくて何であろう。 映画にアニメーションのタッチを持ち込んだ監督といえば、バートンの少し先輩にジョー・ダンテがいる。ダンテ最大のヒット作『グレムリン』は、バートンのデビュー作より一年前の作品である。しかし、ダンテの映画が、あくまで現実世界を基盤に異物を放り込むか、現実から異空間に入ってゆくケースがほとんどなのに対し、バートンの作品は、はなからデフォルメされた虚構の世界で物語が展開する。 バートンが(一体どうやってか)ハリウッドの財を使って創造した独自の世界は、私達が良く知っているこの現実世界ではなく、その象徴、もしくはカリカチュアであって、そこで展開する物語というのは、結局どうやったって寓意性を帯びざるを得ない。 要するに彼の映画は、全てが嘘っぱちになってしまう、すんでの所で踏みとどまっている訳だが、そういう、極めて危ういバランスの上に立っているにしては、随分と多くのファンに受入れられ、ハリウッドのメインストリームの一端を担っている。少なくとも、一部のマニアに支えられるカルト監督とは言えない。 バートン作品に共通する特徴は、ポップでアニメチックなヴィジュアル・スタイル以外にもたくさんある。ざっと思いつくだけでも、オープニング・タイトルがやたらと凝っている、小犬が出てくる、主人公の名前がタイトルになっている(或いは入っている)作品が多い、性的な描写を敬遠する傾向がある、怪奇色とブラック・ユーモア、往年のB級映画的雰囲気とゴシック・スタイル、モラルの混乱、アウトサイダーの孤独と鬱屈、エリートへの反発などなど。 彼が、脚本をほぼ執筆していない点は要注目である。『シザーハンズ』と『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』は彼の原案だが、撮影シナリオはやはり他のライターにまかせている。にも関わらず、それぞれの作品におけるバートン色たるや、尋常の濃度ではない。勿論、映画製作においては、監督と脚本家が早くから一緒に仕事を進める場合も多いが、それでも全ての監督が脚本に自分の個性を強く刻印しているかというと、そうではない。 バートンの言葉には、そのヒントが隠されている。「脚本を自分で書こうが書くまいが、自分で書いたように思わなきゃいけないんじゃないかな。脚本は視覚化のプロセスで絶えず変化してゆく、有機的なものなんだ。そこから僕は、自分が必要としている物を引き出す。映画を作る時は、俳優たちにすごくたくさんの事を負っていて、色んな事がガラッと変わっちゃう事もある。そうなる事で生じる刺激が、僕は好きなんだ」。 この言葉には、バートン作品が広く受入れられる秘密の一旦が垣間みえる。彼は、人付き合いの苦手なオタク監督のように見えて、その実、スタッフやキャストと心の通い合っている部分がある。それが、観客にも伝わり、ある種の普遍性を得るのではないか。 それに、彼はただ自分の趣味性だけを極めようとしている訳ではないようだ。次の言葉は注目に値する。「金を払う人たちに対してはいつも責任を感じている。例え低予算映画であっても巨額の金が掛かってるんだから、絵を描いてるのとは違うんだ。努力して人々が見たいと思うようなものを作ろうとしてるよ」。 |