アメリカ人なら学校で習っていて誰もが知っているという、ワシントン・アーヴィング作の『スリーピー・ホロウの伝説』を、『セブン』の奇才アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーが大胆に脚色。製作総指揮にフランシス・コッポラの名前がある所をみると、最初はコッポラ作品として準備が進んでいたのかもしれませんね。面白いのは、特殊メイクのアーティストであるケヴィン・イェーガーが原案と共同製作に名を連ねている所で、いくら首がバッサバッサ飛ぶ映画とはいえ、異例の製作スタイルと言えなくもありません。 私は原作を読んでいませんが、様々なライターや評論家の記述を総合すると、原作では超常現象は起こらない。連続殺人もなく、実は首なし騎士は、村の不良リーダーのボーンズ(映画版でキャスパー・ヴァン・ディーンが演じているブロム)が仕掛けたイタズラという事になっています。つまり原作では、都会からやってきて洗練された物腰でカトリーナの関心を得るイカボッドが、地元の若者に撃退される話になっているのが、映画では逆転している訳です。 映画のイカボッドは、極端な恐がりではありますが、イヤミな都会人としては描かれていない。そして首なし騎士は本当に登場し、ブロムは無惨に殺されてしまいます。これは、『シザーハンズ』で運動選手が殺されてしまう場面に通じる感覚ですね。ミステリー仕立ての因果関係があり、主人公が殺害に加担しないという違いはあるものの、狭い地域社会でちやほやされている人気者が、外部から来た者に冷たく当たる度量の狭い男で、罪悪人のように切り捨てられてしまう点は共通です。この一面的な見方は、程度こそ違えど『チャーリーとチョコレート工場』でのエリートに対する理不尽なほどの敵意にも繋がっているように思えます。その鬱屈加減はまあ面白いと言えなくもないですが、個人的には、それらを見てスカッとする事などあまりないのも事実。 本作が、どこか今までのバートン作品と違ってよそ行きの顔をしているように見えるのは、アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーの脚本ゆえではないかと思います。都会的でシリアスでリアリスティックな作品を多く手掛けるウォーカーは、考えてみればバートン的なものから最も遠い所にいるライターだと言えなくもありません。ユーモラスながらいささか浮いた感じのイカボッドの人物造型や、彼の母親が登場する幻想的なイメージ・シーンは、バートンが後から付け加えた要素のように思えます。 ストーリーがミステリーとしてがっちり構築されているのも、バートン作品としては例外的に理が勝った印象を与えます。こうなってくると、随分おかしな話ですが、バートンの映画はある程度ドラマツルギーが破綻していないと、“らしく”ないという事になりますね。もっとも、彼が愛するハマー・プロのホラー映画らしいムードは濃厚に表出されています。『バットマン』以来、久しぶりに英国での撮影を敢行している事も、画面に影響を及ぼしているでしょう。 ちなみに、クライマックスの風車炎上シーンは『フランケンウィニー』のそれと呼応しあっていて、これは31年作『フランケンシュタイン』のクライマックス、そしてディズニーの『風車小屋のシンフォニー』へのオマージュでもあります。そもそも、バートンを最初にアニメの道に向かわせたのは、49年にディズニーが製作した11本目の長編『イカボードとトード氏』の騎士出現シーンで、これは前半部が『スリーピー・ホロウの伝説』のアニメ化だという事です。 |