マイケル・クライトンの原作を画期的なコンピュータ・グラフィックス技術で映像化した話題作。“スピルバーグは、この映画を撮るために生まれてきた”という大仰なコピーは印象的でしたが、本編の内容がほぼ分からないこの予告編にも、何やら映画革命的なムードが濃厚に漂っていました。スピルバーグの新作がかつては纏っていたイベント性の高さを久しぶりに感じて、当時とてもワクワクした事を思い出します。まあ今から思えば、この映画を作るために生まれてきたと言われては彼も不本意でしょうが、彼にしか作れない革新的なフィルムではあったし、スピルバーグ映画としては久々の大きな社会現象という印象でした。 物語に関しては、先史時代の生物を描こうという時に、見せ物小屋での公開から想定外のトラブルによるパニックという流れはお約束の展開でもあり、科学技術による恐竜の復活、テーマ・パークのアトラクションという現代的なアレンジこそあれ、決して目新しいストーリーとはいえません。しかし、CG技術と実物大の油圧式可動モデルを併用して描かれた恐竜達の姿は当時、本物にしか見えないほどリアルに感じられましたし、CGという手法が実写映画において、それも長時間に渡って、リアルな生命体を画面上に描きうるという現状を、本作で初めて認識できた意味は大きいと思います。 演出面では、『インディ・ジョーンズ』以降のスピルバーグがどこかしら生彩を欠いた事もあり、ここでの何かが吹っ切れたようにダイナミズムに溢れた描写力は圧倒的です。特に、ヒッチコックの影響が強い初期作品のタッチを彷彿させるサスペンス手法や、ユニークなアイデアが冴え渡るアクション演出は、正に水を得た魚のよう。今観ても特に凄いと感じられるのは、中盤のティラノザウルス(以下T-レックス)の登場シーンと、後半、二匹のヴェロキラプトルとの息詰る攻防の場面です。 前者、最初のT-レックス襲撃シーンは、当時私も、思わず劇場から逃げ出しそうになったほど恐ろしく感じたもの。サスペンス演出が上手い監督の映画によくあるのですが、その状況から脱出できる気がまるでしないため、逃げ場の無い展開に思わず耐えきれなくなってしまう、という感じです。ともかくここは、音、映像の両面に渡って、スピルバーグの演出が冴え渡っている場面だと言えます。 まず、彼はここで音楽を一切付けていません。この場面の音楽は降りしきる雨の音だけ。そこに、地響きの様な足音、フロントガラスに叩き付けられる山羊の足、轟々たる恐竜の鳴き声や、子供達の悲鳴が加わり、凄まじい不協和音を奏でるという訳です。さらに映像の方も、懐中電灯の光や双眼鏡の映像などが、強烈なリズムを作り出す。これらの効果音と映像はまるで音楽のようにリズムを刻んでいて、全ての要素がミュージカルみたいに振り付けられています。 さらに彼は、この場面に雨を降らせ、キャメラをほとんど常に車の中に置く事で、閉所恐怖症的な効果を狙ったといいます。いずれも、撮影時には大きな制約となる手法で、事実、撮影監督のディーン・カンディは「機材も恐竜も常にびしょ濡れで故障の危険と隣り合わせだし、足下はぬかるんで撮影は困難だった」と述懐していますが、同時に「降雨機を止めるとスタジオの天井が目の前に表れ、全てが作り物めいて見えた」とも認めています。ちなみにこの、車内から撮影する視点は、『続・激突!カージャック』の撮影監督ヴィルモス・ジグモンドに「意味がない」と却下されたものですが、ここでは登場人物の視点を観客に体験させるという効果によって見事にリベンジしています。 一方、過剰なサービス精神が映画を陳腐にしてしまう場面も散見され、それがファンから「スピルバーグはこういう事をするからダメなんだ」と愛憎半ばする批判を受ける原因にもなっています。例えば冒頭のエピソードで、警備員が恐竜の鼻息に吸い込まれる描写は過剰だし、これほど大規模で危険なテーマパークのセキュリティを、明らかにずさんで勤務態度も悪い責任者が一人で管理しているというのは、全くリアリティがありません。むしろ、優秀なエリート達が失敗する設定にした方が、「自然を人間が管理する事など不可能だ」という本作のテーマをより強調できたのではと思います。ただ、俳優達の登場カットを、まるで恐竜みたいに撮っているのはユニークなアイデア。 |